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2016年9月13日 (火)

「シン・ゴジラ」のネタバレ感想 ー牧博士の異常な愛情ー

遅ればせながら「シン・ゴジラ」を見ました。

以下ネタバレ感想なのでご注意。「新世紀エヴァンゲリオン」のネタバレも含みます。

 

 

 

 

 

「シン・ゴジラ」って文字列を初めて見たのは、いつだったかな、少なくとも1年以上は前だった気がするんだけど。

当時は仮題として提示されていたそのタイトルの「シン」って字面を見て、おれは正直うんざりして、また、もうどうしてそういう意味深というか思わせぶりというか、ファンがこぞって深読みしそうなタイトルつけるんだよ、いい加減にしろよ、とやや苛立ちに近い感想を持ったのを覚えている。

どうせあれでしょ、これは「新」だ、「真」だ、あるいは「神」だと、みんなアテ字を競うんでしょと思ってたら、果たして全くその通りで、公開後の現在でさえ、おれが検索してみただけでもそういう感想ブログ100回見た。ウソ。でも3個くらいは本当にあった。

 

しかし、おれはすでに件の映画を劇場で見てしまった。だから、もはや、おれは苛立ちはしない。

だって、あれって大喜利のお題なんだもん。

「シン」なんだよ。紛れもなく。カタカナで「シン」なのよ。「新」でも「真」でも「神」でもなく、無論「薪」でも「鍼」でも「疹」でもない。でも、どの字をアテた感想を抱くのも間違いではない、というか、むしろそれが明らかに奨励されている。みんな楽しく遊んでね!って。

「シンとかけて」という「なぞかけ」で、「震」とか「sin」とか、我々は思い思いの謎解きをして、「そのこころは」と鮮やかにオトして楽しむものなんだ。ちなみにこれまででおれが個人的に一番ウケたのは「寝・ゴジラ」。

 

まぁおよそ、映画を含む一般のアートはそういうものなんじゃないの、おれは思っていた。作品は、どんな作品であれ、それ自体は空っぽと言って良くて、感想は見る人の自分語りに過ぎない。「作者のイイタイコト」ってアホかいな、エスパーじゃねーんだ分かるわけない。でも、自分はこう言われたと受け取った、と各自が勝手な想像を巡らせることはできる。というかそれ以外できないよね?と。

しかし、そう思わない人もいるらしい、ともおれは思ってた。おれの勘違いかもしれんけど、「作者のイイタイコト」という正解があって、それを読み取るのが鑑賞だと、そんな風に考える人がいるみたいなのだ。んで、この「シン・ゴジラ」監督の庵野秀明という人は、どうも、「正解はあるよ」派みたいだな、と想像していた。

おれの記憶と印象だけの話でソースを示せないんだけど、だから信じないでほしいんだけど、彼が若い頃「自分には語るべきテーマや物語がない」みたいなことを言ってたような気がする。雑誌かなんかのインタビューかなんかで、なんかそんなようなこと言ってたような気がする。あやふやすぎんだろ。

ただ、おれはその時「え、なにこの人、まさか語るべきテーマが必要だと思ってるの?」って驚いたのを覚えている。

確か、「新世紀エヴァンゲリオン」のテレビ版の頃だったと思う。おれも小僧だった、つまり今よりもさらに愚かで傲慢だったんだよね、だからその記事を読んで驚くとともに、正直、軽蔑を禁じえなかった。なに言ってんだ庵野秀明、ちゃんとエヴァ見たのかよ。テーマめっちゃあるじゃんよ、わかんねーのか。作者というのは一般的に自分が何を書いているのか理解していないものだが、庵野秀明もまさにそうなんだと思った。

「心のかたち、人のかたち」とはテレビ版20話のサブタイトルだけど、おれにとっては「新世紀エヴァンゲリオン」って人形とか人型とか、人の「かたち」をした存在の描写にやたらとこだわっている作品だった。余人は知らず、あくまでおれの個人的な体験の話だが、おれは結局は「かたち」、表面的な、目で見たり手で触れられるような身体的物理的な様態でしか他人を認識できず、にもかかわらず、身勝手にも押し付けがましくその「内面」「人としての心のかたち」を推し測ってしまう。「新世紀エヴァンゲリオン」はそんなおれに問うのだ。果たしてそんな風なおれの「人への理解」は、本当にそれでいいのか、と。「新世紀エヴァンゲリオン」はおれにとってそんな作品だった。雑に言えば「人とは何か」を問いかける作品だった、と言ったら、雑すぎんだろ。

