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2015年6月22日 (月)

TVアニメ「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続」第11話12話の感想

なるほど。なんとなくわかってきたぞ(わかったとは言ってない)

 

原作10.5巻までのネタバレありで、「続」11話「それぞれの、掌の中の灯が照らすものは。」と12話「未だ、彼の求める答えには手が届かず、本物はまちがい続ける。」(長い)の感想です。

 

 

 

 

 

 

「……三浦は女避けには都合が良かったか?」

と問いかけられた直後だというのに、優勝インタヴュで、平然と三浦さんを女避けに利用する葉山くんパねぇ。

それを聞いて、三浦さんの浮かべる笑顔がハッとするほど、切なかった。

自分がどこまでも都合のいい女でしかない、と、公然と宣言されて。でもそういう形でしか、自分は彼に必要とされないのだ、と。彼に関わろうとするなら、利用されるしかない。

 

比企谷くんが、女性キャラと接するたびに、貼り付けたように赤面するのが、また。

相手は、あるいは一色いろはであり、あるいは雪ノ下陽乃であり、あるいは雪ノ下雪乃なんだ。どの人も一癖も二癖もある個性であり、その思惑も感情も一様ではない。

しかし、比企谷くんはひとしく赤面する。

 

二人とも女性をセックスシンボルとしてしか見てない。おれはそう感じた。

っていうか、なんで今更そんな、と思う。

八幡の女性観は基本的にはミソジニックなものだというのは知ってた。しかし、それは自覚され、克服されつつある途上なのだとおれは感じていたし、そのいかにも「途中経過です」というライブ感に魅力を感じていた。

それが一気に逆戻りだ。青年マンガの主人公みたいだ。

かつておれが愛した八幡のイメージを探せば探すほど、陽乃さんにほっぺたつつかれて赤面する描写とか、違和感しかない。

そんな二人が「俺は君が嫌いだ」「俺もお前が嫌いだよ」と言い合うあたり、妙な共犯的な共感というか、ホモソーシャルってのはこういう感じのことなんだろうか、って思った。

気持ち悪い。

 

こないだ、何があっても肯定すると書いたばかりなのに何書いてんだ、って感じだが、いや、ここから。ここから褒めるから。

おそらく、おれが今感じているこの違和感と嫌悪感こそ、演出意図だったんだと思う。

 

だからこそ12話の陽乃さんの「つまんない」というセリフの余韻が重く響く。

そうなんだ。つまんないんだよ。

そうだったのか、とおれは腑に落ちる。9話、10話、11話、12話と続いてきた、腑抜けたハーレムラノベみたいな退屈さ、ここで陽乃さんのセリフにうなづくための、たっぷりした前振りだったんだ。と、おれは思いました。

たっぷりすぎんだろ、と思わないでもないけど、これまで基本的に敵対的な角度で介入してくることの多かった陽乃さんのセリフから、むしろ救われたような気持ちになるためには、やむを得ない回り道なんじゃねーか、と。

王様は裸だ、と叫んでもらった気がする。

原作者のツイートによると、12話から原作11巻の範囲に入ったらしい。もし11巻にもモチーフになる文学作品があるとしたら、きっと「裸の王様」だな。

 

このインパクトを演出するためのアニメスタッフによる原作の改変が実にすばらしい。

11話など、10巻とは完全な別物だとしか、おれには思えない。なのに、あらすじを書き起こせばアラ不思議、10巻とママ同じなのだ。

もともとおれは10巻は映像化不可能だろ、と思っていた。手記があるから。

手記の存在が、第三者の視点を濃厚に意識させ、一体それが誰の手になるものかという方向に読者の意識を誘導する。これまで読者の感情移入は自然、八幡に偏っていただろうに、これを手掛かりに各キャラクターの視点に改めて想いを馳せるようになるだろう。以前書いたように、それが手記の存在意義だと思っている。だから誰が書いたかわからないように、かつ誰が書いても当てはまるように書かれている。誰々と特定しようと推理する、推理の過程が大事なんであって、結論はどうでもいい。もし誰々と特定できたとしたら、そこで読み解かれたのは俺ガイルではない。読者自身の願望だろう。

だから、10巻を読んで感じるのは、11話を見て感じるような、ホモソーシャルじみた共犯感覚ではない。八幡と葉山の埋めがたい断絶と、どうしようもないディスコミュニケーションなのだ。

そして、彼らは唯一、その絶望だけを共有する。自分と彼はどこまでも相容れない。何も理解しあえず、けして何も共にできないのだ。しかし、その的を射た否定だけが、きっと本当の理解で、冷たい無関心こそは優しさなのだ。

