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2016年11月23日 (水)

「秒速5センチメートル」のネタバレ感想

先日「君の名は。」を見てから、新海誠作品をhuluとかで見直していた。

その中で抜群に気に入ったのが「秒速5センチメートル」。実はこれ、今回初めて見たんだけど。すごく好き。いや、これは本当に好き。毎晩のように繰り返し繰り返し見ている。

以下は例のごとくネタバレ全開の感想なのでご注意。

 

 

 

 

 

 

恋愛とは、まっしぐらに死へとむかうことなのだ。

この作品が言っているのはそういうことだと、おれは誤解してる。

恋愛とは人間関係の極北、それが成就した暁には、もはやそれ以上、一歩だって関係が進む余地はない。そこで終わり。全てが滅びる終着点なのだ。

それが第一話「桜花抄」の、13歳の3月4日深夜のキス。

 

「その瞬間、永遠とか、心とか、魂とかいうものがどこにあるのか分かった気がした」

 

本当に最高のtrue love kissだよね。完璧すぎて、世界中探したって、ラブストーリーでこれ以上の「ハッピーエンド」はありえないのでないか、とおれは思った。これで、普通のラブストーリーなら、そこでエンドロール行くでしょ。二人が幸せなキスをしたんだ、終了以外の選択肢が物語にあるか。

果たしてその通り、もしこの作品が「桜花抄」だけで終わっていれば、おれの凡庸な想像力は、いずれ貴樹と明里が再会して幸福に結ばれる未来しか空想しなかったに違いない。そういう甘ったるい二次創作とか書いちゃったりしたかもしれない。

 

しかし、「めでたしめでたし」の後にだって時間は流れるよね、人生は続くよね、という話なんだ、この「秒速5センチメートル」は。

おとぎ話なら「そしてみんないつまでも幸せに暮らしました」で幕を下ろし、登場人物は迷うことも、苦しむことも、過ちを犯すこともないのだろう。

しかし、おれたちは生き続けるし、つまり、堕ち続けるのだ。

第一話のラスト、貴樹くんが「手紙書くよ、電話も」と約束し、「彼女を守れるだけの力がほしい」と、強く祈る。しかし約束は古ぼけ、祈りは朽ちる。

だって、生きているのだから。

 

「ワンダフル・ライフ」という本がある。スティーヴン・グールドという古生物学者の書いた、生物の進化についての一般教養書である。

そう、小学生時代の貴樹と明里が、マクドナルドで語り合っていた本だ。

ここで「ワンダフル・ライフ」持ってくるのかよ、というあたりでおれは打ちのめされる。

いや、「秒速5センチメートル」の作中、その本のタイトルは明言されていない。バージェス頁岩の発見は大きな話題になったから、90年代前半、「ワンダフル・ライフ」のみならずアノマロカリスだのハルキゲニアだのを取り上げた書籍はあっただろう。だからいつものように、これはおれの思い込みだ。誤解だ。

でもおれはそう信じる。わざわざ、ポテトで、のちに訂正される間違った旧復元図でハルキゲニアを描いてみせる明里ちゃんに感じ入る。

これ、実に濃厚な素晴らしい描写だと思った。

「ワンダフル・ライフ」は一般向けの書籍ではある、とはいえ到底子供向けとはいえない質とボリュームで、小学生であれを、しかも娯楽として読むのだとしたら相当な読書力だ。間違いなく少数派だと思う。つまり、彼と彼女が、出会うまでどれだけ孤独だったか、という表現だ。今、同じクラスにいて、同じ本を読み、同じ話題で盛り上がれる喜びがなんと貴重なものか、想像すると目頭が熱くなるように思う。

ただ単に読書力だけの話じゃない。あんなエビともミミズともつかない怪物がのたくるイラストが表紙を飾る本、おれなら女子に勧めない。「きもちわるい」とか言われて、いじめられるに違いないと思ってビビる。でも明里ちゃんは「私ハルキゲニアが好きだな」とか言っちゃうのよ。よりにもよってハルキゲニアかよ。ポテトで象っちゃって、それどうすんだよ、一度はハルキゲニアの足とかに見立てたポテト、たべるのかよ。それで「僕はオパビニアかな」とか言ったら打てば響くように「目が五つあるひとだよね」とか、あー、もー最高でしょ。おれが小学生男子なら絶対好きになってるよね。しかも見た目はロングスカートの似合う楚々とした美少女というギャップ萌え。他の新海作品とくらべても、ヒロインが魅力的という点で「秒速5センチメートル」は抜群だと思う。

