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2016年10月14日 (金)

「君の名は。」ネタバレ感想

先日、まさにティアマト彗星が降ったとされるその日に、奥さんと二人で手をつないで見に行った。

以下、ネタバレ全開感想です。

 

 

 

 

 

 

とにかく絵が綺麗だった。ラッセンな色使いが輝かしかった。音楽もあってた。

単純に説明してたら、おそらく脈絡なくて支離滅裂に思えるだろうストーリーを、複雑に視点が入り乱れ時間が前後するややこしいプロットにまとめ直し、むしろ細部の辻褄の合わなさを夢独特の非論理性の感覚の表現に生まれ変わらせていたのは見事だった。しかも、それをわかりやすくテンポよく、手に汗握るサスペンスとしても、こころが沸き立つラブストーリーとしても、少女が涙こらえても息切らし走り続ける切ない青春映画としても、何重の意味でも盛り上げる演出の上手、素晴らしい完成度だと思った。

何より、芝居がうまい。主役の二人の演技者がずっと二役を演じ続けるややこしさ、二人が宮水神社本尊のクレーター周囲の土堤でカタワレどき、ついに巡り会うシーンの前後にその精髄が見られる。男性が女役、女性が男役を演じ続ける状態でお互いを探し求め、ついに日が落ちて空が光と闇の半ばの色に染まるマジックアワー。ある一瞬から男性が男役、女性が女役に入れ替わって、そこで違和感どころかますます盛り上がる。その瞬間の動画の芝居がまたすごい。瀧くんのバストアップだけで表現するんだよね、その瞬間まで、求める恋しい人の気配を身近に感じつつも見出すことのできない少女の期待と不安の表情だったのが、一瞬の瞬きで、ついに愛する少女を見出した少年の安堵と達成の表情に変わる。すごい芸だ。いいものを見せていただいたと思った。

 

でも、おれにはあまりピンとこなかった。

テーマが爽やかで前向きで、悪意も憎悪も敵意もない世界。良い人ばっかり出てくるから、おれの感情移入の行き先がないんだ。おれが反応するのは、基本的に「怒り」の感情なんだな。

正直、おれにはこの映画が何を求めて撮られたのか分からない。

見終わって、彼女と食事をしながら、そんなようなこと話してたら奥さんが言った。

 

「私は三葉の怒りを感じたけど。激しい怒りだった」

 

そうなの?

 

「ものすごく怒ってたと思う。妹ちゃんが口噛み酒のプロモーションの提案するじゃない、生写真とメイキング動画つけて宣伝すれば売れるよ、って。あれすごく分かりやすかった。つまりそういうこと」

 

……? どういうこと?

 

「よく人前でやるよね、ってこと。てっしーはいい奴だけど、結局、口噛み酒を神様が「喜ぶに決まってんじゃん」って言っててさ、喜ぶのはお前だろ、ってことでしょ。三葉ちゃんがああやって綺麗な巫女さんの格好させられて踊らせられてんのを、奴は楽しんで見ているんだよ。多分近所のおばさんだと思うけど「お母さんに似てべっぴんさんだ」って言ってる女の人もいて、好意的だとは思うけど、三葉ちゃんの抵抗感を全然想像できていない」

 

三葉が性的な対象として見られてることを怒っている?

 

「じゃなくて、それが嫌なんだ、恥ずかしいんだって気持ちをわかってもらえないのを怒っている。好きではいてるミニスカとかで、好きな男の子がドキドキしてくれたりするんなら、別に全然いい」

 

いいんだ?

 

「させられている、っていうのが問題なの。おばあちゃんにそういうのやらされる。お父さんも「胸を張れ!」とか、わざわざ人目の多いときに名指しでさ。彼女は宮水神社の跡取りの巫女さんで、町長のご令嬢で、二重の意味でプリンセスで窮屈な立場で、きっとずっと人目を気にしてきた。それも障子と襖の日本家屋で、朝おっぱい揉んでたら妹に見られちゃうような状況で。それでもなんやかんや言われてさ。「よく人前でやるよね」ってコソコソ噂していた三人組なんかさ、絶対小学生の時から一緒だよ。あの狭くて濃い人間関係の閉塞感、だれ一人彼女を窒息から救い出そうとしなかった。本当は三葉はみんなの期待通りの女子力高いお嬢さんなんかやってられないと思っている。本当は蹴っ飛ばしてひっくり返してしまいたい」

 

ああ、美術の時間に「あれって私のことだよね」って……

 

「そう、それ。机を蹴り倒して陰口を黙らして、不敵な笑顔で教室ながめまわす。みつはは本当はあれがやりたいんだよ」

 

でも、あの時、彼女の中身は瀧くんだったよ?

