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2015年3月30日 (月)

「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」10.5巻の感想

10.5巻読みました。

面白かったです。

感想書きました。いそいでアップしないと、テレビ放映に間に合わないと思って、がんばりました。

4月になると始まるでしょ、ほらアレですよ。アニメの、江口拓也さん主演の、ホラ、俺ナントカってやつ。

なんと、浅香守生監督だそうじゃないですか。「ちはやふる」の。おれの奥さんに言わせると「ガンスリンガーガール一期の監督」ってことになりますが。共演は島崎信長さんだそうですよ、燃えますな。

 

以下、完全ネタバレありで10.5巻の感想、および10巻感想の続きなどです。

 

 

 

 

 

まるで、今始まったばかりのラブコメラノベを読むように面白かったです。

なんだよこのラブコメまちがってねーじゃねーか。看板に偽りあり、だ。

 

おれにとって一色さんは、以前は由比ヶ浜さんよりはだいぶ共感しやすい子だったんだけどな。10.5巻を読むと好感度大暴落が止まらない。なにこの都合のいいサブヒロイン。キャラクターというより、むしろ舞台装置という印象。

いや、これもきっとミスディレクションなんだ、と、おれは信じたい。最終巻まで読んだ暁には、きっと、このころの一見ラブコメのテンプレみたいな人間模様の背景で、度し難い人間の愚かさや手に負えない相互理解の不可能性が、取り返しのつかない形で現れていたことを、おれでも読み取れるようになるはずだ。

非人間的なほどに可愛いヒロイン達から、よってたかってチヤホヤされることでしか癒されないような自己愛の傷つき、俺ガイルはそこを的確に抉り出しておいて、ただ、容赦なくその無様さを観察して記録するだけ。

無責任な救済を決して約束しない。

そういうタイプの誠実さを、おれは愛しているのだ。

……なんてな。

おれは往生際の悪い男で、どうしても認められないのだが、でも。

おれが期待するような自己愛の問題を真摯に追究みたいな作品には、これはならないんだろうな、と。

いや、おれだって、どこかで分かっているんだ。

10巻を読んだおれの奥さんは言った。

「雪乃のお母さんがガハマちゃんを大人っぽいと評したのは、雪乃に友達がいると思わなくて、驚いてしまったのを言い訳するためでしょう」と。

ですよねー。

うん。おれだって、そうだろうと思っているんだ。本当は。

多分、9巻の平塚先生は、本当にいい先生というつもりで描かれているんだろう。8巻の小町も、本当によくできた妹として、書かれているんだろう。

だから、おそらく由比ヶ浜さんは、きっと、本当に「素敵な女の子」なんだろう。俺ガイルの作中世界ってのは、そういう一人称ヘタレ男子主人公に都合がいい素敵可愛いラノベ風ヒロインが実在する、ファンタジィ世界なのに違いない。

そんなラノベを現実と重ねて読んでいた、おれが中二病というだけの話なんだろうね。

 

正直、6.5巻が出た時点で、疑問は無視できないほどになっていた。

正確に言えば、BD/DVD特典、6.75巻を読んだ時だ。棒倒しで反則行為を犯す比企谷くんの動機が全く理解できなくて、これまで読んできた自分の理解に根本的な勘違いがあるような気がした。

6.25巻が出た直後、彼の反則はむしろ自軍の確実な敗北のための策略、と読んだ感想文を、おれはここにアップした。

未だに、棒倒しで反則する理由を、他に思いつけない。比企谷くんの気持ちがさっぱり追えなくて、6.5巻の感想文は中断したまま。

作中では一応「城廻先輩からの勝利の依頼」「他の奉仕部員との約束」という理由が提示されているんだけど、でも言うまでもなく、彼女達の真意は「勝利」ではなく「敢闘」だろう。反則してでも勝ちたいなんて、誰も言ってない。むしろ、反則は彼女達の努力を踏みにじり侮辱する行為だろう。比企谷くんはそんなことも理解できないほど愚かだという表現なのだろうか。

要するに、愚かで、その上、調子乗りすぎたということ? 若気の至りの傲慢さで、独りよがりなスタンドプレーをしたということなのかな。7巻、8巻の展開を考えると、そういう理解が一番妥当な気がする。

でも、それって、書いてある通り、そのまんまだよ?

