「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている」10巻の感想 その2 手記を書いたのは誰か。
以前、10巻の感想その1をアップした直後、葵絵梓乃さんから「10巻の手記は、道化は彼女だと思いますか?」というコメントをいただきました。おれは「違う方が面白いな、と思います」とお答えしたのですけど、そのことをもう少し詳しく書きます。
以下、例によって、俺ガイル10.5巻までのネタバレありあり進行です、自己責任でお願いします。
「10巻の手記は、道化は彼女だと思いますか?」
というコメントを、おれは、10巻の「第二の手記」を書いたのは由比ヶ浜さんだと思うか?というご質問だと理解しました。
「道化」という言葉が出てくる手記は第二の手記だけだし、そのコメントが「8巻の感想 その1 由比ケ浜結衣の場合」に付けられたものだったからです。
いや、おれは前書いたみたいに第一の手記書いたのは比企谷くん、第二は葉山、第三は陽乃さんだと思っていますので。
ただ、マジレスすれば、手記が三つ、奉仕部が三人。
いよいよこの長編を締めようという時期に、わざわざ長らく続いた一人称を崩してまで挿入した手記が、奉仕部以外の誰かによるものだったら、構成gdgdでしょう。作家がそうしようと言ったって、編集が止めるはず。
構成の美しさを考えたら、手記は一人に一つ。だから問題は3人がどの手記を書いたか、6通りの順列のどれだろうか、ってことに絞っていいと思っている。いずれが雪乃か由比ヶ浜。
まあ、おれは実は、第一の手記は川崎さん、第二は小町、第三は平塚先生だと思うんですが。
葵さんのコメント読んでて思ったのは、どうして「彼女」とか指示代名詞で書かれるんだろう、と。それに「道化」という言葉をおれは手記を書いた人という意味でとったけど、そういう意味で通用するのは考えてみれば不思議なことだ。
そりゃ、もちろん、渡航先生が手記について情報を伏せるからだ。誰がどんな意図でいつ書いたのかなんの説明もなく、「道化」「邪智暴虐の王」と意味深な単語を並べ、手記は突然挿入されるだけだ。
10巻で、渡航先生は何の為にこういうスタイルで「手記」を挿入したんだろうか。その目的をもっと考えるべきなんじゃないか、とおれは感じた。あるいは、葵さんのコメントの真の意味もそこにあるのかもしれない。
「手記」を入れてきた目的について、おれは、一人称視点の語り部だった比企谷くんを解放するという目的が大きいと思うんだ、って10巻の感想その1でそう書いた。
過剰なナルキシズムが、平穏な自己分析へと厚みを増していく、そんなビルドゥングスロマンが俺ガイルの目標の一つなんだと示す目的なんじゃね、と。
しかし、それは読者の立場から、作者の意図を想像したにすぎない。
葵さんは言っておられるのかもしれない。「逆に考えるんだ」と。
作者の立場から、読者がそれをどう受け取るか想像してみろ、と。
そうか、こういう意味深な書き方をすれば、読者は自然、「この手記を書いたのは誰かしら」って考える。登場した全キャラクターを、コイツかいなアイツかいな言いながら、思い返す。
脳裏で全キャラクターを、もう一度、整理して並べ直すわけだ、この意味ありげな「手記」を基準にして。
それが「手記」の存在理由だと、ということなんですね、葵さん。
おれが「道化」と言われただけで第二の手記を書いた人を連想したのは、つまりおれ自身がその作業をしていたからだ。実は第二の手記の中には道化という言葉は一回しか出てこない。10巻中に全部で三回使われる「道化」は、後の2回は葉山の形容として書かれている。む、やっぱり第二の手記は葉山が書いているのか。
10巻で猛烈にお道化ぶりをプッシュされた葉山くんを筆頭に、そういう観点でみれば多くの登場人物に道化成分を見出せる。例えば戸部、あるいは相模、原作で実際道化ポジションの材木座や戸塚……重要なのはそう見るための「観点」。道化成分の多寡で、キャラクターたちを一本の軸の上で整列させる、そんな観点を持たせることが、作者の狙いと考えるのが自然だと思う。
第三の手記も同様。邪智暴虐の「王」という成分で、「道化」についてと同様の作業が繰り返される。
これらが合成されることで、俺ガイルのキャラクターはほとんどすべてが、「道化」をX軸、「王」をy軸とした王-道化平面にプロットされることに、おれは気がつく。
この平面が世界の断面。この一面でもって人間に斬り込んでいくのだ、という渡航先生の宣言と捉えていいのではないかと、おれは思っている。つまり、この作品のテーマが提示されているのでは、ってこと。
第一の手記の話が後回しになってしまった。
ここで「人間失格」という作品の名前が俺ガイル世界に初めて登場するんだけど、よくできていると思ったのは、第一の手記の人が「人間失格」をまだ読了していない、ってところ。
その作品を
「まるで自分のことが、それも秘して秘してずっと隠し続けてきた自分の本性が暴き立てられているように感じた」
と我が身に引き寄せて読んでいたにもかかわらず、読了していないその人が、再び我が身を振り返るようにして、続きから読み始める。
おれは想像する。
これはまさにおれのことじゃね?