でも、彼らの孤独とヒロインの魅力、ただそれだけを表現するだけなら、他の本でもいいんだ。ここで「ワンダフル・ライフ」なのは、もっと大事な意味がある、とおれは思っている。

 

〝悲運多数死”

〝decimation”

 

グールドがその言葉を使ったのはこの本なんだ。

生物は変化はしても進化などしない。全く無目的にその可能性を花開かせ、そして、そのほぼ全てがただ運が悪いだけのことで無為に滅びる。

「ワンダフル・ライフ」でグールドが語るのはそういう思想だ、とおれは理解している。凄まじいのは「より環境に適応したものが生き残る」という原理さえあまり重視しないところで、そんなことより、運の良し悪しの方がはるかに重要なファクターだ、と爽やかなくらい身も蓋もないことを言うのだ。

現代では学説としては否定されているらしい。まあな、収斂進化の実例とか割と目にするしな。

でも、事実として正しいとか間違っているとか、そんなことはどうでもいいんだ。そういう考えの可能性が「桜花抄」に示されている、ということを重要だと思っている。

生物の形態変化が、運動が、生活が、生き抜く力が、思いが、感情が、情熱が、すべて、ただひたむきに行き止まりを目指すだけの無為無駄無意味な死への片道に過ぎぬのかもしれなくて、それはひとえに運次第でしかないのかもしれない。

いま、ここで、貴樹が明里を思うことさえも。その思いが、どこかへ行き着くことなど、どこにも約束されていない。

つまるところ、生きているのだから。

 

それは分かっている、理屈では十分に分かっている、願って努力すれば夢が叶う、そんな都合のいい話なぞ現実にはない。この世には神も仏もフェアリーゴッドマザーもいないのだから。

しかし、それと知りつつも。

 

「それは本当に想像を絶するくらい孤独な旅であるはずだ。本当の暗闇の中をただひたむきに、ひとつの水素原子にさえめったに出会うことなく、ただ、ただ、深遠にあるはずと信じる世界の秘密に近づきたい一心で」

 

仮に世界の秘密があるとして、仮にそこに辿り着けたとして、それがおれの飢えを満たしたものか、実は定かではない。況して、そんな秘密があるものかどうか、深淵を探ればたどり着けるかどうか、知れたことですらないのに。

しかし、おれは一心に、手を伸ばす。必死に、ただ闇雲に空に手を伸ばして、あんなに大きな塊を打ち上げて、気の遠くぐらい向こうにある何かを見つめて。

いや、おれの話ですよ。ごく個人的な話。他の誰かがどうなのか、知る由も無い。

ごくごくちっぽけな個人的な体験において、その満足が約束されぬ飢えに突き動かされるまま、いつか満たされて全ての欲動が飽満で殺される完全な死をこいねがい、一心不乱に突進していく、それがおれの生きるということなんだ。嫌な予感しかしない。口に鋭い銀のフォークを咥えたまま、坂道を目隠しして全速力で駆け下りていくのに似ている。

 

そうして生きてきて。幸い、おれはどこにも行きつきはしなかった。だから、まだズルズルと未練を引き摺って、明日こそはいいことがあるかも知れない、と自分を騙すことができる。

しかし、貴樹くんは出会ったのだ。13歳の3月4日、全き死と。

恋愛の完全な成就=希望の完全な終焉=完全な死。これがすべて「=」で繋がるんだと、端正な映像でシンプルに描いた新海誠の描写力。すごいったらない。

 

第二話「アストロナウト」で、貴樹が宛名を空欄のままに出さないメールを書いている。タイトルは「今朝の夢」。

「異星の草原をいつもの少女と歩く。いつものように顔は見えない。空気にはどこか懐かし」

そこまで書きかけて、彼はメールを消去する。

第二話には数回、そのシーンの直前にも、やたらけばけばしい美しさに満ちた謎の海辺で、明里ちゃんにそっくりな高校生くらいの女の子と貴樹くんが寄り添って立っている謎シーンが挿入されていて、どうもそれが貴樹の見た夢、あるいは心象風景らしいと、この書きかけのメールでようやくはっきりする。

そして、どうやら、栃木で暮らしている本物の明里ちゃんのところには、メールとか出してないらしいことがほのめかされる。

 

「出す宛てのないメールを打つ癖が付いたのはいつからだろう」

 