だから葉山は4話の時と違って、どこか誇らしげであり、もはや、八幡を理解したような顔で上から目線で憐れむこともない。一人称単数で、満足げに言うのだ。「自己満足だよ」と。

 

この圧倒的な空隙。絶対の断絶。

この断崖を、ただ目をつむって飛ぶしかない。そんな考え方がある。知りえないもの、確かめようのないものを、真っ暗闇の向こう側、あるかないかもわからない彼岸を信じて、ただ飛躍するしかない。

 

比企谷八幡「俺は本物が欲しい」

衛宮士郎「間違いなんかじゃないんだから!」

高坂麗奈「私は特別になりたい」

今年、これらのセリフがほとんど同時期に放映されていたのが実に興味深かった。

これらのセリフはどれも、そんな暗黒の虚空を跳躍する勇気を語るセリフだと思っている。

それは思考停止して、なるようになれ、というような態度だと、おれは思う。誤解を恐れず言えば、信仰の一種のようなものかもしれない。ちがうか。ちがうな。

それはそれで間違っているとは思わない。何か、自分というちっぽけな存在をはるかに超えて美しく普遍的な、何に流されることもない理想、例えば「本物」「正義」「音楽」とかを本気で信じることができるなら、それはとても素敵なことに違いない。

本気で信じることができるなら、だ。

 

おれは信じられない。おれは、というごく個人的な話。理想を信じることができる方々には縁のない話だ。

でも、とにかく、おれは信じられない。

今、ここ、おれが生きるこの世界は、嘘も欺瞞もあるし、うわべだけの空っぽでくだらないものかもしれない。おれ自身、嘘つきの偽善者でリア充だ。既得権益を守るために綺麗事を並べて権謀を用いる。ニセモノと言われたら、返す言葉もない。

しかし、そうだとしても、ここではないどこか、今日ではない明日を、持ち上げるための噛ませ役として貶められる、そんな扱いをされるべきなのかと。もしそうなら、おれは苦痛を感じる。だって、ここが、それでもおれの生きてきた、おれの住んでいる世界だから。おれはここで、頑張ってきた。どうして、今まで一人でも頑張ってきていた人間が否定されなきゃいけないんだ。

ニセモノを切り捨て蔑んで、ようやく美化されるような何処かや何かが、そんなに立派な「本物」なんだろうかとおれは疑う。まして、何かを、おれの住む世界と、おれ自身を、犠牲にするのなら、そんな本物はいらない。

おれは胸を張って言う、嘘で欺瞞だとしても、おれは悪ではない。ニセモノだけど、いや、ニセモノだからこそ本物だ。おれは、何かワルモノをこさえて、そいつを傷つけて排除して世界を完璧にしようなどとはしたくない、そいつに寄っかかって自分の本物らしさを誇ったりしたくない、そんなことしなくたって、おれは一人で歩ける、おれはむしろそう信じたい。

この、薄汚れた嘘だらけの矛盾に満ちた混乱した腐り果てたこの世界が、本物なんだ。

と、おれは思っているという話。

 

おれは信じている。

本物を求めるということと、ニセモノを否定することとは、ちがう。俺ガイルはきっと、そう言ってくれるはずだ。

だって、ものすごいニセモノからスタートしてる、マンガみたいな表紙の子供向けの小説だ。ラノベのテンプレそのもののキャラ設定、どこかで見たようなストーリー。なんという胡散臭さ、真面目に真実を追求するそぶりなど、かけらも見えない。

だから信じる。

 

たとえば9巻、平塚先生の美浜大橋の説教は、おれには空疎に聞こえると書いた。

その時、原作の描写はこうだった。

「雲の切れ間から出ていたはずの月は、既に隠れてしまっている。夜の海を照らすものはなく、冷えた風は頬を刺すように冷たい。

 それでも、不思議と寒くはなく、身体にはまだ温もりが残っていた」

月は隠れて、世界は昏い。平塚先生の自己陶酔ばかりの言葉のむなしさに絶望し、暗澹たる気持ちになっている。

でも、やはり、そこに愛情がこもっているのも嘘ではない。自己愛も愛のうちだ。タバコやスポーツカーと同列の、彼女のナルキシズムを飾るアクセサリーの一つ「問題児」役を押しつられただけだとしても、やはりそれも愛なのだ。

だから、どこか胸に温かさが伝わってくる。

八幡は、その愛情を率直に受け止め、感謝するのだ。文言のくだらなさに激昂してしまうおれなどとは違う。口ではどう言おうと、八幡は、決してニセモノを、嘘を、責めはしないのだ。

