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2015年7月23日 (木)

TVアニメ「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続」第13話あるいは原作11巻の感想 その2 比企谷八幡の本物

BD/DVD特典小説2巻目も買いました。

「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。(n)」

そのうち感想書くかも、ですが、まだ全然序盤なんでさっぱり話は見えません。

興味深いのは、渡航先生がアニメの感想というか解説を書いているところ。

 

というわけで、原作11巻まで、アニメ全話、特典小説(a)(n)のネタバレありで、「続」13話「春は、降り積もる雪の下にて結われ、芽吹き始める。」の感想です。

 

 

 

 

 

 

 

「本物が欲しい」

このセリフが嫌いだということを書いた。

改めて書く。

きらいだ。

 

「本物」それ自体がきらい、というのとは多分ちょっと違うと思う。

比企谷八幡がどこの鰯の頭ともしれない何かを信心して、これぞ「本物」と崇め奉ろうと、おれにしてみれば心の底からどうでもいい。超超超超どうでもいい。好きとか嫌いとか、判断するのも億劫なほどの些事だ。

ただ、それを基準にして、それと異なるものを「ニセモノ」「欺瞞」と呼んで否定的な態度をとるのであれば、それは極めて不愉快な光景として、おれの目には映る。

嫌いだね。

おれはニセモノが好きだからだ。貝木泥舟や第五次聖杯戦争アーチャーのシンパなんだよ。

ことの真贋なんぞ、おれにとってはどうでもいい。そこに込められた人の思いと歴史が慕わしいのだ。あっけらからんと素朴に真正なだけの本物よりも、紆余曲折と盤根錯節の果てになお自分の内側に存在しない真正をもとめてなお姑息な糊塗を繰り返す、そんなニセモノがより魅力的になるのは、おれの感覚でいえばあまりにも当然である。

 

だから

「……それに、そんなの、ただの欺瞞だろ」

11巻、こんな風に「欺瞞」という言葉を使う、八幡の心根がきらいだ。

一言「おれはいやだ」で済むだろうが。個人の好みの話でしょ? それを「本物」だの「欺瞞」だの、大仰な観念を持ち出してきおって、うっとおしいわい。わざわざ虎の威を借る狐の卑劣を演じなおす必要性が、おれにはさっぱりわからない。

どうして一人称単数で「自己満足だよ」と笑って見せられないのか。かっこわるい。みっともない。お話にならない。人として、葉山の足元にも及ばない。

 

おれは思う。要するに、八幡は見たくない現実から目を背けただけだろ。籠絡される雪乃さんを見たくなかっただけだろ、と。もし本気で「雪ノ下の問題は、雪ノ下が解決すべきだ」と考えるなら、雪ノ下雪乃の決断を尊重すべき。なんで八幡が口出しするのよ。雪乃さんが自ら誘惑に屈したとしても、それはそれで雪乃さんの選択だ。

八幡に、そういう現実から目を背けたい衝動がある。ただそれだけのことだと思う。それにしても八幡は、そんな自分の衝動を「欺瞞」だとは思わないのだろうか?

おれの想像だけど、多分、八幡はそんな自分の気持ちを、うすうす欺瞞だと気が付いている。だから、そんな自分を認められなかった。自分が現実から逃げたいだけだと認めず、由比ヶ浜さんの提案の方を「欺瞞」呼ばわりして、誤魔化そうとする。

二重三重に現実に目を閉じ逃げ隠れして、そのくせ自分に都合の悪い現実を突きつけてくるものを「欺瞞」と決めつけ、自分だけは誠実に本物を追求しております、みたいな顔をしてみせる。それが今の八幡だ。おれにはそう見える。

 

おれが見るに、奉仕部はもはや自由な個人の集まりではなくなっている。由比ヶ浜さんが支配する人間関係だ。13話の水族館デートは象徴的だ。由比ヶ浜さんはボケ担当いじられ役でいながら、実は企画から実行まで全て仕切っていて、予定通りの結果まで遺漏なく誘導している。