いや、まぁそんなことはどうでもよくて、結局そういう解釈だって所詮おれの自分語りでしかない、今書いているようなことはおれ個人の内面の問題であって「新世紀エヴァンゲリオン」という作品が提示する問題ではない、しかし、おれがそういうことに思いふけるきっかけとして、「新世紀エヴァンゲリオン」は触媒として精緻にして繊細を極めた美しい「問いかけ」だった、と、おれはそう思っている。

あくまでおれの個人的な意見にすぎないけど、そんな刺激的な「問い」を、おれはテーマと呼ぶ。90年代、あんなに議論を呼んだ作品は少なかった。いや、時代区分をもっとロングレンジに取っても、比肩しうる作品はまれだろう。それを根拠におれは図々しい勝手な想像をする。あるいはおれと同じくらいにエヴァンゲリオンが「問い」として深く刺さった人が、たくさんいたのかもしれない。

語るべきテーマというのはない。テーマとは問いかけるものだからだ。

「問い」だけで、別に「答え」なんか必要ない。いや、「答え」も描いたっていいとは思う、蛇足だとは思うけど、蛇に足があってもバチは当たらない。これが「答え」だ、これこそが正しく、これこそが真実なのだと厚かましくぶん殴ってくるようなプロパガンダじみた作品も、実はそんなに嫌いじゃない。宮崎駿とか好きですよ。でも「答え」は必須じゃない。

でも若い頃の庵野秀明はそういう考えではなくて、答えまで自分で全部出さなくちゃいけない、それをわかりやすいメッセージにしなくちゃいけない、そういう「まとめ」をテーマだと思っているみたいだった。とにかくおれにはそう見えていた。そして当時はおれも若くて、自分の考えを正しいと思い込んでいたから、彼を軽蔑したのだ。

 

で、「シン・ゴジラ」の話に戻る。

おれは想像している。ついに庵野秀明は、自分なりの答えを示すことをやめたのだ、と。

どうせ、「テーマ」をどんなに丁寧にまとめたって、誰にも何にも伝わりゃしないだろうとおれは想像する。おれは結構に熱心な「新世紀エヴァンゲリオン」のファンのつもりだけど、上記をご覧下されば瞭然、庵野のイイタイコト何にも伝わってない。おれは自分勝手に「問いかけ」を受け取り、自分勝手に悩み、物思いにふける。まぁ、おれだけが頑迷なのかもしれないけどさ。

でも失礼ながら、おれは大体の生き物ってのはそういう身勝手な存在なんだと想像している。で、おれみたいな聞く耳を持たぬ連中に対して物語を紡ぎ続ける徒労に、庵野秀明も倦み疲れ、ついに「じゃあ勝手にしろよ」と切れたんじゃないか。

私は好きにした。君たちも好きにしろ。

その劇中のセリフはつまり「シン・ゴジラとかけてなんと解く?」という謎かけなのだと、おれは思ったし、おれはそれに答えて「シン・ゴジラとかけて謎かけと解く」と返したいわけだ。あくまでおれ個人の誤解であり実在の映画「シン・ゴジラ」及び庵野秀明監督はじめ実在のスタッフとはなんの関係もありません。

ということで「そのこころ」は以下に続きます。

 

とにかく圧倒的なゴジラの存在感だよ。

「現実対虚構」というコピーは残念ながら「現実」に「ニッポン」とルビが振られ「虚構」に「ゴジラ」と振られてしまっているわけで、固定されちゃっている。だからここから書くことは例によっておれの完全なる大間違いなんだけど、虚構である筈の大怪獣こそが実に現実的だったよね、とおれは誤解している。