「いや別に嘘ついてもいいぞ、俺もよくついてる」

むしろついてついてつきまくる。それが私だ。はっちぃまぁ〜ん。八代亜紀の歌声を幻聴するほどの爽やかさで、きっと、八幡は欺瞞を許すはずだ。

 

こうやって、原作はその道のりを一行ごと一ページごと、じわじわと丁寧にすすんでいくのだけど。どうも、アニメは引き絞ってから一気にひっくり返すという演出にするらしい、とおれは理解した。

「続」8話、上記したのと同じ美浜大橋の説教シーン。説教が終わった後、月は隠れるのではなく、逆に雲間から顔を出すのだ。ピンスポットのように降り下ろされた月光が、見上げるヒキタニくんの顔を明るく照らす。

まるで、平塚先生の説教で悩みが解決して気持ちが明るくなったと言わんばかりに、だ。

原作と全く正反対の描写だと思う。

思えば、このあたりから少しずつ「続」の世界は頭が悪くなっていったのだ。「サムライフラメンコ」の第7回で突然キングトーチャーの改造人間が登場したかのような、現実感覚の変調。どんどん、童貞高校生男子が夢見るような退屈で陳腐なラブコメになっていく。

それは無論、あとで大きくひっくり返すときの演出効果を高める前振りなんだ。おれはそう信じる。そして12話、陽乃さんがきっぱり「つまんない」と言ってくれた。やはり、このまま終わるほど、八幡の青春ラブコメは正しくなんかないのだ。

 

ニセモノは、嘘は、欺瞞は、果たして責められるべきか。否定されるべきか。

俺ガイルが問うてきているのはそういう問いだと、おれは理解している。

だから、12話から、きっと登場人物それぞれの欺瞞が問い直されるはずだ。

 

たとえば陽乃さん。

これまで、彼女は俯瞰する第三者として、客観的な意味で正確な洞察を担保しているかのように、振舞ってきた。

しかし、本当か?

八幡の地の文さえ、当てにならない。信用できない語り手なのだ。陽乃さんだって語り手として信用できるとは思えない。

陽乃さんの言っていることは、大して正しくないのでは?

いや、おれから言い出してあれだけど、おれは実はその論点には興味が持てない。陽乃さんの発言が、たとえば「君は自意識の化け物だね」が、正しいのかどうかは、おれは割とどうでもいい。

おれが気になるのは陽乃さんがどういう意図で、気持ちで、動機でそう発言したのか、ということだ。

12話を見ておれは想像した。陽乃さんはまだ、もう一人の雪乃さんという役割を背負っているように見えた。陽乃さんは、雪ノ下雪乃にとらわれ、なぜか代弁者になっている、そんな風に想像をした。だって、いつもあまりにも雪乃さんにとって都合が良すぎる。

「あなたは、何もやらなくていいんだもの。いつも誰かがやってくれるんだもんね?」

何も言わない妹のために、妹の言うに言えない気持ちを代わりに演じている。そのことに苛立ち、怒っているのに、なぜかその役を止めようとしない。やめられないのかもしれない。陽乃さんがちょっかいをかけてくるのが、おれには、彼女が助けを求めているようにしか見えないのだ。

平塚先生や小町のように役割から解放され、ずっとかぶり続けた魔王のうわべが解体されますようにと、陽乃さんのために祈らないではいられない。

 

そして、由比ヶ浜さん。

12話で「あたしらしい、か……」と、口ごもるシーンが印象的だった。珍しく八幡から誘われても「……ちょっと考える」と保留したり、「なんか、ずるい気がするから」って八幡に夜道を送られるのを拒んだり。

原作10.5巻でも

「たぶん、ほんとにあたし、ずるいと思う。……いつもさ、ちゃんと止めてあげられないし、ちゃんと手伝えないし。それに……あと、なんかいろいろ」

となかなか意味深なセリフを言っている。

そして極め付けは12話最後の次回予告。

「欲しいものがある。でも頭がいいわけでもないし、ずるいから、自分の答えは一つだけ。だけど、それはきっと望まれている答えじゃないんだと思う。

欲しいものと望まれているものは、とてもよく似ているのに、なんでこんなに違うんだろう。ほんとうは、うそでもいいのに」

 

これまでの由比ヶ浜さん「らしくない」。

おそらく、これまで描かれてきたような、どこまでも男にとって都合がいい、ラノベヒロインみたいに「素敵な女の子」ではない「ずるさ」が、ようやく描かれ始めるのだろう。

おれは想像する。由比ヶ浜さん「らしさ」は、注意深く作り上げられた、演じられたものなんだろう。「料理器具の扱いは完璧だから」ってセリフの挿入が唐突な感じで、これが、実は由比ヶ浜さん料理上手、って衝撃的事実が明らかになる伏線だったりしてな、と思った。それが一番、由比ヶ浜さんの虚偽を強く印象付けそうな展開じゃないかな。罪がない嘘だから禍根が少なそうだし。