それが現実。比企谷八幡が見ようとしない現実だ。雪ノ下がどうこう言う前に、まず由比ヶ浜さんの存在感をしっかり見据えるべきだ。 

しかし八幡は例のごとく欺瞞がどうちゃらみたいな言葉遊びに逃げ込む。そして卑劣にも八幡は平塚先生の説教をコピペする。

「それでも、ちゃんと考えて、苦しんで……。あがいて。俺は……」

八幡。お前は今、最低だ。

 

なにが「苦しんであがいて」だ。お前、見ろ。見ろよ、目の前の由比ヶ浜さんを。頼むから、見てやってくれよ。

あがいてないとでも?

苦しんでないとでも?

考えていないとでも、言うつもりなのか、なぁ、八幡よ。

「3人で見れて、良かった……」

と、安堵のため息にも似た言葉の響きの意味。

「……もうすぐ、終わりだね」

というつぶやきの意味。

「ゆきのんのこと。それと、あたしのこと。……あたしたちのこと」

そう言って取り出したクッキーを、由比ヶ浜さんがいつ作ったか、考えたか?

昨夜は雪乃さんを自宅に泊めたんだぜ。もし昨夜作ったのなら、雪乃さんが知らないはずはない。それなら今更白々しく「あなた……、すごいわ」と雪乃さんが声を震わせるはずもない。

そのクッキーをいつから由比ヶ浜さんは隠し持っていたのか?

その間の由比ヶ浜さんの思いを、逡巡を、葛藤を、想像しているか。それを思って、なお、由比ヶ浜さんがあがいてないと、苦しんでないと、考えてないと、お前はそう言うのか。

由比ヶ浜さんがそのクッキーを差し出しながら、唇を噛みしめ、手を拳に握って、震えている。八幡が目もくれなかったから11巻には描写すらされていない、その震えはなんなのか。

考えてないのは、お前の方だろうが、八幡。そんな由比ヶ浜さんに応えるにあたって、他人の言葉の引き写しとか、一体……。

 

その平塚先生の説教についてのおれの感想はもう何回も書いた通りだ。

この春クール、たまたま「響け!ユーフォニアム」に滝昇先生が登場したせいで、平塚先生がダメなところが深刻に目立ってしまったと思う。

平塚先生を「大人玉縄」と書いたことがあったように、要するに空っぽなカッコつけだと思っている。百歩譲ってあの無駄に長い説教が有意義だとしても、夜の美浜大橋に、アストンマーチンのりつけて、みたいなロマンティックな演出をする必要がどこにある。

「カッコつけてるからな」

意味もなくカッコつけんな、って言いたいよ、おれは。

あの回の次回予告のナレーションで、平塚先生が「私、いい教師だな」とか悦に入っているのがムカつきすぎて、思わず声を上げて笑ってしまった。

全ては彼女のカッコつけの道具なんだと思った。夜景の美浜大橋も、左ハンドルのスポーツカーも、タバコもコーヒーも、そして目の腐った問題児も。玉縄くんのスタバカップとおんなじだ。主演の彼女を飾る小道具にされたような気分だった。

リアルだな、と思った。別に平塚先生が特別悪人なわけではない。むしろ、すごく善良な方だと思う。ただ、現実、大人ってこういうもんだよね。自分のためなら容赦なく他人を利用する。

それはもうわかっているつもりだけど。でも、9巻のあのくだりを読んだ時の、総身の産毛が逆立つような強烈な怒りを忘れることができない。あんな舐めた真似、もしもおれがされたなら彼女の自慢の愛車に唾ひっかけてやるところだ。その後平塚先生にボッコボコにされるまである(されちゃうのかよ)

 

「考えてもがき苦しみ、あがいて悩め」

そんな見栄と自己陶酔だけの利いた風な言葉をありがたがって、ここに剽窃するのか八幡。

それが、お前の言う本物か?