対する日本国内閣を中心とする政治官僚機構は、序盤のうちこそ、三谷幸喜か渡航の書くような喜劇的なリアリティに満ちた雑然として如何ともしょうのない存在感を持っているんだけど、巨災対が組織されて景気良くネルフっぽいBGMが流れ出したあたりから、「一癖も二癖もあるプロフェッショナルたちの集団」というすごいよくあるおなじみのフィクションのギミックでしかなくなっていく。こういうのって、孟嘗君のチーム鶏鳴狗盗の逸話にまで濫觴を遡るとすれば実に二千年以上から語り継がれるほどの人気のあるエンタメなわけで、尺の足りない中でキャラの立った登場人物を多数配置してなおかつ語りのテンポを落とさないことを考えたら最適解の一つだろう。ほとんど数学的にエレガントな快感をおれは感じた。

おれのTLには全く流れてこないんだけど、世間には「人間ドラマが不足」と不満を述べる感想があるらしくて、おれは仄聞ながらそのご意見もっともと感じている。おれも見てて「あとはよくあるパターンだから省略していいよね」と言われてるように感じた。行間察してよ、それで不足なら二次創作でも見て、って感じに思った。そして、それが良かったと思う。

だって、テーマはゴジラだから。ゴジラこそが、迫り来る「問いかけ」「なぞかけ」なのだから、それ以外はそのカタパルトに徹するべきなのだ。

人類側の描写は要するに尾頭ヒロミを聖別して巫女とするためだけに尽くされている(個人の誤解です)。その演出の甲斐あって、最後の「……よかった」との彼女の微笑み一つが、ゴジラの呪いを全て祓い清める。散文的な側面では、凍結したとはいえゴジラの立像がそのまま東京駅のど真ん中に佇み続けていくのだし、人的、経済的被害は甚大で、国内外ともに日本が危険な状態は続くのだろう。しかし、彼女の微笑む瞬間、そんなことはどうでもよくなって、なんか雰囲気で「よかった」げなハッピーエンド的空気になるのだ。

彼女が祓い落とすゴジラの呪いは、古いB級モンスターパニックムービーとかで「放射能」と呼ばれていた類のものだ。放射線でもなければ放射性物質でもない、そんな客観的実在として科学的検証に耐えるような対象ではない、もっと迷信的というか魔術的というか「呪い」としての「放射能」。なんか生き物を巨大化させたり、凶暴化させたり、奇怪な変形を遂げさせたりするような、例のアレ。現実的で科学的な検討では扱えない、動物的というか本能的な不安や恐怖の感情に訴えて風評被害の原因になる類のソレである。理屈ではどうしようもなくって、解放と安心の情動が動かされない限りは、その呪いは解けない。だから乙女が微笑まなくては映画は完結しないし、その微笑みが解呪になるくらいの、魅力的で印象的な乙女が必要なのだ。

尾頭さんが微笑んでその呪いを鎮めるのは、乙女の涙が大魔神の怒りを解くのと同じ構造だろう。

本来重すぎるゴジラの現実的な問いかけが、これを境に軽やかに祓われて雲散霧消する。後に残るのはたかが事務的多忙や政治的な課題だけだ。銀幕の表面では暗転一コマで解決可能な、無にも等しい瑣事に過ぎない。

 

この辺はロジカルに必然が積み上げられただけのプロットで、陳腐と言っていい。だけど、この映画の出色な点は、聖なる乙女としての説得力を、ノーメイク無表情早口アラフォー理系女子として描き出す描出力だよなと思う。

これ本当にすごいと思う。

カヨコ・アン・パタースンが見事なかませ犬を演じて強調されているように、美人は卑俗、世俗的なのよね。対して、聖なるものは人からどう見られるかとか気にしない、という思想。これも、つまり巧言令色鮮矣仁ってことだよね、と思うと何千年も前から言い古された古臭い価値観なんだけど、これを表現するのに、女優さんに本当に容赦なくノーメイクで、テクニカルタームだらけの長セリフを抑揚もへったくれもなくただ早口でまくしたてさせる演出の徹底が実にかっこいいわけよ。片桐はいりのお茶くみのおばさんの方がお化粧もちゃんとしててさ、はるかに女の子っぽいのよ、どういうことよ。

神は細部に宿る、と言ってしまえば簡単だけど。ほんと神業の積み重ねだった。

 