 

「だから、みつはちゃんは「東京のイケメン男子になりたぁーいっ」と叫んでいたじゃない。あの子にとっては男子ってそういうイメージなんだよ、チンチンが欲しいとか奥寺先輩に可愛がられたいとかじゃなくってさ。「弱いくせに喧嘩っ早い」、そんな自分になりたいの。勝つか負けるか関係ない、損得を計算して戦うんじゃない、ただ怒りの激情をそのまま吐き出したい」

 

そうか。彼女は誰かに助けてほしいと思ったわけでもなく、愛されたいと願ったわけでもなく、男子になりたいと叫ぶんだった。つまり、瀧くんという少年の存在自体が三葉の一部という解釈?

 

「そうまでは言わない。別々の存在なんだと思うよ。でもあの入れ替わりがなんだったのかは本編でも最後まで明瞭には説明されないし、三葉にとっての瀧くんって、羽川様にとっての障り猫みたいなものじゃないかと思う。三葉自身のストレスの蓄積と解消とに関係あるのかも」

 

怪異かよ。でもそうか、てっしーも「キツネつき」と言ってた。

瀧くんはオープニングに登場以後、本編初登場は三葉の体で目覚めるところからなんだよな。実在しているのかどうか、序盤では疑わしい存在だ。確かに「東京のイケメン男子」という怪異に憑依された三葉の物語、と見ることも……いや、無理があるでしょ。

 

「三葉はでも、結局は「来世は東京のイケメン男子にしてください」と祈るだけ。今生では自分がここを出ていけないことも、机蹴り倒して反抗するなんてありえないことも分かっている」

 

いや人の話聞けよ。

 

「いつかは、いつかは、と思ってて、そんないつかなんて来ないことも分かってて、でも一日延ばしに自分をごまかしている女の子が、突然彗星の落下で死んじゃう。前触れもなく、脈絡もなく」

 

……なるほど、そうか、分かってきた。

でもそんな死は実はそれはありふれたことだ。死は大抵理不尽で唐突で想定外。彼女はある日、打たれるように悟るんだ。自分は死ぬんだ、と。それは絶対に避けられない未来なんだ、と。

 

「そう。このままでいいの?って、きっと三葉は思った。確実なのは死んじゃうことだけなのに、「いつか」なんて来る前に死んじゃうかもしれないのに。例えば大人っぽい素敵な奥寺先輩とデートの約束取り付けたとして、でも、それは他の人の未来なの。そんなこと分かっているつもりだったけど、その朝いつものように鏡に向かって当たり前に髪をまとめて、ああ、それは私の今日じゃないんだな、って、思ってしまったら、もう……涙が止まらない」

 

……そうか。

 

「だから彼女は学校サボって東京に行く。顔も覚えてない、実在さえ疑わしい少年を、しかも都心の雑踏の中で探そうとして。でも三葉は会えば絶対わかると思ってる。あなたに入っていたのは私だよ、私に入っていたのはあなただよね、そう言ってすぐ分かりあえるはずと思っている。つまり、三葉は自分を探しに行ったんだ。ずっといないことにして、見ないふりをしていた自分の一部を」

 

そうか、なるほど。

「君の名は」「お前は誰だ」「彼は誰」って、この映画のタイトルから始まって、幾度も繰り返される誰何は、本当は自問だったのか。自分は何者なのか、と。家族や社会の期待に応えて、世間の要請に合わせて、無難な形を名乗ってきた、でもそれだけが自分なのか。それも自分自身なのは間違いないとしても、一部分にすぎないのではないか、カタワレなのではないか。

隠されて自分自身でさえまだ知らない、自分のもう一方の片割れがあるのではないか。

瀧くんがもう一度三葉に会うために宮水神社の本殿まで行って口噛み酒を飲むシーン。あの時、彼はもう三葉の名前も忘れているのに、「こっちは妹、こっちは俺」って、徳利の場所を覚えてて。

 

「そうだっけ?」

 

そうだよ、瀧くんははっきり「こっちは俺」って言う。彼にとっても三葉は自分自身ということなのかもしれない。

 

「さあ? 瀧くんのことはよく分からないけど。というかどうでもいい」

 

をい。

 