その程度の本物で以て、由比ヶ浜さんに向かって「欺瞞」と、そう言うんだな?

みそピーさんが本ブログへのコメントで教えてくださったのだが、一部匿名掲示板では「コピぺのん」という言い方が言われているのだそうだ。由比ヶ浜さんの家にお泊まりするにあたって、雪乃さんが八幡の考えた言い訳をそのまま使ったところを揶揄してそう呼ぶらしい。

確かに、由比ヶ浜さんがそのことに気がついて小さく驚く描写が原作にもアニメにもある(比企谷くんは小説では明確に意識していない。アニメでは気がついているようにも見えるがノーコメントである。気がつきつつも、否認しているのではないかと思った)

その程度のことでコピぺのんというなら、比企谷くんはなんと呼べばいいのかしら。コピぺ谷くん? 真似谷くん? 剽窃谷くん?

噴飯なのは、まさに人の欺瞞を謗るために、人の言葉を盗んでいるところだ。

 

かつて1巻冒頭、彼はどんな作文を書いていたか。

「彼らは青春の二文字の前ならばどんな一般的な解釈も社会通念も捻じ曲げてみせる。彼らにかかれば嘘も秘密も、罪科や失敗さえも青春のスパイスでしかないのだ」

「そして彼らはその悪に、その失敗に特別性を見出す。自分たちの失敗は遍く青春の一部分であるが、他社の失敗は青春でなくただの失敗にして敗北であると断じるのだ」

「青春」を「本物」と置き換えれば、そのまま今の八幡に当てはまる、とおれには思える。

仮に、ちゃんと考え、苦しみ、あがくことが本物の証であるのなら、欺瞞に満ちた人間関係の中で考え苦しみあがきながら嘘をつく人間もまた、本物ど真ん中でなければおかしいではないか。しかし、八幡はそれを認めないだろう。

なんのことはない。すべて八幡のご都合主義でしかない。

なら、それは欺瞞だろう。「本物」と自称するだけの欺瞞でしかない。

 

第1巻の冒頭の作文を読んだとき「お前が言うな」的ツッコミを果たすべき義務を感じた、と以前書いた。

おれはがっかりしてため息をつく。あの頃から八幡はちっとも成長していない。いや「本物」とかいう薄汚い言い訳を思いついて、自分を誤魔化す術を覚えた分、ますます甘ったれた嘘つきになった。

一体、コイツはこれまで何をやってきたんだ、とおれは呆れる。

コイツは自称「ニヒリスト」なんだけど、でも実はサンタの実在を信じてるくらいのナイーヴなアイディアリストだよ、というのも以前書いた。自分のあまっちょろい理想を守ろうとするあまり過剰に潔癖になって、自己正当化のために無用に周囲を貶めて孤立してしまうというところがあって、確かにその点で雪ノ下雪乃と似ていた。

しかし4巻、結局、雪乃さんもまた自分と同列の嘘つきに過ぎないことを発見し、傷つく。それでも5巻、そんな雪乃さんを責めることができない自分に気がつく。そして6巻、雪乃さんとともに、誤解しても誤解されても、何度でも問い直そうと、もう一回立ち上がったのではなかったか。

問い直す八幡は、7巻で、かつて欺瞞だと切り捨てた青春リア充組の人間関係の中に、確かに本物とは言えないまでも、けっして悪だと糾弾できないものを感じてしまう。その気持ちが、彼にはわかる。わかってしまう。