そろそろ本題。ゴジラは何をおれに問いかけたか、という話をしよう。ゴジラの何が現実的だったのか、という話。いや、おれにとっては、ということですけど。

 

ゴジラの形態変化、これどうして今まで誰も思いつかなかったんだろうかと、今になって思えば不思議なくらい。本来、ゴジラに必須の描写だと思った。

第二形態が生き物としては一番自然な姿で、美しいと思った。だって、表皮が隙間なく滑らかに全身を覆っている。目視で明らかなエラがあることが観察できる。上陸してしばらくして、そのエラから血のような赤い液体をドバドバと排出したシーンは鮮烈だった。劇中、これは形態変化としてカウントされないのだけど、今から考えれば、ゴジラが地上の大気呼吸に適応して肺を形成し、不要となったエラ器官を分解排泄したんだろう。実は劇中最もドラスティックな形態変化だったかもしれない。

そして、この時点ではまだヤツは呼吸を必要としている、と示すシーンなんだとおれは思っている。ひょっとしたら、この時ならまだ本来の意味での食事さえできたかもしれない。

しかし第四形態、ある意味おなじみの姿になったヤツは違う。ハワイ島の低粘度の溶岩流を思わせるその表皮、早くからキービジュアルとして公開されていたのだが、おれは自分の不明を恥じる、ああハイハイゴジラだよね分かった分かったとか言って、いいやサッパリおれは分かってなどいなかった。

異常なのだ。全身の表皮がズタズタにさけて、むごい日焼け跡みたいにカサカサと縮み上がって剥がれおちていこうとしている。その前に特に攻撃を受けて傷つくシーンはない、むしろ注意深く、第四形態以前にゴジラは攻撃を受けなかったことを印象付ける演出だったとおれは受け取っている。深海でたっぷり英気を養い万全のコンディションで再上陸に臨む、無傷健康なゴジラが第四形態なのだ。何者にもまつろわぬゴジラ自身の内因の発露、それがあの姿なのだ。

おそらく体積の膨張についていけず皮膚が裂けたのだろう、しかしその時、ヤツは皮膚の十分な伸張を俟たなかった。もはや、外皮を必要としないのだろう。外皮の生体における役割は身体の内外の区分。外来の有害な異物の侵入を拒み、体内の貴重な成分の流出を防ぐことだ。しかし、映画に語られるゴジラの設定を信じるなら、ヤツはいわば生ける空中元素固定装置(海中元素固定装置?)なのだから、体表面からの物質の出入りに神経質になる必要はない。外から侵入するそれが、銃弾だろうが細菌だろうが薬品だろうが、取り込んで分解して再構成してしてしまうだけだ。

だから、ヤシオリ作戦は成立する。体の内と外との区別のうるさいまともな生き物なら、普通は咳き込んだりとか嘔吐するとか、取り込み拒絶の機構を持つ。しかしゴジラはその必要がない、だから吐き出さない、差し出されたものをゴクゴク飲む。自衛隊は計画通り律儀に口腔(のように見える部分)に放水銃の先端を突っ込んで血液凝固剤を注入していたが、おれは想像する、多分表皮にザバザバかけるだけでヤツは吸収したはずだ。必要ならその部分に口吻らしきものを形成してでも、だ。ヤツにとって栄養とは質量それ自体で、血液凝固剤の薬液は液体の密度を持っている時点で、希薄な大気よりも「美味しい」ものだったに違いないからだ。

 

第4度熱傷にも似て痛々しいほど損傷したゴジラの外皮が、黒々と干からびてずるりと剥け落ちて腰のあたりに余って垂れ下がって。しかし本当に恐るべきは、明らかに不要な老廃物であるそのたるんだ皮膚を、あれほどの快速の進化を示すゴジラは全く顧慮せず、ただ真っ黒にザラザラゴワゴワに荒れ果てるまま引きずって歩いていることだと思った。

不要物を切り捨てる合理性が、奴には欠けているのだ。

第二形態までは、まだ、エラから赤い排液が見られた。有用の器官を作りつつ、不要のものを分解し排泄する、懐かしい我らが新陳代謝、生物の合理性の発現が見られたと思った。