「お母さんいないみたいだし、マザコンなのかなと思ったけど。だから年上とおっぱいが好きなんでしょ」

分析が投げ遣りすぎだろ。

 

まぁ、奥さんの話はおおむね分かったと思う。

おれの奥さんは実は結構いいところのお嬢さんで、頭とお育ちとルックスがいい。三葉さんが劇中で集めるような注目を、奥さん自身が身の上に感じるところもあったのかもしれない。別に瀧くんが中に入っていなくても、後輩女子からラブレターもらうポジだったらしいけど、それでも彼女が三葉さんのものとして語る怒りは、おそらく奥さん自身のものなんだろう。

そう思えばすごく納得いく。奥さんの意見は大変興味深かったし、腑に落ちるところもあった。

それでもやっぱり、おれは、この映画から怒りを感じない。

おれがお嬢様育ちではないから、身に詰まされてはわからないというだけなのかもしれないが、そもそも、おれは三葉の環境をさして閉塞的と感じない。口さがない連中はいるとしても、ちゃんと信頼して発電所爆破まで付き合ってくれる友人達がいる。お父さんだってきびしいにしても悪意は感じないし、無関心という訳でも無い。何より、一葉さんの薫陶がある。

素晴らしいのは「マユゴロウの大火」の設定で、200年前の火災で死海文書がすっかり焼け落ちたというのだ。初期作品では庵野フォロワーのイメージの強かった新海監督が、その影響の残滓を焼き払った瞬間といえよう。

文字は失われても伝統は残る。意味は失われても形は受け継がれている。このことを理屈でも教条でもなく、手を取ってなぞらせるようにして辛抱強く、神楽舞や組紐の、具象の美の継承を通じて、体験として教える。

 

「そうやってずーっと糸を巻いとると、じきに人と糸との間に感情が流れ出すで」

 

一葉さんがかっこいいところは、世代間伝達を明確に意識しているところで、つまり自分の限界と人の世の矩と理をわきまえたところ。あの市原悦子の語り口自体が、孫娘たちに絡まってつながり、あるいは途切れ、ときに戻って、そしてまたつながる、寄り集まって何かを形作っていく、結び。結びは産霊。自然とわきだし、流れ出すものを肯定する。理屈じゃないんだ、ここより先のかくりよを支配するのは夢の論理なんだ、魔術の時間なのだ、喋々する知性化なんざどうでもいい。このふてぶてしいまでの、自ら何かを生みだすという力への自信。

理想的な母親像だろ。と、おれは思う。

目の前に一葉さんがいる。いずれ、数十年後、自分もこうやって老いていくのだ、と、やすやすと信じることができるだろう三葉が、閉塞状況にあるとはおれは思えない。むしろ、理由も目的もない虚無の不安から解放された自由を享受しているかに見えるくらいだ。累代の宮水神社の伝統、これだけの力と知恵と愛情のつながりの中で確かな位置を保証されてて、一体何が不満だというのか。確かに同級生の陰口とかやっかみとか、父親とのすれ違いとかあるとして、でも、そんなのうつしよのほんの一瞬のことに過ぎないじゃないか。

 

おれは高校生の時、都会派の男子で、まぁ瀧くんみたいにイケてたとは言わないけどさ。だからさ、図々しいけど、瀧くんのものの感じ方はおれに近いんじゃないかと想像する。

だから、彼が宮水神社の隠し本尊までおばあちゃんを恭しく背負って行って、神妙に口噛み酒を奉納する気持ちがわかる気がするんだ。三葉には当たり前すぎて、あるいは甘えた変な反抗心みたいな屈折があって、素直に受け取れないおばあちゃんの偉大さとありがたさをしみじみと受け取ることができる。

口噛み酒を飲んだ後にも、三葉が生まれて、愛されて育まれていく様子を幻視するのは瀧くんなんだよな。冷たく厳しい、と見えたお父さんがいかに深く亡くなったお母さんを愛していたか、その愛情から三葉と四葉の姉妹が産み落とされたのだと知って。そして、お母さんを失ったお父さんの傷つきも知る。瀧くんが、だ。

そう、奥さんの言う通りだ、確かに三葉は閉塞感に苦しんでいたのだろう、解き放たれたいという怒りを溜め込んでいたのだろう。そして、三葉は、瀧くんのおかげで机を蹴り倒せる。お父さんの胸ぐら掴んで「バカにすんな」と叫べる。そうやって溜まった鬱憤を解消できる、自分は責任を知らない形で、むしろこっちが被害者だと自分に言い訳できる形で。

