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2015年5月 6日 (水)

TVアニメ「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 続」第5話の感想

紅茶の香りはしないけど、母乳臭くて胸焼けします。

 

というわけで、原作10.5巻までのネタバレありで、「続」5話「その部屋には、紅茶の香りはもうしない。」の感想です。

 

 

 

 

 

 

5話凄い。

これまでも面白かったけど、5話特に凄い。

 

おれが俺ガイルをどう見ているかというと、渡航先生のマザコンはどんなタイプなんだろうか、という興味で見ている。

って話を奥さんにしたら「マザコンは確定なのね……」と溜息つかれた。

いや、だって、どう見てもそうじゃないの。今回の小町なんか完全に母親でしょうが。

って言ったら、奥さんが「いや小町さんは嫁じゃないかしら」って応えるから、おれは「そう思えるのは、妻に母親役を求めるマザコン夫が多いからで……」と言いかけてようやく気付いた。

おれが君に母親役を押し付けてるってことだよね。そうか。そうですね。いつもありがとう。

 

それにしても、由比ヶ浜さんの芝居のつけ方が見事過ぎて、背筋ビリビリした。

完璧すぎだろう。

今回みたいに尺の厳しい中で、由比ヶ浜さんがスマホに指をそっと伸ばすシーンにあれだけのカットを割く。極めて濃厚な演出意図を感じる。原作ではわずか3〜4行の描写であり、先を急ぐおれはほとんど読み飛ばしていたシーンである。

しかし映像化されてはっきりわかった。あのシーンで息苦しいような緊張感を味わうからこそ、後段の「……罪悪感って消えないよ」がずんと効くんだよな。

そのセリフを言っている時、画面では口元だけのアップ。そのとき、この娘がどんな目をしていたのか、想像するだけでゾクゾクする。

しかも、頭なでなでのボディタッチで性的誘惑、「ヒッキーは頑張った」連呼の自己承認欲求の甘やかし、からの「……罪悪感って消えないよ」なんだよ、たまらねぇ。

かっこよすぎる。まるで衛宮切嗣みたいに緻密な追い込みだ。

 

恥ずかしながら、おれは原作読んだ時は、「わかるものだとばかり、思っていたのね……」と言った雪乃さんの心情にばかりとらわれていて、このくだりはほとんど上の空で読んでた。由比ヶ浜さんどーせまたなんか可愛いことやってんでしょ、程度の印象しか残ってないかった。

とんでもない。

洗脳とか尋問の教科書に載せたいくらいの鮮やかな落としの手管ではないか。これが心を折るということだ、とおれは思った。

アメとムチのコンビネーションとは正にこれ、心理的な二重の極みだと思った。操作と支配の基本はアメとムチだけど、ムチってのを譴責や懲罰だとおもっている人が多すぎて、まあ、世間ではそうなんだろうけど。ときどき疲れることがある。おれの感覚では全然ちがう。叱責や懲罰は、適切ならばアメの方だ。

罪悪感や不安感を刺激したりして、その人の内部の葛藤に火をつけるのがムチ。そういうモヤモヤを発散する対象を外部に設定してやるのがアメだ。あくまでのおれの実感の上だけの話だけだから、世間で通用しないのは分かっているけど。

 

その点、例えば陽乃さんがヨンマルクカフェで言った「比企谷くんはなんでもわかっちゃうんだね」は、いい感じで八幡の罪悪感をついていると思う、さすが。でも、このシーンの由比ヶ浜さんに比べたらまだまだ全然及ばない。陽乃さんコワッ、みたいな印象を与えている時点でダメなんだ。

それに比べて由比ヶ浜さんの凄さ。

このとき、八幡には由比ヶ浜さんから責められたという認識は全然ないだろうとおれは想像する。むしろ、かばわれたとか、許してもらった、というような印象でいるんじゃないか。

おそらくスマホに意味ありげに指を伸ばそうとする、その直前の数瞬だけで、由比ヶ浜さんはその小さな芝居の効果を計算しきったのだろうと想像する。雪乃さんの詰問にヌケヌケと「有志の人間だろ」ととぼける比企谷くんのしっぽを捕まえることはそう簡単ではなかろう、それを試みて失敗するよりは、疑ったけど敢えて見逃すことにした、とアピールすることがその後の展開で有利だと踏んだのだ。

そして確かにその結果、あの比企谷くんが、常に悪意に怯えて、言葉や行動の裏を読もうとする彼が、由比ヶ浜さんに向かって無防備な脇腹を晒し、罪悪感のありかをまざまざと浮き上がらせているではないか。

 