いや、だからそれでいいのか。書いてあるまま素直に読めばいいのか。……えー、それじゃなんのための読書だよ。

いやもし仮に百歩譲ってそうだとしても、それでもおれにはピンとこない。比企谷くんが独善を発揮するとしても、そこでですか?と思っちゃう。

だってたかが棒倒しだよ?

海老名さんが「ひ、卑猥……」と叫ぶのを待つまでもなく、男子達のシンプル極まるオス自慢的な自己愛合戦である。強制的に参加せざるを得ないのは仕方ないとしても、比企谷くんはそんな場面でなぜ勝ちたいと思ったのだろう。

むしろそういう体育会系筋肉ナルキシズムに対する嫌悪と軽蔑がずっと語られてきたはずだ。その言説が実は憧れの裏返しで、本当は比企谷くんも体育祭で大活躍してMVPになりたいみたいな思いを燻らせてきたということなんだろうか。

その程度のひねくれ方は彼にしては単純すぎるとおれには感じられるし、仮にそうだとしても、だからと言って反則行為というのは、あまりにも短絡的に思える。

結局、おれには6.5巻の八幡が理解できない。きっと、おれは八幡のことを決定的に誤解しているのだろうと思う。

 

それでも、おれは諦めきれない。

俺ガイルが、おれ自身のナルキシズムを読み解く鍵になる作品になりうる気配を、ヤッパリ感じてしまうから。

10.5巻。八幡が「高度な皮肉」という表現を何度か繰り返すのが、「悪意に怯えているみたいで可愛い」のだもの。

そう言えば読売新聞のSUGOI JAPANのラノベ部門も1位獲得されたそうですね、おめでとうございます。10.5巻の帯で知りました。

2年連続「こなラノ」1位と言い、乗りに乗りまくってブイブイいわしてる、ようでいて。おれには、渡航先生ご自身は予想だにしない高評価にびびり上がっているみたいに、おれは感じている。これってホントなのかよ、実は超高度な皮肉でみんなして俺を笑い物にしているんじゃないの、って。

材木座とのやり取りの中で、八幡が、本来なら彼の知る由のない「ラノベ作家にもっとも必要なもの」を妙にシリアスに考察して、曰く「鋼のメンタル」と言い出すのも。上げて上げて上げて、さらに上げて、天より高く持ち上げて、そろそろ突き落とされる頃合いだ、と。その空前絶後の落差に受け身を取るべく、自らに言い聞かせる気配を、おれは感じる。

 

渡航先生は元来、鼻持ちならないうぬぼれ屋、と見られたがっておられるような演出をされていたように思う。それも嘘ではないのだろうけど、一方ではとっても臆病で自己評価が低くて、そのお調子者ぶりも、傷つくのを恐れて強がったり道化を演じたりするような韜晦のニュアンスが強い印象がある。

そこまではまぁ普通だ。人情として不思議ない。それが人間の当たり前の心理だからこそ、あの抱腹絶倒の傑作滑稽小説「人間失格」が読みつがれ、日本でも指折りの有名作品になっているんだと思う。

でも、こっからはおれの全く根拠のない空想だが、どうも、渡航先生には上記のような自らの高慢と卑怯の葛藤を、注意深く自己演出しているかのようなところがほの見えて、そこが可笑しくってならない。

世間の好評に対して「こうどなひにくです?」とか「はがねのめんたるがひつようです?」と自信なさげに小首傾げてみせるあたりがあざとすぎて、このあざとさは計算デスヨ、みたいな多重の自己韜晦を感じさせて、お前は一体何と戦っているんだ的バカバカしさがたまらない。

「不良が捨て猫拾ってみせると俄然株が上がるように、普段チョウシのってる俺が怯えてみせると謙虚で可愛らしく見えるでしょ」という計算をしているだけで、本当は別にそんなに怯えてないですし、ええ、俺を怯えさせたら大したもんですよ、みたいな。

