ラグビーの話
おれは先日、日本代表チームが南アフリカに勝利して初めて、今ワールドカップが開催中なのだと知ったようなニワカであって、ラグビーについて語れるようなものは何もないのだが、せっかくの折なので便乗しよう。
そう、今のおれはラグビーについて無関心なのだが、親がファンだったので幼児のころはよく観戦していたものだ。今はなき旧国立競技場で新春凍えて過ごすのも毎年のことだった。親との関係にもうすこし安らかな時期が長ければ、恐らくプレイヤーにさせられていたことだろう。
それも、1995年までのことだ。
その年、ラグビーユニオンはアマチュアリズムを放棄したのだ。
幼児のおれにとって、ラグビーとは怖いスポーツだった。プレイが怖いのではない、観客席が怖かった。
これは幼いおれの偏った観察と経年劣化した記憶とおっさんらしいノスタルジアから勝手に言うことなのだが、ラグビーファンというのは、静かなのだ。鳴り物など無論ない。顔にペイントはおろか、旗だのメガホンだのも持ち込まない。
鬢に白いものがチラつくような紳士がキチッと油で髪をなでつけて、スーツとインヴァネスを決めてまっすぐ着席している。やや大げさだが、概ねそれがラグビーファンの印象だった。無論、事実ではない。幼児のおれの間違った記憶である。
そういう紳士はほとんど声を上げない。贔屓のチームがあるとしても内心に隠し、温顔を保ち、ときに両軍に等しく喝采の拍手を控えめに打つばかりだった。
怖かったのは、そのカッコつけが子供の目にも明らかに不自然なことだった。
どう見てもゲーム内容に興奮していて、間違いなく好きなチームの勝利を念じて手に汗握っているのだ。プレイヤーの躍動に合わせて、ついつい体が揺れる。ボールの行方に子供のように目を輝かせているのだ。
だというのに、思わず嘆声が舌打ちがその口から漏れることを恥じるのである。無意識に敵チームの好プレイを小さく罵ってしまってから、ハッとして「ナイスプレイ!」と拍手して取り繕って見せたりする。意味不明のやせ我慢だった。
しかし、今の年齢のおれは、分かるような気がしている。
だって「観戦」なのだもの。
「応援」では、ないのだから。
ラクビーのオフサイドラインは、ご存知の通り、ボールの直下を横断する。
ボールを持てばそこが最前線。自分より前の味方は屍体も同然、頼りにはできぬ。誰かの背後に隠れることはできない。だからボールは前に投げることも転がすことも反則なのだ。唯一我が身より前方にボールを放てるのはキックだけだが、キックの瞬間からボールが誰かプレイヤーに触れられるまでキッカー自身がオフサイドライン、結局自分が最前線なのは変わらない。キッカーがとにかく走って走って、必死に前進するしかないのだ。
どう考えても、前進を許すルールじゃない。しかし、その同じルールが前進を命じる。
常にむき出しで敵に対する、ボールを抱えて駆け出せば三歩と満足に走れはしない、寄ってたかって押し倒され引きずり倒されて、すりおろされるみたいに大地を舐めさせられる。誰だってディフェンスラインを突破してその裏に走り出す瞬間を夢見るのだ、しかしそんなこと100回に1回も起こりはしない。
それでもパイルアップをかき分けて立ち上がる。
よく生きておられるものだ、とおののくような撃力の累積に向かって、それでもその生身で踏み込んでいく。実際、亡くなったり重傷を負われる方も決して少なくない。
それでも、当時、それはアマチュアスポーツだった。
敢闘の栄光以外に見返りはなかった。
それを是とするものだけが、そこに立てるのだ。
動機は想像を絶する。情熱は何を燃料としていたのか見当もつかない。しかし、それは明らかにそこにあって、真冬のグラウンドでもうもうと白く湯気を上げていた。注ぎ込まれる熱量、踏み躙られる肉、軋みを上げる骨、全ては、プレイヤーのものだった。プレイヤーだけのものだった。どこまでも、趣味で、遊びで、無為徒労なのだ。誰一人救えるわけではない。世界が良くなるわけでもない。腹の足しにさえならない、むしろお腹がすくだけだ。疲れて傷ついて、汗まみれで、泥だらけで。
それは、ただそうしてあることだけが全てで、後も先もないのだった。
幼いおれの座るスタンドから100メートルとない距離で、ぶつかり合う彼らの充実。彼らが、それ以上何も必要としていないことが、はっきり見えた。
それだけの労力を遊戯に浪費できる、それは選ばれた有閑階級の不当に驕慢な娯楽なのだろう、要するに慶應だの早稲田だのおぼっちゃんどもの贅沢なのだ。お貴族様の暇つぶしなのだ。
それだけに傲慢な鼻っ柱はどこまでも高かった。
「応援」?
「応援」とは何だ。「応援する」と口走る君は、何に応え、何を援けるつもりなのか。
彼らは彼ら自身以外を、何も求めていなかった。グラウンドとボールと、そしてゴール。それが彼らの宇宙なのだった。タッチラインの外側に観客が何重に取り巻こうと、彼らと縁もゆかりもない。
見世物じゃない。
amateurismってのはそういうことだった。
プロフェッショナルだとそうはいかない。おれはたかだか数千円だせばシートのチケットを買い叩ける。それで「N+1番目のプレーヤー」とかチヤホヤさせて、我が物顔にチームエンブレムをペイントしてどんちゃん騒ぎ。勝てば我が手柄のように勝ち誇り、負ければチームや監督を罵って、プレイヤーが流す血も汗も涙もビールのつまみ。
そんな高見の見物に、それでもプレイヤーは「サポーターの応援のおかげです」と愛想笑いをふりまかねばならない、プロだもの。ひたすら磨きあげた技と力で命を削り合うような戦いをして、しかしその栄光も傷つきも盗まれて、にもかかわらず這いつくばってサポーターに感謝しなくてはいけない、プロだから。
でもアマチュアは違う。
人生と財産をなげうつようにして援助しているのでなければ、応援などではない。おれのような観客席でしか関わらないような人間は、こっそり覗き見させてもらっているだけだ。せめてご迷惑をかけぬよう、静かに敬意をもって観戦の許しを請うだけだ。
しかし、それも今は昔。
もはやユニオンでさえアマチュアリズムを掲げてはいない。
いまやラクビーは商品なのだ。だから、おれだって怖くない。おれさまはお客様だぞ。誰が金出していると思っているんだ、媚びろ、サービスしろ。スポーツマンシップも何もかも二束三文単位で分割購入して、おれの卑怯な自己愛の最後の逃げ場所にしてやろうか。
げひひひひと猥褻な女衒の目でながめまわして、しかし、おれはどこかで祈っているのかもしれない。
彼らが走り出していくことを。
おれの自己投影に過ぎない応援も、卑劣な代理満足もねだるだけの声援も、決して追いつけないスピードで、存在しない消失点に向かって無限遠を駆け抜けていくことを。
おれの卑しい想像力では決して見出せない、彼ら、プレイヤーだけに見えるその一点。現身はプロスポーツ選手にやつしてはいても、いや、そうまでしてもプレイし続けているのは、まさにその一点の空白への到達を渇望するがゆえではないか、と。
おれはきっとどこかで祈っている。
走れ。
走れ。
おれの応援の届かぬ所へ。
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