読み終わっていないのは「人間失格」ではない、他ならぬ「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」というラノベだ。当初公式略称だった「はまち」をおしのけて「俺がいる」というダジャレのような略称が生き残ってきたのは、まさに「まるで自分のことが暴き立てられるように感じた」からではなかったか。
っていうか、おれに限らず、読者諸兄みなさまなのでは、とまでおれは想像する。
だから、おれは第一の手記の人が誰なのか、あまり気にならないのだ。
あえて言うなら、読者の感情移入を一手に引き受けるべき役割の一人称主人公、比企谷八幡あたりではないか、と思い切った大胆な予想をしてみる。
第一の手記の人を原点に、「王」と「道化」を軸とした平面が、世界を切るんだよ、と思っているわけです。おまえはなにをいっているんだ?
ハンス・カストルプを原点に、セテンブリーニとナフタの二軸が世界を切り取っていく構造との相似を連想すると、現代日本の「魔の山」だと言って……言って……言ってもいいのだろうか?
そんなことはどうでもいい。
葵さんのコメントにお答えするための次の問題は、第二の手記の人が由比ヶ浜さんと雪乃さんのどちらだろうか、ということ。
もっとも、おれは本当は、第一の手記は一色さん、第二は副生徒会長、第三は書記ちゃんだと思ってるんですけどね。
おそらく特定することに意味はないし、おれが作者なら結局分からないままにするように書く。
そう思った上で無粋な空想をする。
第二の手記の「道化」は雪乃さんじゃないかな。
「あの人に見抜いてほしいのに」って、「お願い気づいて」系の片思いじゃん。まさに、おれが書きかけの二次創作の雪乃さんそのもの。他の誰がなんと言おうと、たとえ作者の渡航先生が違うと言ったって、おれだけは、これは雪乃さんだと思わなくっちゃダメなんじゃないの、と半ば使命感に近い気持ちで思った。
「権威ある文学」というものをどうも本気で信じているらしい頭の悪さが、またものすごく雪乃さん臭がある。自己評価の低さともそれに伴う自己嫌悪、という特徴も、全編の中で雪乃さん以上の人はいないでしょ。
まあ、第三の手記の邪智暴虐の王が考えるまでもなく明らかに由比ヶ浜さんだから、消去法的に第二の手記が雪乃さんということになると思うんだけど。
しかし「あれ超速いよね!」とか言ってとぼけてた由比ヶ浜さんが、実は「何度読んだかわからない」ほど「走れメロス」熟読しているってだけでめちゃくちゃ萌える。2010年代屈指のヒロイン爆誕(おれ基準で)。
おれはずーっと、どうしても由比ヶ浜さんを好きになれなかったんだけど、実はこんな風に、壊すほど試しても三分の一も信じられない、みたいな疑心の人だったりしたら、めちゃくちゃファンになる。
正直、もし原作がこの方向に行かないなら、おれが勝手にその設定で二次創作しちゃうよ、まである。
つまり、おれの結論はズバリ、第一の手記は戸部、第二は大和、第三は大岡、です。
こんだけ書いとけば、どれか当たんじゃねーか。おれはこういう、正解があるもの当てるのが下手なんだ。国語のテストとかすごい苦手だった……。
でも、一方、おれは由比ヶ浜さんがどれであれ手記を書いた人だとしたら、少し残念に思ってしまうところがあるのだ。
葵さんへの返信に「違う方が面白いな、と思います」と書いたのはそういう意味。その理由をこれから書こうと思う。
だって由比ヶ浜さんまでそんななら、登場人物が人間失格者ばかりになっちゃう。
「人間失格」という小説は笑える、ということは以前も書いた。