この自家中毒に自家中毒しているような感じに、おれは妙なリアリティを感じているんだ。

自己陶酔と自己憐憫の落差が極端すぎて非現実的、自分でもそのことをなんとなく感じていて、自分が現実の地に足をつけていないかのような不安感、心もとなさが離れない。離人感がデフォルト、みたいな現実感覚。

陽乃さんが「理性の」あるいは「自意識の化け物」と表現したのも、ざっくり言ってしまえばそういう在り方なんじゃないかと思っている。

おれ自身がそうだから、というだけの話かな、とは思うんだけど。でも、ひょっとして、例えば「おたく」のある一部のタイプとか、ひきこもり、ニートの一部を成すある種の人格の類型として、そういうタイプが考えられたりしないだろうか、って。

 

身の程知らずな自惚れと憧れがあって、しかし同時に、過保護の中で甘やかされてきたに過ぎないという後ろめたい自覚を伴って、自分は井の中の蛙なのだから、大海の厳しさの中では溺死するしかないのだと確信に近い恐怖に絡め取られて身動き取れない。

多分、ほんとうは、その想像より現実は甘いし、自分も意外に実力があるし、タフなんだけど、そうは思えなくて、必要以上に警戒してガチガチの安全策の中に立てこもる、そういう自意識。

この、幼くて生意気なヒキニート自己愛が、ラノベを手に取らせるのではないか。いい歳して、アニメ見て、ゲームにはまって、ラノベ読んで。要するにおれのことなんだけど。

でもおれは図々しいから、風呂敷を広げてみる。おれだけに留まらず、ラノベ読者のメンタリティには共通して、このナイーヴでフラジャイルな、そしてハイパーヴィジラントな自己愛が巣食っているのではないか(おっと一瞬意識が高くなってしまったぜ)と思うのだけれど、おれの偏見だろうか。偏見だな。なんだいつものことか。

 

そのタイプの自己愛を俎上にあげるに当たって、俺ガイル以上のまな板はないんじゃないかとおれは思う。

結局、作品が響くかどうかは、読者側の素養によるところが大きい。通じる読者に届けられるかどうかが、コンテンツ産業の勝負どころなんだろうと思っている。「ラノベで大事なのはイラスト」というのはそういう意味なんだと理解している。

だから、ラノベ好きのキモオタヒキニートの魂の物語は、ラノベで書かれなければいけない。一般文芸なんかじゃダメなんだ。怪力乱神を卒業した君子様方の楽しまれるようなまともな大人の文学なんぞ、まともな大人の精神しか描けない。怪力乱神のレベルに固執しながら、それを中二病とせせら笑う屈折の両方が、いま同時にここで展開しているオタク文明の中にこそ、その陶酔と惑乱は存在する。

 

ラノベの本質はメタ突っ込みにある、とおれは思っている。自嘲とか自己矛盾と言ってもいい。

俺ガイルはその意味で、痛々しいくらい真面目すぎるド直球のラノベだと思う。「確信的ニセモノ志向」とおれがかつて讃えたのは、そういうところだ。

あえて、夢を見すぎの甘っちょろい学園ラブコメラノベのテンプレ通りにキャラもストーリーも配置して、そんな世界にシニカルな構えで斜めに向き合う主人公すらも、キョン以来のド定番である。

どこを切ってもラノベらしいラノベとして始まりながら、しかしストーリーが進むにつれて、その物語世界は少しずつ、ラノベではありえない現実をむき出しにしてくる。誰も主人公を理解せず、主人公も、誰一人として、他を理解することができないのだ。最初は見透かしていたようなことを言って余裕を見せていた主人公も、そんな世界の正体に傷ついてしまう自分を、次第に隠しきれなくなっていく。

結局、世界に甘っちょろい夢を見ていたのは、主人公自身だったのだ。欺瞞を憎み、世界のある種の真実を見抜いていると自惚れていた主人公こそが、誰よりもうわべだけのものに騙されたがっていたのだと明らかになる。

つまり、それがお前だ、と、俺ガイルは、おれに言う。「俺がいる」とは、実に上手いことを言ったものだ。

 

だったらいいのになぁ、という話だ。

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