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2017年11月27日 (月)

「気まぐれオレンジ⭐︎ロード」の話

 おれはもうおっさんなので、今更イコンだの神像だの見せられても、そこに神性を見出す事は難しくなってしまった。それがどんなに精緻精巧であっても、いやむしろ巧緻であればこそなおさら、尽くされた人為を想う。その偶像に託された人々の信仰、込められた信者の祈りは感じても、神の気配は霞んでいく。

 しかし、あの頃は、まだおれも幼かった。

 

 

 

 

 

 なんの話かというと、鮎川まどかの話だ。

 今のおれは擦れたおっさんで、「萌」の心意気はもはや遠い。絵に描かれた美少女の記号をみて、「可愛い」と感じる事はできなくなってしまった。それは概念として理解はできる。しかし心はぴょんぴょんなどしない。そこに投影された消費者の欲望や願望と、プロデュースした側の商売っ気ばかりを感じる。それはそれでおれの好みの味の瘴気なので萌え絵自体は大好きではある。

 余談だが、生身の女性を活用したアイドル商売も同様で、おれには小娘自体の可愛さはよくわからないんだが、そこにぶっかけられるなまぐさい想念の悪臭に惹かれる。しかし、本来は無関係な生身の女性を介する分、不純な気がして落ち着かない。これ気持ち悪いおっさんが描いているんだよな、とストレートにキモオタい粘液を連想させる非実在キャラの方が好きです。

 そんなおれも、素朴に神を感じる、イノセンスを保っていた時もあった。「気まぐれオレンジ⭐︎ロード」に出会ったのは確かそんな頃だ。当時は中学生のヒロインに「素敵なお姉さん」と憧れることが出来る年齢だった。むろん童貞で、要するにまだ女性に夢を見ることができた。より正確に言えば、人間というものに夢を持つことができた年齢だった、と言えよう。本当の意味で実感を伴う、価値があると確信できる出会いや、人とのつながりを、いずれ手に入れることができるとわけもなく確信していた。

 しかし、いまから振り返れば、むしろ逆で、神への信頼を失いつつある時期だったのかもしれない。急速に視野がひろがり、できる事が増えて自意識が肥大する一方、幼児期に体験していた親との圧倒的な関係の実感が急速に失われていく、うすら寒い不安に怯えていたのだと思う。それまで天と地と同義の神々だったはずの両親が、日に日にただのおっさんおばさんの馬脚を現していく恐怖を生き延びるために、新たに信仰を託すに足る女神の存在に恋い焦がれていたのだ。

 

 調べてみると、すでに終わりかけている今年、2017年は「気まぐれオレンジ⭐︎ロード」アニメ化30周年だったのな。全然気がついていなかった。

 おれはアニメから入ったクチだけど、記憶もあやふやだが、本放送は見ていないと思う。「シティハンター」とともに、午後5時台のアニメ再放送枠の常連だったこの作品、おれが見たのは何回目の再放送だったのだろう。その時点ですでに連載も劇場版の公開も終わった過去の作品だったはずだ、こっちは子供だからそんなこと気にしていなかったけど。

 原作の連載は1984年〜1987年まで。kindle読み放題に入っている原作を今読み返すと、なるほど鈴木英人ばりのキラキラしいカット満載で、80年代のちょうどど真ん中にふさわしい能天気さである。おれが原作読んだのは、ずいぶん後になってからのようだった気がするが、おれは正直80年代のふざけたノリが大の苦手で、だから原作も苦手だった。つまり、時代精神を表現しようとしていた原作漫画がそれは見事に仕上がっていた、ということだ。手堅い職人が計算しつくていい仕事をした、素晴らしく完成度の高い作品だったと思う。

 だから、おれはアニメ派、というべきなんだろう。でも、実のところ、アニメの方もそんなには、ね。主人公の春日君の言動にイライラして、途中でチャンネル変えちゃったりすることの方が多かったな。なんで今更、おれはこの作品の話しているのかな。だんだん不思議になってきた。

 

 あえてその理由を探すなら、鮎川がサックスを吹いていたからだ。

 原作の鮎川さんは、連載開始当時人気アイドルだった中森明菜をモデルにしたという話を聞いたことがある。おれは世代的にずれててその辺ぴんと来ないんだけど、アニメでも鶴ひろみさんの演技は中森明菜に寄せていた、ということらしい?