三葉がしたかったこと、しなければならなかったこと、でもできなかったことをみんな瀧くんがやってくれてる。都合がいい男すぎるだろう、瀧くんは。

 

瀧くん自身は父親との関係って、わずかに描写される限りではごく温和に家事分担をしあって普通に会話もあって、父と息子の距離感としては健全なものだと思った。結構イケてる感じの同性の友達もいる。十分な自己主張ができてて、そしてある程度それが通じているという実感も持ってる感じだ。友達と楽しく遊んで、忙しくバイトして、バイト先の綺麗なお姉さんにほのかな片恋して、充実したリアルを生きる瀧くんには、「来世は山奥の美少女巫女にして下さぁーいっ」などとアホな妄想を叫ぶ理由はない。

そうなんだよな。この入れ替わりに宮水神社の巫女の血筋の力が働いているのはわかったよ。じゃあ、瀧くんの方はどうなんだ。なぜ瀧くんなんだ?

 

「瀧くんのお母さんが宮水の家の人とかだったりしたのかな?」

 

うわ、びっくりした、おれ口に出してた? って言うか、まだ奥さんとの会話シーンつづいてたのか。

でもそんな設定あったっけ?

 

「ないけど。でもそんな可能性がないとも言ってなかった」

 

ラジオの時間みたいなこと言いだした。

おれはもっとシンプルに考えている。

全ては3年前の10月3日から始まったんだ。

それまでの数週間「存在しない美少年と週に何日か体が入れ替わる」という妄想に取り憑かれて奇行を繰り返していた宮水三葉が、東京を訪れた。そして、たまたますれ違った人たちの中から、彼女は自分の好みのタイプの少年を選んだ。それがつまり立花瀧くんだ。

彼女の能力は体を入れ替えることではない。未来予知と催眠暗示なんだ。

映画のファーストシーン、彼女は隕石の墜落を、自分の死を予知した。それは受け入れるにはあまりにもシビアなビジョンで、彼女は自分に催眠暗示をかけることで現実から逃避する。危険と不安から彼女を救ってくれるヒーローをイメージして、彼を強引に自分の人生の中に登場させた。だから彼は、隕石からももちろんだけど、さっき書いたみたいに机ひっくり返したりおばあちゃん背負ったりとかして、三葉の普段からの不安やストレスからも救おうとしてくれる。

そして、いよいよ煮詰まった10月3日、三葉は適当な少年を一人選んで、まじないをかける。名前を名乗って、ずっと自分の髪を結ってきた組紐を彼に渡す。いかにも魔術的ではないか、おそらくそれが符咒の完成のための最後の手続きだったのだ。そして、彼は呪いに捉えられた。彼はその組紐に縛り上げられて自発的な心の自由を失い、彼女の理想の王子様に作りかえられて生きていくことになった。

 

「あの時、でも三葉は知り合う前の彼の名前を知ってた。「瀧くん、瀧くん……覚えてない?」って呼んでたよ」

 

可愛い声出すな。

違う、瀧くんが初対面の女の子に名前を呼ばれた、という記憶を持っているだけだ。それさえも作られた記憶なのかもしれない。

 

「じゃあ二人は入れ替わったことなどない、と」

 

さっき君もそう言ってたじゃないか。障り猫の伝承のオチは「実は何も取り憑いてなどいなかった」だっただろう?

「瀧くんは操り人形だと?」

 

そう。記憶を操作され三葉の思い通りになっただけ。

 

「10月4日、片割れ時にクレーターのへりで、二人は出会ってない、と」

 

そう。

 

「えぇー……」

 

いや、間違った解釈だからね? 自分でもそう思っているからね? どうせおれの言うことだ、いつものように間違っている。

 

「入れ替わらなくても三葉が助かるなら、別に瀧くんを呪術に巻き込まなくてもいいんじゃない?」

 

その通り。確かに合理的に考えればその通りだけど、そうやって理屈っぽく考えてしまうのが素人の浅ましさ。

 

「何の玄人なんだよ」

 

どうしても瀧くんを巻き込まなくてはいけないのは、彼女が10月4日、走りきるためには右手のひらに「すきだ」とマジックで書いてある必要があるからさ。あれはもちろん彼女自身が、自分で書いたに違いないとおれは思っているんだけど、彼女の中ではそうではない。彼女は自分自身だけでは心が折れてしまう。誰にも信じてもらえない自己主張を、全力で走って転んでも立ち上がって訴える力を出せない。