しかし第四形態のゴジラにはそんな共感の糸口はない。

劇場で買ったパンフレットには「完全生物だから警戒のための耳はない」と書いてあるのだけど、そんなこと言ったら眼球だっていらないだろう。劇中phased array radar的な知覚を備えているのではと推測するセリフがあって、つまり視覚の必要度は低いと語られたのだとおれは理解した。そう思って見れば、あの図体の割に小さすぎる目は左右非対称、見開いている高さが違っていて立体視もできそうにない。ヤツがものを食べていないという推定のきっかけになった口腔(に見える部分)も、その歯牙(のような何か)がひどく不規則で、確かにものを食うための役立つとも思えない。ではなぜ目があり、口があるのか。

それどころではない、ヤツの前肢(のように見える突起物)は一体なんなんだ。巨体に比べて明らかに小さすぎ、体を支えるわけでもなく、何かを持つわけでもなく、戦いの武器になるわけでもなし、ただ戦場ヶ原さんの所謂「支配者のポーズ」で突き出されて虚しく大気を攪拌するばかり。かつて体重を支えた腕が次第に退化しつつある途上だというならまだわかる。しかし、あれは第3形態から突如生えて出てきて、少しずつ大きくなってきている。不合理極まるではないか、一体全体、何の理由があってのことだ。

ヤツはどうしてあんな理不尽な形をしているのだ?

 

わからない。

わからないのだ。それは作中で問われさえしない。

なんと素晴らしい。だからこの映画は傑作なのだ。

 

例えば「あれは人間の腕でゴジラはいずれ人間の形になっていくのだ」とする想像をどこかで読んだ。そう言いたくなる気持ちがわかる。いや、おれはその想像の内容に賛同するのではない。どうしても説明したくなっちゃうよね、と、想像の動機に共鳴するのだ、不安だもんね、怖いもんね、わからないままほっとくなんてできないよね、と。

とてもそのまま受容できない。納得がいかない。受け入れられない。その不条理性。理不尽。非生物感。ゴジラの第四形態はまさに怪物なのだ。

第四形態に比べれば、第二形態、第三形態のなんと愛らしいことか。所詮は怪獣、そう、怪しかろうが恐ろしかろうが「獣」のうち。愛すべき我が脊椎動物一門の同胞だ、ほおずりしてだきしめてやりたいほどに慕わしい。

しかし第四形態は違う。線虫や甲殻類よりも遠い、どころか、もはや既知の生物、いや既知の存在の圏を脱しかかっている。

「ゴジラ」なのに。子供の頃から親しみ、そして成長とともに飽きて卒業した、あの懐かしい「怪獣」。見慣れた、陳腐な、日常的と言っていいような「怪獣」。そのゴジラが、古ぼけた「怪獣」概念自体が、今全く見知らぬ何かとして立ち上がってくる。「異化」ってのはきっとこういうことだ。辞書の用例に推したいほどである。

 

おれは、ショゴスのような不定形の怪物が描かれているんだと思った。

それは人智が及ばないもの。目の当たりにするだけでSAN値直葬、考えることさえもできない不可触の対象、未知への恐怖と無力感。旧来のゴジラよりは「ブロブ」とか「遊星からの物体X」に登場した「THE THING」に近い。流れる雲がたまたま何かをかたどるように、たまたまゴジラっぽくなってるだけなのだ。

素晴らしいと思うのは、そいつが最初のうちは、第二形態の頃までは、まだおれと同じ地平に立つ生き物として描かれているところ。それはアウタースペースから来たエイリアンなどではない。おれと同じ地球の生き物と地続きなのだと、周到に第二、第三、第四と形態変化を順に追うことで描かれる。その怪物は見ず知らずの何かではなく、生き物の中に潜む可能性の一つなんだ。

そんな風に描かれたら、おれはそれをじぶんと無関係と思えない。

例えば「蔵六の奇病」、「幻獣少年キマイラ」、「ジキル博士とハイド氏」、「山月記」、「変身」、自分自身の中に眠っていた未知の自分が目覚め、表皮を突き破って顕れて、自身が人の枠さえ外れるほどに変容していく恐怖と解放感を描いた名作には枚挙にいとまがないけれど、我が身のうちにひそむ人ならざるものとしての可能性とは、あるいは人類一人一人に共有の恐怖の原型なのかもしれぬ、と想像するのは主語でかすぎだろ。