おれは想像する。

あの異星の草原にいる彼女、貴樹くんの脳内嫁、あれは確かに明里ちゃんがモデルになっているのは間違いないだろう、しかし、明里ちゃんとは完全に別のキャラなんだと思う。

13歳の3月4日の深夜、あのキスの瞬間に、その子は生まれた。それ以来、貴樹くんが恋をしているのは、明里ちゃんではなく、あの異星の少女なんだ。3月5日の始発列車の中で「彼女を守れるだけの力がほしい」と祈った時、その「彼女」とはすでに明里ちゃんを指す言葉ではなくなっていたのだろう。

だって「永遠とか、心とか、魂とかいうものがどこにあるのか」分かっちゃうようなキスだったわけでしょ。「十三年間生きていたことのすべてが分かち合えた」と感じられたんでしょ、まさに、あのキスの前と後とでは世界の何もかもが変わってしまった体験だったわけでしょ。貴樹くんにとっての世界の変化、その差分があの異星と少女のイメージなんだろう。

しかし、実はそれは世界の変化などではない。貴樹くんというごくちっぽけな個人の認識の問題でしかなく、世界は、世界のまま。明里ちゃんも、明里ちゃんのままのはずでしょう、考えるまでもなく。

おそらく、その後のしばらくの手紙のやり取りで、貴樹くん自身も、そのことがわかってしまった。明里ちゃんは、現実を生きる一人の中学生のその女の子は、彼が心に抱いたあの異星の恋人とは違う。完璧でもなく、永遠でもないのだ。彼女には彼女自身の人生があり、貴樹くんのためだけに存在する訳ではない。

貴樹くんがかっこいいよな、と思うのは、そこを弁えて、明里ちゃんに恋々としなかったところだ。おれは真似できない。おれなら、理想の脳内嫁を現実の少女の上に無理矢理に重ねようとして、おぞましいストーカー行為を繰り返したに違いない。

しかし、そこを弁える貴樹くんをして、それでも、彼の眼差しはいつも、明里ちゃんをとおして、そのずっと向こう、もっとずっと遠くの何かを見てしまう。ただ、ただ、深淵にあるはずと信じる、あの異星の少女に近づきたい一心で。

だから、明里ちゃんが、貴樹くんに何を望むとしても、応えてはあげられない。もちろん、貴樹くんの望みも明里ちゃんには叶えられない。貴樹くんと明里ちゃんは、もはや、きっと千回もメールをやり取りしても、たぶん心は一センチくらいしか近づけないだろう。

 

さっきからtrue loveだの、恋愛感情だのと、おれは好き勝手に書いてしまったけど、この映画ではその感情に名前をつけない。ただひたすらその横顔を精緻に描き出すことだけ。

そのひたむきな切り取り方が本当に美しい。 

3月4日。岩舟駅までの両毛線。

 

「電車はそれから結局、二時間も何も無い荒野で停まり続けた。たった一分がものすごく長く感じられ、時間ははっきりとした悪意を持って、僕の上をゆっくりと流れていった」

 

見知らぬ土地の吹雪く荒野で、動かぬ鉄の箱に閉じ込められて。どこに行けず、戻れず、誰にも知らせることもできない。

 

「僕はきつく歯を食いしばり、ただとにかく泣かないように耐えているしかなかった」

 

ヨナが三日三晩大魚の腹中に閉じ込められ、ついに己の無力を悟り神に祈る場面を思い出す。ヨナ書では、その祈りに、全四章のうち丸々一章が割かれている。

 

「淵はわたしを取り囲み、海草は山の根元でわたしの頭にまといついた。わたしは地に下り、地の貫の木はいつもわたしの上にあった」

 

このどうしようもない理不尽で一方的な、自分の能力では、理解も予期もコントロールもできない、コズミックホラーみたいなこの世界の力。すなわち絶対的な他者の力。

そうして、それに蹂躙される暴力的な孤独と不安と恐怖の末に、ついにたどり着いた岩舟駅に、明里ちゃんが待っていてくれる。ちょっと舌足らずな声で、ほうじ茶と手作りのお弁当を勧めてくれる。

そして、雪のふりつむ桜の大樹の下で。

 

「まるで雪みたいじゃない?」

 

おそらく二年前、まだ、毎年の桜を一緒に見られると思っていた頃の会話の再演。ふざけて彼を置いて走りだし、引き離した踏切。振り返って笑った。

 