8巻、彼は自分と奉仕部の間にも、同じその何かが、本物ではないけど、何かがあるのを感じる。自分がそれを、大切に思っていることも。

9巻。しかし、それをどんなに大切に思っても、そこに満足できない自分もいる。それだけではダメなんだ。やっぱり本物が。それでも自分は、本物が、欲しいのだ。

そういう流れの中での「俺は本物が欲しい」なのだと思っていた。

だから、それは、ついに本物を諦めるという宣言なのだと。理想は理想。所詮理想なのだ。けっして叶わない、手に入らないすっぱい葡萄に過ぎない。それへの憧れは止み難く、いつまでも自分は苦しむのだろう。だからといって、それを人に投影して憧れたり、あるいはそれではないからと他を蔑んだり。それはあまりにも愚かしい。

それはどこまでも、自分の感傷に過ぎないからだ。自分の外に求めるものではない。本物とは何か、そう問い返されても、他者と共有できるような回答を返すことはできない。

それは、他者のせいではない。

ついにそのことを悟った。だからもはや、天与当然のものとして「本物」をもとめない。普遍自然のものとして、他者に押し付けない。ただ、ありえないものを欲しがっている、自分個人の問題なんだと、八幡はついに他者を責めるのをやめようと決意したんじゃないか、とおれは想像していた。

だから「俺は」本物が欲しいと、一人称単数で言ったんだと思った。他の誰にわかってもらいたいわけじゃない。求めて得られるものでないことも、もう分かった。だから、これは自分のわがまま。身勝手。独りよがり。

それが「俺」なんだ、と。「俺」が。ここにいる一人ぼっちの欺瞞と嘘だらけの偏って間違った卑怯者が、つまり「俺」が、ただ自分一人のご都合主義を「本物」と呼んで、欲しがっていただけ。そういう人間が「俺」なんだ。

八幡がついにそう自覚して、本当の意味でのリアリストに向けて一歩踏み出すその瞬間なんだとおれは思った。

だから9巻をおれは感動して読んだ。「本物が欲しい」嫌いな言葉だ、実に醜い。でも、誰よりも八幡自身がそれを醜いと思って、気持ち悪いと思って、その言葉を口にしている、とおれは感じた。自分の愚かしい自惚れを、これから脱皮していく。そのために宣言したのだと思った。

こうしてついに10巻、葉山が「自己満足だよ」と一人称単数の責任を笑って引き受ける姿勢を、八幡は理解したんだろう、とおれは思っていた。同じ方向は向けない。感情を言えば「嫌い」というしかない。それでも、八幡はようやく他者に対して謙虚と尊敬を学ぶ。葉山を認めるしかない自分を受け入れて、葉山と並んだ。

 

watariwataru: 海老名さんはある種、八幡に近しい価値観を持つ盤上の指し手でもあるのです #oregairu

4月に渡航先生がそうツイートしていた。

最近、BD/DVDの特典小説「やはりおれの青春ラブコメはまちがっている。(n)」が出たんだけど、その「なかがき」でも「盤上の指し手」という表現が繰り返されていた。

これは、自身も盤上を這う駒の一つでしかない立場ながら、盤全体を俯瞰する指し手の視点と戦略をもつキャラクターを叙す表現なんだと思った。

なるほど、海老名さんや葉山くんはそうなのかもしれない。

しかし、八幡はしばしば自身も所詮は駒の一つにすぎないという事実を忘れてしまうんじゃないか、と思うことがある。まるで盤外から一方的に駒を操作できると思い上がっているかのような傲慢をときどき感じる。

たとえば6.5巻の棒倒しでの反則が書かれたのは彼のそういう傲慢さを描くためなんじゃないの? そのくらいしか理由が思いつかない。いまだにおれは6.5巻がよく分からないままなんだが。

7巻の嘘告白も、彼のそういう意味での傲慢さ、視野狭窄から起こっているのだと思う。渡航先生も(n)のなかがきでそう書いておられるとおれは思っている。

8巻以降10巻までの道のりは、八幡が次第に、自分自身が人と変わらない一つの駒でしかない限界を、痛い思いして学んでいく過程なんだと思っていた。盤外の指し手のような思考を巡らしたところで、それは非現実的な身の程知らずなのだ。

 