 でもそうじゃない。それじゃダメなんだ。

 授業をふけて、ひとけのない薄暗い音楽室、テナーサックス抱えてメランコリックなジャズを吹いている。誰に聞かせるためではなく、ただ自分自身の為に。それがおれにとっての鮎川まどかなんだ。たとえ不良少女っぽさをセールスポイントにしていようと、高いステージに登って厚化粧してスポットライト浴びて満席の聴衆に向かって歌を歌う、そんなテレビの人気者だったら、おれは微塵も興味を持てない。

 たった一人、孤独だけど独自の世界を持っている。その内面は繊細で豊かで、他者の承認を必ずしも必要としていないたくましさがある。でも、その世界の色調は物悲しいのであって、やはり寂しさは去らないのだ。

 そのバランスが絶妙で、おれはだからアニメ第1話に登場したサックスを吹く鮎川まどかが大好きだった。原作に皆無のサキソフォン要素加えたアニメスタッフ最高だし、じゃあなんで後半サックス出さなくなっちゃったのよと残念でもある。

 おれはあまり熱心な視聴者では無かったし、やっぱりファンでは無かったと思う。鮎川まどかのことが好きだったのかどうかさえ、正直微妙である。原作漫画に到っては無視に近い扱いをしてきた。でも、それは実は、鮎川まどかのファーストインプレッションが良すぎたからで。ジェームス・ディーンの少女版みたいな怒れる孤独を、おれはきっと愛していた。その少女が、ぐずぐずと可愛らしくふやけて陳腐なラブコメディの中へ溶け去っていくのを、おれは見ていられなかった。劇中、どんどんサックス演奏シーンが減っていくのは、彼女が次第に社会と折り合って居場所を見いだしていくという描写なのだとしても、だからこそおれは嫌だった。タバコ吸って不良と殴り合って「ピックのまどか」と異名をとる、あの抱腹絶倒の幼稚な孤高を、おれは失笑しながらも大好きだった。

 

 大動脈解離は激痛を伴う、と聞いた事がある。そして急激な血圧低下のために、数秒で意識を消失する場合もあるという。

 その人は、その数秒を、高速道路走行中の自分の車を路肩に安全に駐車し、ハザードランプを点灯することに使った。激痛に耐えつつ、後続車両の安全を人知れず守った。それが、その生涯の最後の行動だった。

 おれはその訃報を遅れて知った。2017年11月16日。鶴ひろみさん、享年57歳。

 

 御冥福を祈る。しかし、おれはその人の事は知らない。名前は聞いた事がある有名人。いくつかの役が印象に残っている。それだけだ。

 多分、死を悼むのとは異なった種類の感慨が、おれを捉えていた。その時、30年越しで「気まぐれオレンジ⭐︎ロード」がおれの中で完結したのだ。

 そう、あの第一話の「ピックのまどか」なら、きっと。こういう最期を迎えたに違いない。

 役柄と中の人をゴッチャにするなど、子供っぽすぎる。鮎川まどかは鶴さんの数多い役の一つでしかない。そんなことは分かっているが、当時、おれは子供だった。本当に子供だったんだよ。その頃の気持ちが、鶴ひろみという名前を聞いて、疼いてしまう。

 当時のラブコメのお約束に呑まれて、愚にもつかない可愛い女の子にされてしまった鮎川まどか。まともに輝きを放つことが許されなかった彼女の、本当の最期が演じ直されたように思った。解放された。おれはそう感じたんだ。

 

 鮎川さんのインパクトは強烈で、その後のヒロインの一典型をつくったようにおれは勝手に思ってる。

 「WHITE ALBUM2」の冬馬かずさは明らかに鮎川まどかの再生だとおれは思っているし、しかもアニメ版の鮎川さんだよねと確信しているんだけど、つまり「WHITE ALBUM2」の直系の子孫である「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」の雪ノ下雪乃さんもまた、鮎川さんの直裔ですよね、と誤った家系図を脳内に描いている。