「来年も一緒に桜、見れるといいね」

 

ずっと覚えていた。そして忘れはしない。ここで今一度繰り返す。きっと来年も、そして、その先も。二人は、いつまでも、また一緒に桜を見ることができる。

この包容と解放と、しかもそれが永遠に続くという示唆。貴樹が、どのように扱っていいか、どこへ持ってゆけばいいのか、わからなかった明里の温もりと魂とは、そういうものだったのではないかとおれは理解している。

この赦し、それもまた、圧倒的に貴樹の分限を超えた理不尽な絶対の他者であろう。

ヒロインが、例えば、女神とか天使とかマドンナとか観音様とか、色んな作品の中でしばしば宗教的な超越者に喩えて讃えられることが少なくないと思う。あるいはルドルフ・オットーならばヌミノーゼとかいう造語を使って彼女たちの在りようを表現するのかもしれない。

しかし、それは彼女たちが本当に超越的な絶対他者だから、とは限らないだろう。ヒロインの存在がそのように見えてしまうのは、見る側の、少年の立つ場所の問題なのではないか。そう看破して、貴樹くんのひとりよがりが倚る立脚点の絶妙な偶然を容赦なく描き出す点で、この「秒速5センチメートル」はすごいと思うんだ。

たとえば明里ちゃんの方からしてみると、この岩舟駅の再会はそこまで神秘的な体験ではない。だってあの夜、岩舟駅は明里ちゃんにとっては自宅最寄りの駅でしかない。彼女の方は多分、いつだって自宅に戻れたはずだ。彼女があそこであの時間まで待っていたのは、彼女自身の主体的な選択なのだ。貴樹くんみたいに、不条理な絶対他者に振り回されたと体験ではないはずだ。

 

おれの想像では、貴樹も、あの夜の意味が二人の間で食い違ってしまっていることを自覚しているのだと思う。

第三話「秒速5センチメートル」で描かれている明里ちゃんの姿は、貴樹の空想なんだとおれは理解している。

新海誠作品でしばしば見られる、男女が声を合わせて同じセリフを言ったり、あるいは一つ文章を男女が交互に、求愛する丹頂鶴が鳴き交わすようにして語ったりする演出。「君の名は。」では冒頭から炸裂していたアレだ。おそらく二人が真に通じ合い一体化しているという表現なんだろうけど、この「秒速5センチメートル」ではこの演出が一回だけある。第三話、本当にラスト。

 

貴樹「昨日、夢を見た」

明里「ずっと昔の夢」

 

語られるのはあの岩舟駅の再会の場面。少なくとも、あの瞬間は、二人が本当に融けあって一つになった、と。貴樹は、13歳の3月4日が明里にとっても特別な思い出になっていると空想している。そういう表現なんだと思った。

あの夜、心細くも雪深い夜中の駅で、たった一人で、来るかどうかも判然としない彼を、待ち続けようと、彼女は決めた。迷ったときがなかったとは思えない。いや、はっきりとした悪意を持って流れるその時間の全ての瞬間を、彼女は迷いながら噛み締めたに違いない。それでも、待とう、と。一秒ごとに決断し直したのだろう。二人の間に立ち塞がる全ての雪に向かって「まるで雪みたいじゃない?」と言ってやるために。あの春、共に桜の舞い散る花びらの速度を測った。あの時間、記憶、約束は、今も彼女の中で鮮やかに色づいていて、この雪も、二人を引き裂く現実の全てを象徴するかのようなこの雪さえ、あの記憶を蘇らせるよすがにすぎないのだ、と。

少なくとも、あの夜の彼女はそう思っていてくれたはずだ、と貴樹が信じてくれているのだと思った。彼女の思いを、待つ身のつらさを、彼が決して軽んじてないのだと感じて、おれは嬉しかった。だから、明里が、貴樹ではない愛する男性を見出して、幸せな結婚をする健康な大人の女性になっていく描写、これは事実というより貴樹の想像なのではないかとおれは思っている。あの夜待ち続けた彼女の勇気と覚悟の強かさに、貴樹の抱いた信頼と尊敬が、そういう「きっとこれからも大丈夫」な成熟した女性とのイメージとして表れるんだろう、と。