 

おれはやっぱり庵野秀明をエヴァンゲリオンの監督として見てしまっているんだよな、というおれ自身の偏見を意識する。

あの物議を醸した「シン・ゴジラ」のラストシーン、ゴジラの尻尾(と呼ばれていた部位)の先端、凍結の直前と形が違っている。丸い頭と細い手足の小さな生き物が何匹か、たかっているような、あるいは這い出してくるような形になってる。

おれが連想したのは、「Air/まごころを君に」で、巨大化した綾波レイに干渉されてかたちを保てなくなった量産型エヴァンゲリオン達だ。頭から、ボコボコとあぶくみたいに綾波レイの顔が群がり生えていた。

つまりゴジラって綾波レイなんだ、とおれは膝を打って誤解する。理解力なくて本当にすまん。作ってる人達に申し訳ない。

先に書いたような外皮の破綻、体内と体外の区別の曖昧さ、そして泡沫のように湧いて出る安っぽい複製。連続性とか唯一性とかいった自己同一性の限界の描写そのものとおれは見ている。ATフィールド、人のかたち、ママの人形、人類の補完。エヴァンゲリオンで何度もおれが問いかけられたように感じた問い、自己と他者の境界はどこで、そしてそれはなんのなのか、その同じ問いこそ、ゴジラという問いかけ、つまり「シン・ゴジラ」のテーマなんだよ!とおれは一人で勝手に納得している。

 

エヴァンゲリオンでは、綾波レイは可憐な美少女のかたちをまとって、最初は現れる。なぜ美少女なのか、「Air/まごころを君に」でも疑問だったけど、「シン・ゴジラ」の後だとなおさら不思議だ。いや、アニメだから当たり前なんだよね、おれもそう思う。だとしたら、なぜアニメだとそこで当たり前に美少女なんだろうか、と言い直してもいい。

おれは「庵野秀明が男だから」あるいは「碇ゲンドウが男だから」と思っている。どうです、これ以上先を言わなければけっこう賛同者がいそうな意見でしょ、と自賛するけど、余計な説明を付け加えて孤立したいと思う。

 

「人は女性として生まれるのではない。女性になるのだ」というボーヴォワールの言葉について、以前にも別稿に書いたけど、つまり、おれにだって女性たりえた可能性があったはずだ、という意味だとおれは誤解している。

しかしおれは見るからに男性の身体をしていて、生理的にも社会的にも男性としての振る舞いを重ねて要請されたし、逆に女性的な振る舞いは拒絶や嘲笑に報われることが多くて、おれの裡なる女性性は萌芽のまま休眠している。あくまで個人の感想です。

おれの場合、おれの中のおれならざる異物は、だから少女のかたちをしている。永遠に成熟しないざらつく乙女が、おれのあらゆる未完の可能性を集めて象徴する。

こんな感覚はおれだけのものなのかもしれないのだけど、おれは、言わないだけでおっさんならみんな同じなんじゃない、という図々しい空想を持っていて、庵野秀明だってきっとそうだと思ってる。彼は綾波レイを通じてそういう類のおっさんの乙女心を描き出した人だと思ってるから。言うまでもないけど、個人の誤解です。

おれには、碇ゲンドウに取って綾波レイはユイさんのクローンではなく、むしろクローンというならゲンドウ自身のそれ、と見えてる。ゲンドウの裡の秘められた乙女心の具現化。あんな少女の姿を取って、ユイさんの娘として生まれ変わりたい、みたいな同性愛的近親相姦願望の表現なんだ。

そういう乙女心を抱え込んでどこへも持って行きようがなくて、どうしようもなく煮詰まって焦げ付いていく、それこそおっさんという存在の本質なのだ。

 

「私は夢想する──いつの日か、我が娘の頭上に愛という名の祝福がもたらされる未来を。

恋のときめきが彼女の胸を焼き焦がし、彼女を巡る世界が、ふたたび輝きと喜びを取り戻す日を」

 