今年は5月10日が母の日だそうだ。

だからこの頃、テレビでそれにちなんだコマーシャルとかも増えているし、多分そういうこともあって、識閾下に母親の表象が降り積もっているのかもしれない。おれは、なんだかいろんなものが母親っぽく見える状態になっている。

由比ヶ浜さんが、すごくお母さんっぽく見えるわけ。

その「お母さんらしさ」の傾きがどの方向かが、すごく気になっている。おれが冒頭、渡航先生がどんなタイプのマザコンなのかが気になってる、って書いたのはそういう意味。

「マザコン」とか、含蓄のある、学問的にも議論の尽きない言葉を、あえて定義せずいい加減なまま使い続けているんだけど、もちろん、そこは明確化なんかしない。変なこと言ったとき、あとで誤魔化したいからな。

マザコンっていうと、世間的にはほとんどの場合、お母さん大好きとか、お母さんに逆らえないとか、そういう意味で使われるみたいな印象がある。

でも、それってさ、そもそもお母さんのこと怖いってことなんだよね、とおれは思っている。怒らせたら何されるかわからない、とか、見捨てられたらどうしよう、とか、お母さんの顔色をうかがう姿勢。

怖いものに対しては、とりあえずへつらうでしょう。尻尾振ってご機嫌とって。でも、別のやり方もある。一目散に逃げ出すというのもありだし、あるいは窮鼠猫を噛む感じで絶望的な戦いを挑んでもいい。地に潜るようにしてひそかに呪ったり、何年も経ってから恨んでいたことを自覚したりな。

出会いのとき、向こうが子供も産める立派な大人なのに、こっちは目も開かない新生児である。彼我の戦力差は圧倒的というのもバカバカしい、絶対的と言っていい。ここまで力の開きがあったら、こっちは好き好きと媚びてお腹見せてひっくり返って、お情けをかけてもらう以外の生存戦略はほとんどありえない。

だから、生まれて10年以上も母親の寛容にすがって生き延びてきた連中の大半が、お母さん大好きだと、ほとんど自らも信じ込むくらいに主張するのは当たり前。いわゆるマザコンの大半が「お母さんありがとう大好き勢」なのは無理もない。

しかし、ある程度生活力が付いて来れば、そういつまでも自分を騙し続ける必要は無くなっていく。どこかで母親に対して自分が抱えている愛情以外の感情にも気づいていく。

そういうことって、おれは結構あると思っている。たとえばユングが原型の一つグレートマザーはまさにそういうアイディアだし、寺山修司の「毛皮のマリー」、メアリ・シェリーの「フランケンシュタイン」、Fate/stay nightでも特に「heaven’s feel」とか露骨にそうだったし。このサイトの発端だった「オーディン・スフィア」もそういう傾きを鋭くもっていた。

ま、おれが一人でそういう理解をしているというだけの話だけど。

 

そして、俺ガイル。

どうなんだよ、渡航先生、とおれはずっと思っている。

おれ個人は正直、おれ自身の母親に対しては恐怖と憎悪と敵意の方が表に出て来やすい方だと思う。

けど、あんまり母親のおそろしいところだけ強調されても、あんまりなぁ、と思っちゃう。だってやっぱりおれは信じてもいる。確かに、母親の子供に対する愛情は、あるのだ、と。愛と名付けたものかどうしたものか、ひたむきな切ないほどの思いが、とにかく、どうしようもなくあることは、あるにちがいない。

そのあたりの描写のバランスが、俺ガイルは絶妙だと、おれはおもっている。

 

陽乃さんや雪ノ下母の存在が、遠く魁偉の山容を地平線に描くように、悠揚と母親的な怖さを背景に描き込み続けていた。そこからプレッシャーを感じつつも、しかし八幡にとってはこれまではずっと対岸の火事。のほほんとして、上から目線で、踏み込むべきかどうかを悩む余裕があった。

普通のラノベなら、多分このまま、ラストまで行くんだろうとおれは思う。なんだかんだ言いつつも、主人公がヒロインを「救済」するところがクライマックスだ。

主人公の周りには理解ある妹や心砕いてくれる教師が、つまり母親の「善い」部分を体現するかのような人々がいっぱいいて、あるいは彼の手を引き、あるいは彼の背を押して、励まし導いてくれる。

個性と自由を踏みにじって押し付けがましい、母親の「悪い」側面の表象は、ヒロインの周囲に集中している。

まるで実験室みたいに慎重にコンタミネーションが避けられていて、アンパンマンか水戸黄門かというレベルで善悪がくっきり仕切られる。主人公は善なる母に育てられた善の代表として、悪と戦い、悪い母親に囚われたヒロインを、真の母の愛の咲く庭に、アザレアの咲く暖かい庭に連れ出す。