それがなんなんだよ。

11巻。この八幡はなんなんだ。

1巻の時と全然変わってないじゃないか。ずるい言い訳の仕方を覚えただけだ。

心底がっかりだ。

 

やっぱり結局そういう話なんだろうか。

おれにとって最悪の展開は、「本物」ってのがあって、八幡がそれを手に入れる、ってやつ。しかも、その本物ってのが他者を支配することだったりすると最悪。人間だか環境だか、本来は神ならぬ人智を超えた不可能な対象に、手が届く、という展開。都合のいい女神みたいなヒロインを救い、救われるというハッピーエンディング。

これが最悪。

それは夢も希望もない物語。奇跡と魔法にしかハッピーエンディングはない、という絶望。

なぜそういう展開をたどりそうと予想するかというと、平塚先生がいつまでも「正しいこと言ってるポジション」だから。あの下らない説教が、この俺ガイル世界では正しいみたいだからだ。

「踏み込め」という内容が下らない。説教という表現方法が下らない。夜の美浜大橋にアストンマーティンを止めてという舞台設定が下らない。この身の毛もよだつような最低のプレゼンテーションをドヤ顔でやってのけて、それがこの物語の「本物」として通用するというのであれば、あまりにも今おれがいるこの世界とは違いすぎる。

絵に描いたような非現実。だったらきっと奇跡も魔法もあるのだろう。すこぶるつきに都合のいい、女神みたいなヒロインだっているんだろう。

そう言えば、これラノベだしな。マジになって読む方がどうかしていた。

 

それでもおれはまだ信じている。

 

物語全体としての正解がもしあるにしても、示されるには9巻は早い。平塚説教は答えではなく叩き台として考えられるべきだろう。

それにアニメ2期OP「春擬き」。

そのフルバージョンの後半に「土足で簡単に踏み躙られた」とか「気付かず芽を踏む」とか、「踏む」という言葉の破壊的側面を強調(と、おれには聞こえる)したような歌詞が二度も出てくる。

「踏み込め」と言う平塚説教に疑義が提示されてる、っておれは誤解した。

 

いや、そんな区々たる状況証拠じみたものに頼るのはやめよう。

立ちはだかるコンクリート壁に向かってまっすぐアクセルを踏み込むようにして、おれは信じる。

例えば由比ヶ浜さんがいる。まだ変身を二回残している。その意味がわかるか?

「……ヒッキーならそう言うと思った……」

比企谷八幡はまだ彼女の掌の上だ。

やっちまえ、とおれは思う。くしゃっと握りつぶしてしまえ。由比ヶ浜さんになって大暴れしたい。この甘ったれた主人公とぬるい世界をぶっ壊してしまいたいと思う。

天使でも女神でもよかったはずのこのヒロインを、ゴジラみたいなモンスターとしてカッコよく描き出した。そんな俺ガイルの可能性を、おれは信じる。

 

それに。

我らの雪ノ下雪乃が、いるじゃないか。

由比ヶ浜さん大層カッコよかったとも。しかしある意味想定の範囲内だった。

しかし、雪乃さんの描写は予想をはるかに超えた。斜め上の方に。

ボロボロのガタガタ。芯もへし折れ、意地も張りもない。

ヒロインとして最低限持つべき凛然とした神聖さを完全に失った。別に何か悲劇的なイベントがあったわけではないから、神聖の代わりに呪いを背負い込むようなこともない。

ただ、普通に日常おくっていただけなのに勝手に自壊して「個性」をなくしたのだ。

すばらしい。

やはり、雪乃さんはおれの希望なのだと思った。

絶対に、都合いい女などにはなり得ない。ただひたすらめんどくさいだけだ、この点まちがいなく由比ヶ浜さん以上だろう。そして絶対に「本物」などではあり得ない。今の八幡とはどこにも接点がない。この隔絶と不可能性。