「シン・ゴジラ」を見て最初に連想した作品が「沙耶の唄」だった。

奥涯雅彦と沙耶の関係は、碇ゲンドウと綾波レイの関係に対するアンサーだとおれは理解しているんだけど、それはまさしく、この奥涯雅彦というおっさんの少女趣味全開のポエムのゆえにだ。

なんと荒ぶる乙女心だろうか。異世界から侵略しに来た定かな形さえ取らぬ肉塊モンスターの上に、内心の美少女を投影して慈しむのだ。彼の異常な愛情のためにこそ「沙耶の唄」は圧倒的におぞましく、かつ美しい。

その少女は確かにおっさん自身の可能性だったはずのものなのだ、しかし、結局は失われた未然の可能性であり、おれが生きてこうして在る、已然のおっさんの現実とは全く相容れない。

だから絶対におれは彼女を支配できない。

 

「私はあなたの人形じゃない」

 

支配どころか、干渉さえできない。だって、彼女はおれではなく、おれも彼女ではない。おれという現実が生成する過程は、ひたすら失うべき可能性を失い、否定する体験の積み重ねだけで出来上がっている。

 

「私はあなたじゃないもの」

 

おお、何故だ、レイ、頼む、待ってくれ。

この対峙が一貫してきたからこそおっさんはおっさんとして「かたち」を成しているのであり、だから、その可能性の正当性を認め、一歩でも譲るようなことがあればおっさんはもはやおっさんたりえない。おっさんの存在理由と破滅の契機の両方を兼ねる矛盾のゆえに、乙女心は内心深く閉じ込められ、意識されることさえ稀なのだと、おれは勝手に思っている。

 

さて碇ゲンドウと綾波レイから、奥涯雅彦と沙耶ときて、牧悟郎とゴジラである。

さっき述べたような「蔵六の奇病」から「ジキル博士とハイド氏」までの振れ幅を含むスペクトラムで捉えるから、おれはごく素直に牧博士自身がゴジラに変化したんだと思ってる。ゴジラの出現には、牧悟郎の隠された内面の発現という要素が少なからずあったはずだ。

しかし、これはあくまでおれの感じ方の問題だけど、この映画のゴジラから、おれは内面を全く感じない。例えばゴジラがB2爆撃機にMOPを叩き込まれて、からの初めて熱線を吐いて東京を焼き尽くすシーン、おれにはナトリウム金属塊を水中に無理やり突っ込んだら爆発するという化学反応にも似た、機械的というか自動的な反応に見えた。その後の歩きかけて突然ハングアップして休眠に入る、野村萬斎みたいに非生物的な動作からも、何の葛藤も懊悩もおれは受け取らなかった。ごくシンプルな欲望さえ見いだせない。感情の空洞を感じただけだ。

そうなんだよ。おれは一人で納得する。おれの内心の吠え猛る乙女心は、おれの内心にあってこそ乙女心であり、おれをおっさんたらしめる動機となるが、おれというおっさんを欠いては何でもない、仮定された有機交流電燈の一つの青い照明でしかない。

 

綾波レイは、それが少女として、それも美しくエロティックでコケティッシュな少女として描かれる限り、結局は向き合って立つ碇ゲンドウという、おっさんに焦点を合わせるレンズに過ぎない。

おれはおっさんなんだ、おっさんたるおれをどうかまじまじと見てくれ、どうです、すごくおっさんでしょう。綾波レイの少女的美貌が、常にそうがなり立てている胴間声を、おれは幻聴する。

綾波レイに限らない。あくまでおれの視界では、という話なんだけど、およそ美少女という表現は「この子を一生懸命描いたおっさんがいるんだよな」としみじみ背後のおっさんに思いを馳せるためにある。

そのおっさんは、レイ待ってくれ頼む、とすがりついて泣き言を言う情けないおっさんである。

言い訳をしているのだ、とおれは思う。自分の醜い表面に囚われず、乙女心を見て欲しい、と。本当はこんなに美しい理想を心中に隠し持っているのだ、だからだらしない腹まわりだけ見て馬鹿にしないでくれ、と。

そこがおれの愚かな勘違いだ。いやいや、おれの一番キモいところは中年太りではない。内心に未然の理想を、乙女心を抱えているってこと自体がキモいんだ。その美少女にすがりついて、救われよう、補完されようと企む魂胆がいやらしいんだ。