瀧くんに憑依してもらってもダメなんだ。お父さんの胸ぐら掴んで喧嘩になっちゃうだけ。あくまで、瀧くんによって肯定された三葉、愛によって進化したニュー三葉でなくては、事態を動かせない。

そのためには、自分の体の外にいる瀧くんを認識する儀式が必要だった。この少年が自分を愛して、肯定してくれるのだ、そう思いこむことで、彼が体験したという設定のドラスティックな自己主張も、おばあちゃんからの継承も、親から愛されているという思い出も、改めて自分のものとできる。

そのための全てのパーツは、本当はすでに彼女のうちにあったんだと思う。でもバラバラでまとまっていなかった。欠片と欠片とに割れていたような状態。

「お前は誰だ」と重ねて自問することで、その片割れと片割れが結ばれて、新しい自分が生まれる。

瀧くんが口噛み酒を飲んで転倒して幻覚を見る。あの時、ティアマト彗星の破片が、日本列島中の糸守の町の位置を貫いて、透明な地球の奥深くへまっすぐ潜りこんで行って、やがてその透明な地球が卵割を始める幻想的なアニメーションがあった。受精のイメージが表現されているとおれは思った。

糸森の町には、隕石湖もあるし、宮水神社の本尊が安置されている地形はどうやらクレーターだろう。どうも1200年周期のティアマト彗星が最接近のたびにいつも巨石を落としていくらしい、いわば彗星と地球の縁を結ぶ場所だ。

しかし、その縁が結ばれるたびに、500人から人が死ぬ大惨事を呈する。住民は助けたとしても、糸守の町は消し飛ぶ。それが結びの一つの側面なのだ。何かを求めて縁を結んでいくことは、揺籃を踏み躙っていくことなんだ。成長は犠牲を伴う、という物語が糸守の神話なのではないか。

 

「そう言えば一葉おばあちゃんが言ってた。「かくりよから戻るためには、自分の最も大事なものを差し出さねばならぬ」。結び、という漢字は、結末とか終結とか、なにかが終わって閉じるような印象を持っている字だ」

 

うん。

立ち上がって新しく生きていくために、故郷の村を焼くしかないんだ。

三葉は成長しなくてはいけなかった。彼女を包み抱えてきた糸守の町が、彼女の幼年期が、残らず吹っ飛んで消えてしまう。そんな結末を受け止めて、それを乗り越えて生きていかなくてはいけなかった。こんな町いやだと思って、さんざ罵った、それでもその町がどんなに懐かしかったか、思い知りながらも諦めなくてはいけなかった。

瀧くんがさ、なぜか一所懸命絵に描くのは、風景ばかりなんだよ。三葉ではなく。就職試験の面接でも「心を温め続ける場所」とか言って、失われた故郷を懐かしみ続けている。自分の故郷でもないのにね。三葉が、彼女自身のそういう思いを、彼に託したんだと思う。

なるほど、そうだったのか。少しこの映画の面白さが分かってきた。故郷のゆりかごを蹴っ飛ばしてひっくり返したい攻撃性と罪悪感の物語だったんだな。

君のおかげだ。

 

「私のせいにするな」

 

いや、勿論おれの言っていることは間違っている。そんな映画じゃなかった。

ただ、おれにとってみれば、なぜ彼らが電話はおろかメールのやり取りさえしないのか、とか、日付と曜日のくいちがいに気がつかないのはなぜか、とかの疑問に答える一番シンプルな説明に思える。催眠暗示というか、呪いというか、心理操作が行われているんだとしたらあっさり納得だ。

瀧くんが糸守町を特定した途端にスマホの日記が文字化けして消え失せる現象だって、あれ自体が操作捏造された記憶で、そう、いわば夢の記憶のようなものだとしたら、なんの不思議もない。

だってそもそも気持ち悪いじゃないか、なんであのカップルはあんなに一心同体なの? 異口同音に同じセリフ言い過ぎでしょ。気が合いすぎ、もはや同一人物の域だよ。でも、あれが片方がもう片方を乗っ取って、文字どおり自分の片割れとして利用しているのであれば、おかしくはない。

新海監督の作品はこれまで「ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」しか見てないんだけど、どちらもヒロインが気持ち悪いくらいカワイイでしよ。ピュアで健気で一途に主人公だけ思い続けていてさ。瀧くんの都合の良さは彼女たちに似ている。三葉と瀧くんは新海誠初期作品の頃のカップルが性別逆転したような感じに思えた。