あまりにもシンプルで図式的なfairy tale。

 

いやいや。そんなお伽話など、ない、と歌ってくれるのが、我らが八幡と、その物語なのではないか、とおれは期待しているんだ。

すでに、これまで善なる母性の象徴のように描かれてきた小町が、その正しさを疑われている。

素晴らしいのは、小町が本当に善良で、心から八幡を愛していて、精一杯考えて、理由を与えようとしてくれたことが、疑いようなく明瞭に描写されているということ。小町はどこまでも母親としては理想的なんだ。

だからこそ、ただ母親の前でいい子にして、言うこと聞いてさえいれば、よちよちと頭撫でてもらっておっぱい飲ませてもらってめでたしめでたし、とはいかないのが現実なのだと、鋭く突きつけられる。

「容易く誰かに与えられるようなものはきっと偽物だ」

あったりまえだろうが。よく考えろ、そもそも小町は中学生の女の子だぞ。八幡とは全然、別の人間だ。八幡の人生は、八幡の人生。

八幡自身の人生の問題には「俺が見つけ出した、俺の答え、俺の理由で動かなければならなかったのに」

全くその通りである。

なぜ、八幡はこんな後悔をする羽目になったのか。

小町は悪くない。明らかに、八幡が甘えようとしたのだ。誰かに甘えてすがれば、誰かがやってくれると、そう期待したのだ。

「そうやって誰かにやらせたり押し付けたりするの、お母さんそっくり」

それは全く八幡には無関係なセリフだったはずだった。なのに、ここに来て、俄然ひるがえって突き立ってくる。はたして、8巻で八幡が小町にしたことは、雪ノ下母が雪乃にしてきたことと、比較したときどんな印象を生むのだろうか。そんな想像の膨らむあたりが、まさにこれぞ俺ガイルって感じだよな、っておれはワキワキして喜んでいる。

 

平塚先生もまた母親の善なる部分を煎じ詰めたようなキャラだったはずだが、所詮は彼女の個人的な感傷を押し付けてくるだけの気持ち悪いおばさんだ、と以前、9巻の感想で書いた。

ここでもやっぱり、平塚先生が善意から動いており、心から八幡のことを心配して、精一杯心を砕いていることは、ほぼ間違いないだろうところが、素晴らしい。

平塚先生は、悪くない。だから、がっかりするのは筋違いなんだ。

だから、八幡は先生に感謝する。身体にはまだぬくもりが残っている。それでも、もう八幡は、平塚先生の言うことを丸呑みにしたりはしないのだろう。

善い母親だから安心して従っていい、悪い母親だから反抗して拒絶すべき、そんな次元の話では、なくなったのだ。

ここで、これまで八幡が信じたかったfairy taleでは、ありえなかったコンタミネーションが生じる。平塚先生の言うことには、正しいところもある、間違ったところもある、ごちゃごちゃに混ざっている。無批判にただ呑み込んでしまってはいけないのだ。

「俺が自分で考えて、醸造して、飲み下すべきものだ」

いい人だからと言って、いつもいいことだけ言っているとは限らない。そうまとめてしまえば、あまりにも当たり前すぎる結論に、いまようやく八幡は到達したのだ。

この辺の映像化も楽しみだ。

 

いいお母さん万歳、悪いお母さん死ね、みたいな綺麗さっぱりヒステリックな勧善懲悪の世界観から、誰にでも良いところも悪いところもあるよね、という退屈なくらい常識的で穏やかな世界観へ、比企谷くん自身の視点の広がりを描くのが、この物語の一つの流れなんだ、と俺は思っている。

母親についての空想がどっちつかずで偏らない、このバランス感が、すごくいいと思っている。結局、母親と言っても、現実一人の人間だ。女神様みたいに素晴らしかったり、悪魔みたいにひどかったり、するはずがない。どっちの側面もあって、どっちとも割り切れなくて、中途半端でいい加減で、ああでもなくてこうでもない、どうにもこうにもよくわからん存在なのだ。

それって要するに普通の人間ってこと。

世間の誰もが、母親でさえ、普通に人間なのだから。もはや誰に対しても、過剰な期待もしないし、過剰な絶望もしない。ほどほどに信頼して、ほどほどに油断しない。

そんなバランス感覚を、おれは渡航先生に感じている。

 