しかし待つ身のつらさと、待たせる身のつらさは、自ずから違うものなんだ。貴樹は明里の健康な成熟を信頼しつつ、自身はそんな大人にはなれなかった。

だって、明里は結局、あのどうしようもない無力感に晒されなかった。赤ん坊みたいに絶対他力本願で、物言わぬ不気味な時間の流れに身を委ねた体験をしなかった。だから、二人の再会を奇跡のような救いとして体験することもなかった。つまり彼女はあの夜、ついに運命に出会うことはなかったのだ。

所詮、明里が体験したのはものすごくドラマティックな初恋でしかない。甘酸っぱくてほほえまして、何だか切ない、要するに素敵な思い出だ。しかし、貴樹の体験は全く違う。まともな人間なら生涯に一度だって経験することはないだろう回天の体験、とおれは思う。比するとすれば神の声に打たれて落馬したサウロの回心。

だから、明里には、彼のその運命が、しかしオパビニアのようにどこにも行き着かず滅びる定めにあったことも、知る機会がなかった。

しかし、貴樹は思い知る。世界の秘密が深遠にあるはずという信念と、そこに近づきたい一心を。その上、その思いがどうしようもない不可能の中で、日々弾力を失っていくしかないことを。そして、ある朝、かつて、あれほどまでに真剣で切実だったそれらが、きれいに失われていることに、彼は気づくのだ。

 

もし、13歳の3月4日があんな風に完璧ではなかったら。

例えば電車が時刻表通りに動いて、二人が約束通りに会って、想定通りに手紙交換して別れを告げられていたら。貴樹くんの心の中にあの異星の少女は誕生しなかっただろう。宇宙の深淵とか世界の秘密とか、そんな遠くを一心に見つめてどこまでも突き進む、彼はそんな孤独を知らずに生きていけただろう。

そしたら彼はもっと能天気な少年に育ち、夏休みとかを利用して明里ちゃんを訪ねて行ったりとか、のんきに遠距離恋愛を楽しんだりできたかもしれない。二人は気軽に喧嘩したり、時々浮気しあったり、あるいは結局別れてもっと素敵な異性を見つけたり、もっと豊かで穏やかで、陳腐な青春を送れたのかもしれない。

おれはそんな想像をしている。

その方がありそうなことだと思う。

永遠とか、心とか、魂とか、それらがどこにあるか知る機会など、我々は幸いにして絶対にえることはないのだ、と、おれはたかをくくっている。どんなに真剣に生き、人に真心を持って接し、誠実に世界と向き合ったところで、どうせなにものとも出くわしたりなどしない。人と思いが通じ合うことはないし、誰かを理解したり、理解されたりすることなどない。だからある夜を境に世界がガラリと変わってしまう心配などいらないのだ、と、おれは、自分にそう言い聞かせて、貴樹の渇望からも孤独からも無事逃げおおせて、安閑とした人生が送れるものだと決め込もうとしている。

 

そう、もし電車が定刻に到着する、ただそれだけで、そうなっただろう。でも、そうだとしても、それはただ明里ちゃんとの関係の上だけでの話だ。

おれは慄然として思うのだ。それでも、やはり、おれたちはいつかうっかり遠くを見てしまう可能性を否定しきれないんじゃないか。雪で電車が二時間立ち往生する程度、珍しくもない。しかし、その程度のアクシデントでさえ、貴樹を遠く異星の少女へと導く契機となった。仮にここを無難にしのいだとしても、我ら人類、ひょっとしたはずみで世界の秘密を求めて深淵へと離陸していくかもしれない、その傾きを拭い去ることはできないのではないか。

その深淵は、そのとき形を変えてはいるかもしれない。貴樹をとらえた異星の少女の姿ではないのかもしれない。しかし、やはりどうしようもなく遠く、届きっこないほどの遠く、あの少女の暮らす異星と大差ないほどの遠くであることは、おそらく間違いないのだ。

結局、おれたちは、オパビニアの5つの眼柄の上に深宇宙探査船の眼差しを生やした生き物なのだ。どこかにたどりつけるまでの間、生き延びることさえできないのに、世界の深淵に近づきたい一心で暗闇を突き進んでしまうのだ。

 