笑いどころはいくつもあるけど、例えば冒頭から「自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです」などと突然思いつめたような口調で書き出し始めるあたりからしてもう可笑しい。
大仰に何を言い出すかと思うと、要するに「他の人の気持ちがわかりません」ということらしくて、そんなの当たり前じゃねーか、と。
どうも、人間の気持ちがわからなくて、人間の生活というものが見当がつかない、ということが結局、人間の資格がない、という話らしい。
つまり、主人公、大庭葉蔵君によると、どうも人間たちの集団はお互いの生活やら気持ちだの理解し合っている、となるらしい。一方では、人々が平然と他を欺き、自分を偽り、裏表を使い分け、そうやって足を引っ張り合ったり傷つけあったりをする、とその矛盾を彼自身が指摘するくせに、葉蔵君は、「人間が理解できない」という性質を、あたかも自分だけの特異な例外的特徴であるかのように語る。
そして、自分とは違う謂わば「合格人間」達が、普遍の圧倒的な多数集団として社会を構成し、自分のような失格者は社会から弾き出され、「脳病院」に収容せしめられて「癈人という刻印を額に打たれる」となるのだ、と。彼はそう主張するのだ。
成る程、葉蔵君は精神の健康を欠いているやもしれぬ。それは斯くの如き合格人間集団の存在と、その圧倒的強盛という妄想を固く信じている、その一点のみにおいてだ。
無論、明らかに合格人間など存在しない。
存在しない。ああ、そうだろう、太宰が空想した合格人間など、麒麟や饕餮と同列のむなしい幻獣に過ぎない。
分かっている。
でも、そのおぞましいクリーチャーの印象をおれは懐かしむのだ。
人類がこれまでどれほどの架空のモンスターを生み出してきたか、到底数えきれるものではないけど、ここまで恐ろしい空想はないのではないかと思う。
見た目は人間と区別できないほど似ていて、言葉を交わすこともできるのに、中身が全く得体の知れない怪物、というのは例えば「ボディスナッチャー」とか「遊星からの物体X」、広く見ればロメロのゾンビものも含まれるかも、そういうものに通じるような恐怖の対象じゃないかと思うんだけど、太宰の書く合格人間のイメージはそれら怪物どもの中でも抜群におそろしい。
おれは、由比ヶ浜さんがこの合格人間だったらいいのにな、って思うんだ。
正直、9巻まで読んだ時点では、おれも、きっと由比ヶ浜さんが自覚的してやってんだと思っていた。すっごく邪智暴虐だと思うけど、先述の王-道化平面上にプロットできる、まあ普通の人間、太宰流に言えば失格者なんだ、と。
でも、渡航先生は、ワザワザ「人間失格」を引用してきた。
やめてよ、おれ「人間失格」好きなんだよ。引っ張られちゃうだろ。
合格人間は、王-道化平面の例えを続ければ、原点を垂直に貫く第三の軸みたいなもんだ。次元を一つ引き上げられてしまう。そこから見たら、王-道化平面が所詮は、作者が恣意的に固定した単なる一平面であることがばれてしまう。
規格外で、世界の外で、どうしようもない世界のフレームだ。まどかマギカのワルプギスの夜、Fateの大聖杯、Gガンのデビルガンダムみたいな、この世全ての悪。
━━こいつ……合格しているぞ……
恐怖と緊張に生唾飲み込みながら。比企谷くんと雪乃さんが、そのモンスターを石波ラブラブ天驚拳で打ち倒すような展開を、おれは期待してしまうのだ。がんばれ合格人間。まけるな合格人間、由比ヶ浜結衣。
楽しみだなぁ。
もし、そんな展開になったらgdgdすぎるだろう。すごいぞ。「サムライフラメンコ」並みの超展開である。おれ大好きだったんたよね「サムライフラメンコ」。
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