さて、そんな物語の流れの中で、それでも、よちよちと頭撫でくりまわして、さあふくめと言わんばかりにおっぱい押し付けてくる奴がいる。

この第5話では、比喩でなく、文字通りそれをやってのけた。我らが由比ヶ浜結衣さんである。

颯爽、真っ向、八幡の乳離れに立ちふさがる。

はたして渡航先生のバランス感覚は、彼女をどう描くのか。

今のまま「素敵な女の子」「優しい女の子」では、明らかに不自然に、一方の極端に振り切れ過ぎだとおれは思う。しかし、彼女が何か下心があって、企んでやっているんだとしたら、それはそれで逆方向に振り切れ過ぎてしまわないか。

勝手に想像しておいて、その上で勝手な心配をする。おれの誤読の図々しさも実にばかばかしいと自分でも思うけど。

 

勝手な想像を続けます。

11巻は6月18日発売というニュースを聞いた。

由比ヶ浜さんの誕生日に合わせてきているのは、偶然ではないのだろう。表紙も由比ヶ浜さんとかだったりするんだろうか。

おそらく、10巻の流れから、冒頭は陽乃さんが俎上に上がるんだろうと想像している。小町、平塚先生に続き、陽乃さんも解放されるのではないか。

今の陽乃さんは、雪乃さんのある側面を代弁する狂言回し的な役割しかなくて、キャラとして全く立ってない。雪乃さんと陽乃さん、合わせて一人分の存在感しかない。8巻までの小町があたかも八幡の一部に過ぎなかったようにだ。

しかし、小町が八幡の疑似母親役割から解放されて、ただの頼りない女子中学生として生々しく得体の知れない個性の自由を回復したように、陽乃さんも彼女自身の不分明な自我を取り戻す展開があり得るのではないか。

そうなってくると、ますます不自然なのは由比ヶ浜さんの理想的なヒロインぶりである。

11巻、そろそろ由比ヶ浜さんが何者か、幾つかの可能性が描かれ始めるのではないか。

 

なんてなー。

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コメント

はじめまして、いつも俺ガイルの感想楽しみにしています。
管理人様の豊富な読書量に裏打ちされた考察に、基本アニメファンでラノベをかじる程度の私がコメントするのは少し勇気がいりますが、前エントリのコメントをみて私もと思いコメントさせていただきます。

感想を読ませて頂いて思うのですが、本当に管理人様はゆきのんの思考をトレースして読まれてるんだなという印象を受けます。
特に、管理人様が絵描く由比ヶ浜さん像は、ゆきのんに、女子言葉が理解できる程度に対人関係や恋愛関係スキルがある場合の由比ヶ浜さん評、という感じがするんです。
なので、由比ヶ浜さんが決して馬鹿ではないというのはそうだと思うのですが、恐れたり冷徹な策略家と評するのは、恋のライバルとしての劣等感が混じってる感じを受けるのは、恋愛脳すぎますでしょうか。

などという妄言でコメント欄を汚すことをお許しくれれば幸いです。

それにしても、アニメ5話の由比ヶ浜さんの演出は本当に良かったですね。このブログにおける考察を読んでいたのもあってか、その手管に私も戦慄し、より楽しむことが出来ました。感謝しております。
これからもエントリを楽しみに待っております。それでは失礼いたしました。

コメントありがとうございます。
む。Σ(゚д゚;)
つまり、私が雪乃さん目線で、由比ヶ浜さんに嫉妬していると……
むむっ。
9巻の「あなたって、卑怯だわ」という気持ちを引きずったままだと……
むむむ。
うーむ、そうですね。
そう言われると、その通りですね。
だって、なんかもう、いろいろと全然敵わないじゃないですか。男子から見たら素敵な女の子か知りませんが、同世代女子から見たら、脅威以外の何物でもありませんよ、由比ヶ浜さん。
もし万が一にも恋のライバル的な感じになったら、瞬殺というか。咬ませ犬役さえ、満足にさせてもらえなさそうな惨敗の予感しかしません。
っていうか、なんで比企谷くんなんだろう。あなたなら他にいくらだっているでしょう、と言いたい。
いかん、思考がすっかり後ろ向きだ。
でも、雪乃さん的には、まだ、愛とか恋とか全然そんなレベルの話じゃないと思うんですよ。
どうも、彼は何か特別だ、と。
自分の中で、かつて誰も占めたことのない場所を、彼の存在が温めてくれているのだ、って、ようやくなんとなく気づき出したばかりですよ。
それをこんな容赦なくガツガツ来なくたって、と思うじゃないですか。

すみません、カッとして長くなりました。
比企谷くんの健闘を祈るばかりです。(相手任せか)

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