その情けなさやいやらしさに対して、共犯者の同情を以て、自己憐憫と自己陶酔を共有する、それがアニメの美少女にブヒるときのおれのスタンスだ。

 

しかし、このゴジラにはブヒる余地がない。そもそも美少女じゃない。

ひたすら恐ろしくて怖くて、いや、ほんとまじこわい。世界の裂け目だ、そこから世界が壊れていく傷口なのだ。

匂坂郁紀以外のすべての人の目に映る沙耶は、きっとこうだろう。そう、匂坂郁紀こそがかの作品最大のウソなんだ、ゴジラを美少女と見做して恋してくれるグリリバなイケメンなど、「シン・ゴジラ」の中には登場しない。だから牧博士の動機も「妻の死で日本政府や人類を恨んでいた」などと、週刊誌の見出しみたいにわかりやすくも通俗的な説明をされて、それっきり、誰も真剣に考えてはくれない。

奥涯博士の乙女心は、匂坂郁紀という王子様が迎えに来てくれた。しかし、牧悟郎の渾身のラブレターはどこにも届かない。

「シン・ゴジラ」は「沙耶の唄」にならない。まるで「劇場版パトレイバー」みたいな、「矢口と巨災対の愉快な仲間たち」の活躍を描く王道の冒険活劇を突き進み、まるで牧悟郎は帆場暎一みたいな扱いのまま、終盤はほとんど忘れ去られてしまう。ゴジラ自体があれほどに強烈な不条理感を放って堂々と存在しているというのに、誰一人、その意味の不可能性について、考える素振りさえ見せない。

この孤独。ディスコミュニケーション。

ものすごくリアルだ。おれはそう思った。おれが生きる日々のリアリティ、まさにこれだ。ラストシーン、ヤシオリ作戦の成果で、立ち上がったまま凍結するゴジラ。凍れる断絶だと思った。人間のコミュニケーションの限界を立像にすればあの姿になるのだろう。誰にも話しかけてもらえなかった、タンポポの種。

そろそろBGMに「We’ll Meet Again」を選ぶ頃合いだ。

おれは想像する。

綾波レイのようなアトラクティブな美少女を描く時、おっさんはおっさんである自分に耐えかねて、嫋々たる自己憐憫に同情せよと押し付けがましい気分なのだ。

わかる。わかりみあふれる。

おれもおっさんを辞めたい。失われて未然のまま腐っていく可能性を悼み惜しむ気持ち、おれはこんな風でなくても良かったはずなのに、そうだ、決してこんな風になりたかったのではなかった、と悔やむ心持ち、それが美少女の意味なのだ。

しかし、その思いはその思いのまま今も息づいているんだけど、でも、一方で、おっさんとしておっさんの日々の生活や仕事を続けていく、このドラマ性のない平凡な日常が、いやおれ実は別にそんなに嫌ではないよね、というのもある。この何年もの間、おれは自分のおっさん臭さに少しずつ納得がいくようになり、おっさんである自分のことが好きになってきた。おれがリア充なだけなのかもしれんけど。

そうやってあるがままにおっさんの人生を選ぶ時、愛すべき美少女だった内心の乙女心の、思いもかけなかった正体に気づくことになる。奴はショゴスのような肉塊であり、ゴジラのような怪物なのだ。ひたすら不気味で、気色悪く、破壊的なのだ。

きっと、とおれは想像を広げる。庵野秀明も、自らがおっさんだと納得したのだろう、と。

「エヴァンゲリオン」から「シン・ゴジラ」への道のりは、如何にして綾波レイを描くのを止めておっさんであることを愛するようになったか、と理解できると思っている。

 

というのはおれの個人的な空想であり、庵野秀明はじめ現実に存在するいかなる人物、「シン・ゴジラ」はじめ現実に存在するいかなる作品とも無関係です。

なお、何の関係もないのに勝手に引き合いに出しまくった「沙耶の唄」だけど、聞くならく、アニメ版「ゴジラ」が虚淵玄脚本で企画進行中だという。びっくり。一体、ゴジラと虚淵のどの辺に接点を感じたのだろうか。理解に苦しむ。

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