このヒロインがいる限り、俺ガイル世界は、今ここにおれがいる世界と、地続きなのだと思った。

1巻読んだ時点で、このテンプレ黒髪ロング完璧超人系ツンデレが、こうも魅力的な存在になってくるとはまったく想像だにしなかった。

 

だから、今の情けない八幡は、きっと一時的な迷いの時期なんだろう。スランプなんだ。まだ本気出してないだけ。

きっとまた立ち上がる時が来る。

本物は確かにすてきだが、嘘も欺瞞もなかなかどうして捨てたもんじゃねーな、いやまったく悪いもんじゃない。図々しくそう言ってのける八幡に、おれは早く会いたい。

そうとも。本当は嘘だっていいじゃないか。嘘や欺瞞の一体何が悪いんだ。

だってそもそも俺ガイル自体、ラノベじゃないか。本物でも真実でもない。デタラメな、子供向けのフィクションだ。

だからって、何か悪いことあるか。

本物でないことの凄さと素晴らしさ。身をもって示し続けている優れた作品群がある。俺ガイルという作品もそのうちの一つではないか。と勝手に俺が信じているだけのことですが。

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コメント

「本物」ってのがあって、八幡がそれを手に入れる
確かに最悪につまらない展開ですね。
でも由比ヶ浜の提案を否定するところで、「そんなのないって知っているのに」というモノローグがあるので、その展開はないと安心してよいかと。たぶん

八幡の「本物」思考には、まず、八幡が誰かに対して自分の本音を100%伝えているのかという問いを抱きますね。
「「本物」が欲しい」という思いがあると理解しているのは、雪ノ下姉妹、由比ヶ浜さん、平塚先生、一色いろはですね。
で、由比ヶ浜さん・雪乃さんに関しては「友人」か「恋人」かの扱いで揺れていることを伝えていない(言えるわけがない)平塚先生に関しては周知の通り「結婚してくれよ・・・・・」と思っていることは言わない。

つまり雑に扱う「一色いろは」と警戒している「雪ノ下陽乃さん」こそ八幡にとっての「本物」なんだよ!!!・・・・・・・と本人に言えば、多分殴られます、おそらく何千発と。そりゃそうです。八幡に言わせれば「見せていない部分もあるし、あの人らほど信用できない人はいない」ですから。
そして八幡が誰に対しても「多かれ少なかれ嘘をついている」とします。すると誰がどれだけ誠実にふるまおうとそれは「本物」の想いに留まり、「本物」の関係にはなりえない。
だから八幡は「本物」を手に入れられないと思います。今「恐らく」なんでも言うことを聞く(多分無理だけど)雪乃さんをものにしない限り。
それは11巻のラストで雪乃さんが「私にも依頼がある」といった時点で砕け散りました。
よって、「他人のことは完全にはわからない、家族でも恋人でも敵でも」現実を受け入れるかという話になると思います。
3度も長々と騙り失礼致しました。

ユーキさん、コメントありがとうございます。返信遅れて申し訳ありませんでした。
私はストーリーより、雰囲気重視なんですよ。
言葉でいくら「本物はない」と言ったって、なんか「お前たちが俺の翼だ」感が出ちゃったら、なんか「本物」ktkrになっちゃうよね、みたいな。
もう祈るしかないですよね。

みそピーさんでしょうか?
 コメントありがとうございます。

あなたの「本物」のイメージが、私のそれとは随分違うようで、ゴメンなさい、私には仰ることがよくわかりませんでした。
私はまず「偽物なんてあるのだろうか」と疑問に思っています。八幡には、本物がどうとか言う前にニセモノを見つけてみせろよ、と思ってます。11巻で「そんなの欺瞞だろ」と八幡が言った由比ヶ浜さんのやり方を、私はこれっぽっちもニセモノだとも欺瞞だとも思えないからです。
今、目の前に確かな本物かゴロゴロしてんのに、かたくなに認めようとしないのが今の八幡だと思っているんです。

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