だから第ニ話のサブタイトルが「コスモナウト」なんだと思う。

澄田花苗は、どこか貴樹と精神的に似ている。あの3月4日以降の貴樹と。二人とも、水素原子一つにさえ滅多に会わぬ真空を往く、孤独な旅人なのだ。

この少女が第ニ話の語り手だというのが、おれはものすごく好き。貴樹と明里のこれまでの歴史となんも関係ない第三者、いわばこの子はおれの代理人なんだ。

花苗は、遠野くんが自分を見てなんかいないことに傷つく。でも、それは確かに傷つきなんだけど、だからこそ、と分かってしまう。

だから、自分は、彼が好きなんだ。

彼が決して自分を見ない。その向こうのどこか遠く遠くを見つめていて、やがてその遠くを指して行ってしまうだろう。自分はもうとっくにそのことを知っていた。彼は決して自分の願いを叶えない、彼は自分の答えではない。

 

本当は、遠くに行きたいのは花苗の方だった。世界の秘密が、きっと深淵に潜んでいると信じたいのは、花苗なんだ。でも信じられない。迷う。ためらう。意味も目的も見返りもなく、ただ立ち上がるためだけに波に乗れない。

でも、彼はちがう。遠くから来て、遠くへ行く、彼は違うのだと信じられた。彼はいつも自分の行く先を真直ぐ見つめて、迷いも知らぬようにひたむきで、だから、遠野くんだけが違って見えた。彼は自分とはちがう。ただ遠くに憧れるだけの自分とはちがう、はっきりと目的地を知っていて必ず行き着くことができる人なんだ。

でも、実はそうではなかった。彼もまた彼自身の答えさえ知らない。無論、彼女の答えなどではなかった。遠野くんも分からないんだって、ねえカブ、遠野くんも同じなんだって。でも、彼は迷いながら、悩みながら、それでもその速度を緩めはしないのだった。必死に、ただ闇雲に空に手を伸ばして、あんなに大きな塊を打ち上げて、気の遠くぐらい向こうにある何かを見つめて。その点は花苗とは、確かに決定的にちがうのだった。

打ち上げられる深宇宙探査船のロケットの軌跡を共に見上げて、花苗は、そのちがいに気がつく。彼は行き先を知らず迷ってばかりと言った。それが、行き先を探しているという意味なら、花苗自身がその目的地になる可能性もあった。でもそうではない。彼が、この地上に行き先を求めることなど、もはやないのだ。

それを悟って、花苗は彼に何も言えない。そして、同時にその瞬間、ついに気がつく。自分も別に彼の目的地になりたいわけではなかったのだ。

ただ、そのひたむきな行き方に、憧れたのだ。貴樹が異星の少女に抱く憧れと、多分同種の憧憬だろう、花苗はつゆ知らないけれど。

花苗が、遠野くんの事情の仔細を知らない第三者で、つまりこの子はおれなんだ。おれだけではない、とおれは信じてみたい。花苗の憧れは、おれの憧れ。この憧れは意外に、我ら人類に共通のものだったりはしないだろうか。「存在しないものへの憧れ」。ガブリエル・フォーレは自身が作曲家だったから、それが音楽だと言ったのだろうけど。おれは、花苗は、音楽家などではなくて。

だから、花苗は何も言えず。

でもいつまでもいつまでも、遠野くんを好きなのだろう。ただ彼のことだけを思って、泣きながら眠るんだ。

 

でも、貴樹の中の異星の少女がもはや明里ではないように、泣きながら眠る花苗が胸の奥に抱きしめる面影も、もはや貴樹ではないのだろう。

現実の彼は、そこまで悟り済ましている訳でもなく、水野さんと3年も付き合ったりしているし、多分花苗にもワンチャンあったと思うんだよね、大学進学までの短い期間だったかもしれないけど、彼氏彼女になってそれなりにイチャイチャして過ごせたと思うんだ。心は1センチも近づかなかっただろうけど。

結局、彼はあれほどまでに真剣で切実だった何かさえも綺麗さっぱり失ってしまうことになるのだし、そんな浮沈を経ても、one more time、one more chance、と未練がましく振り返り振り返りして、あの日の続きを探し求めたくなってしまう。

それは存在しない。

おそらく、きっと、それで間違いない。

それでも、いつでも探している、どこかにあの子の破片を。

もうそれはどうしようもないことなんだろう。多分、どこにも行き着かないということはそういうことなのだ。この煩悶と迷いと孤独と寂寥と後悔と……どれ一つから逃れることも、振り切ることもできず、開き直ることも達観することもならず。ただただ、それが繰り返し繰り返し、続くだけなのだ。もうとっくに弾力を失い、真剣なものも切実なものも綺麗に失われたというのに。

 

僕たちはそうやって、何処まで行くのだろう、何処まで行けるのだろう。

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