いや、おれの言うことだ、どうせまちがっている。

 

おれの個人的な感想だが、この小説「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」は、由比ヶ浜さんという少女を描くために存在しているんだと思っている。

彼女の描き方ひとつで、全く違う小説になると思う。

おれが夢見るようなラスボスクラスの謀略家、なんてことはありえないにしろ、多少は由比ヶ浜さんのキャラの掘り下げはされるものと期待したい。

でも、おれは一方で覚悟している。結局、何も変わらず、由比ヶ浜さんがどこからどう見ても素敵な女の子でございます、と描かれることを。

だとしたら、おれは。

「真実は残酷だというなら、きっと嘘は優しいのだろう。だから、優しさは嘘だ」

「世にいわゆる「いい女」というのはいても、「都合のいい女」というのはいないのである」

2巻、3巻、物語の序盤でそう語った八幡を、おれはずっと愛してきた。

しかし、その彼が、ついに屈する物語なのだ、と。八幡が現実から目を背ける物語なんだと、おれはきっとそう読むのだろう。

優しければ嘘でもいいのだ、と。嘘でもいいから都合のいい女に騙されたいのだ、と。

それは絶望の物語だ。

 

ラノベってのが、つまりそうなのかもしれない。少なくとも、おれにとってはそうだ。ファンタジーを逃避の文学と言ったのは誰だか知らないが、おれがラノベに求める気持ちを逃避と呼ぶのだと、おれは理解している。

もしも、夢に見たこともないような美少女が突然空から降ってきて。おれを、おれだけを理由もなく根っこから命がけで愛してくれて、存在を肯定し祝福してくれるのなら。

そしたらおれはなんでもできるのに、世界をひっくり返すような超能力をふるって、宇宙と同義なほどの強敵を打ち破れるのに。

でも、ダメだ。おれはこんなで、何もできない。だって、この世にそんな美少女がいないからだ。そんな風にできていない、この現実が悪いのだ。おれは悪くない。

おれがラノベを読むってことは、つまりそんな気持ちに浸るということだ。そうやって自分を甘やかすために読むんであって、要するにポルノと同列だ。そんな自分が愚劣で醜悪であり、自分のためにならないくだらん時間を過ごしているのは承知の上だ。健康増進のために酒を飲むほどバカじゃない。

 

だから、由比ヶ浜さんがやっぱり天使で。

「都合のいい女なんかいない」と言っていたはずの八幡が「いや、よく見たらいたわ、都合のいい女wwww」とばかりに、そんな由比ヶ浜さんを、素敵な女の子だと、優しい女の子だと、持ち上げ続けるのだとしたら。

そんな八幡自身の変化を成長だと。妥協の末の割り切りを、諦観の末路を「大人になる」といって誤魔化すのなら。

それはそれで、そういうものだと、おれも割り切って妥協して諦める。だってラノベだし。それが人生だ。おれは生きている。だから死ぬ。夢も希望も意味もなく、死んで無になってゴミになる。

それが、俺ガイルという小説なのだ、とおれは読むだろう。

おれの生きているこの世界には絶望しかない。慰めも救いも紙面の向こう側にしかない、だから、さあこっちに来い、天使のような由比ヶ浜さんに甘えるがいい、オピオイドに脳髄が痺れるような現実逃避を数百円分味わうがいい、と。

それが、この小説からおれという読者へのメッセージなのだと、おれは理解する。

そしたら。

うん、しってた、と。おれはうなずくのだ。

 

結局、おれは、自分の読みたいものを読み取るだけなんだろう。

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コメント

彼らの本物はどこに?
こんにちは。二話を含めて本当の本物はどこにあるだろうか?と思いました。
陽乃さんがこんなに怖いと思えることはありませんでした・・。
結衣ちゃんもまた、彼らの関係に気づいて落ち込んでいるのはなんだか切ないです。
だが、彼女は決して愛のために依存することはしないのが偉い。今時珍しいかも知れませんが。
八幡を思っての事でしょうね。本当の関係なんて答えはないでしょう・・・・。
あなたもそう感じたと思います。

竹丸さん、いつもコメントありがとうございます。
この辺り、原作ではどんな風に書かれているのか、楽しみですね。
次回はアニメも最終回。どんなエンディングを迎えるんでしょうか。

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