 

「そっか、それでヒットしているのかもね。女性の方が気分良くなって、友達に勧めたりもう一度見たくなるから、男性も付き合って動員が伸びる」

 

かもね、知らんけど。

「ほしのこえ」「雲のむこう、約束の場所」でも、なんでヒロインちゃんがあんなに主人公少年を愛し続けるのかが全然わかんなくて、無垢な美少女から無条件かつ一方的に愛されたい、という男性的欲求しか感じなくて、そこが気持ち悪くって好きだったんだけど。

 

「好きなんだ?」

 

好きだよ。でも、もっと好きなのは、お互い想い合っているのに、全然分かり合えないし、近づけないカップルなんだ。例えば、衛宮切嗣と言峰綺礼とか。マクギリス・ファリドとガエリオ・ボードウィンとか。

 

「男同士ばっかり」

 

じゃあ、えーと、ジュディ・ホップスとニック・ワイルド。

 

「人間でさえなくなった」

 

君とおれとか。

 

「え、わかり合ってないの」

 

わかり合ってないでしょう。今だってホラ、たかがアニメ映画の感想さえも全然食い違ってて、お互い納得いかないでしょうが。些細なことだけど、些細なことさえ歩み寄れないという証拠だよ。

 

「私は今、自分の話聞いてもらえたように思って、嬉しかったよ?」

 

可愛く上目づかいするな。

うん、おれも君の話聞くことが、自分と違う意見聞くことが、嬉しかったよ。それはおれと君とが分かり合えてないからだ。

分かり合えないからいいんでしょ。自分ではない他の人って、そういうもんだ。分かり合えないところがいいんだと思えば、違っていることに傷つかない。むしろ嬉しくなったりする。

でもそんなの嫌だ、って駄々をこねるのが恋心ってやつなんだと思う。比翼の鳥、連理の枝、一心同体で何もかも分かり合える、そんな相手が欲しいんだ、って。分かり合えないことに傷ついて、孤独を大仰に寂しがったりしてさ、孤独なんて酸素呼吸くらいに当たり前の人間の在り方なのに。

「君の名は。」の素晴らしさのひとつは、そんなステキな恋するキモチは、侵略への意思だとはっきり描かれているところ。瀧くんが、三葉の呪術によって自由を拘束され、洗脳され、支配され、利用される過程を容赦なく描き出す。全てが終わって、空っぽで放り出された瀧くんの虚ろな絶望感。押井守監督の映画「攻殻機動隊」の冒頭に登場した、人形つかいにゴーストハックされた清掃局員にそっくりだと思った。それよりも痛ましいのは、人形使いが誇らしげに持っていた明瞭な自覚的な悪意を、三葉は全く持っていないことだ。

新海誠初期作品でこれまでずっと謎のままだった、ヒロインたちが主人公にとってあまりにも都合が良い理由について、「君の名は。」でついに納得のいく合理的な説明がなされたのだと思う。この場合はヒーローがヒロインにとってあまりにも都合がいい存在である理由だけど。

素晴らしい。新海誠は、片割れと言えるような誰かと齟齬なき融合を果たしたい、という切ない恋心に満腔の共感を持ち、輝くような叙情性を持ってその美を描く一方、その恋するキモチこそ、異物を排斥し、他者を侵略し支配しようとする心理の源泉なんだという現実を冷徹に描き出したのだ。他者との過剰な同一化を望む欲望こそが、自分が理解できない個性を、関与できない他者を、恐れ憎み否定する感情になる。それはいじめや差別やリンチの動機なんだ。

 

「……あー……うん……あなたがそう思うんなら、そうなんじゃないかな、あなたの中ではな。ただ、私もあんな関係長続きしないだろうな、って思ってはいた。ラストで二人は再会しなくてもよかったと思うし……なんかあの二人、再会した後はお互い幻滅しあって、なんか合わないなってなりそうって思った」

 

うん。

他の人を愛そうとするなら、多分自分の寂しさを埋めようとしてはいけないんだろう。自分の寂しさと孤独をじっと耐え続けることだけが、人を愛するということなんだと思う。というのは、所詮おれの個人的な間違った意見であって、君に押し付けようという意図はない。

ただ、おれは君といると、分かり合えていないという孤独で押しひしがれそうになるんだ。つまり、君を愛してるということだ。

 

「……全然うれしくないなぁ」

 

ほら。全然分かり合えないだろ? ありがとう。おれも愛してるよ。

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