 「響け! ユーフォニアム」の高坂麗奈もまた、アニメ版鮎川の生まれ変わりであることは明白だと思う。

 実は、鮎川まどか的な黒髪ストレートロングのミステリアスなクールビューティって、少女漫画では割と昔からよくあるキャラだったように思う。ライバル系キャラとしては金髪縦ロールお嬢様系に次ぐ頻度ではなかったか。統計的根拠など皆無、おれの印象に過ぎないが。

 序盤に登場する強キャラで、フェミニンなルックスの割に言動はクールでマスキュリンで、最初は対決するけどそのうちに主人公と認めあって親友になる、みたいな。百合版ツンデレキャラ。ちょっと違うけど「魔女っ子メグちゃん」の郷ノンとかがその系統だと思うんだ。ストレートヘアじゃないし、青髪だけど。

 アニメ版の鮎川まどかさんって、長らく少女漫画で親しまれていたそういう定番を、男性の性的対象として取り上げ直した点で、画期的だったという気がする。あくまでおれのせまい私的漫画史の中での話なんで、詳しい人がいらしたら御指導賜わりたい。

 だから久美子ちゃんとの関係の中で描かれる高坂麗奈をみて、おお原点回帰だ、という感銘を深くうけた。

 原点回帰というなら「まどかマギカ」のほむらちゃんもそうじゃねェかという気もするが、あれは一捻りしてあって、ほむらちゃんの正体が本来病弱で自己評価の低いドジっ子で、主人公鹿目まどかに並び立てるようなクールビューティ系ヒロインにあこがれて、そういうキャラのコスプレをしてるだけ、という構造なんだよな。つまり女子中学生が「かっこいい」と憧れる、一度なってみたいヒロイン像の一典型として、鮎川まどかタイプって普遍的だよね、という共有が既にあるものとして書かれている。

 西尾維新は物語シリーズの戦場ヶ原さんについて、ツンデレという類型をあえて戯画的に描いてコント化を試みた、みたいな事をどっかで言ってた気がする(あやふや)けど、化物語が書かれた当時、既にツンデレといえば黒髪ストレートロングのクールビューティというパターンが代表的だったということなんだろう。鮎川の相手役春日恭介も双子の妹がいたしな。戦場ヶ原さんにも鮎川の遺伝子が受けつがれていると言えるのではないか。

 

 などという戯言はどうでもいいんだよ。どうせおれの考えることだ、間違っているに決まっている。そういうことじゃない、問題なのは、おれ自身だ。こんなにも鮎川まどかのかけらを探してしまう、おれの思いの話をしたいの。

 未練なんだ。ずっと諦めきれなかったんだ。おれの中で生まれ、育つことも生きることも、もちろん死に遂げることも許されなかった鮎川まどかは、どこにも決着がつかぬまま、そのカケラだけがばらまかれてキラキラと反射しているのだ。

 でも、ついに消息が分かった。確かにあの木曜日、鮎川は逝った。宵闇に包まれて、誰一人看取るものさえない車中、ウィンカーレバーに手を掛けながら息を引き取った。孤独で、謎めいて、優しくて気高い。間違いない。まさに鮎川だ。

 

 鶴ひろみさんは芸能人であったが、その死は演技ではない。その死に、まるで芸術作品に対するかのように観賞の姿勢をもって感銘を受けることは、あるいは死者の冒涜であるのかも知れない。その点、私のあずかり知らぬ他人であるその女性の、私人としての部分に大変申し訳ない気持にもなる。

 しかし、そんな倫理観を押しのけても、当時彼女が演じた鮎川まどかの存在感が胸に迫る。その声がおれの中にともした鮎川まどかというともし火が、おれをキャラと声優の区別もつかぬ程にのぼせ上ったファンの小僧に。

 鶴ひろみさん。本当にありがとうございました。

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