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2014年11月12日 (水)

「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」9巻の感想 その1 八幡の仕事

さて10巻発売まであと少し。

そう言えば9巻の感想書いてなかったよ。8巻の感想も何となく尻切れとんぼな感じだったままですが、今更ながら最新刊の感想行くぜ。

 

前回までgdgd書いていたことをひとまず要約。

比企谷八幡は結果的に目立つことをしただけだ。それを自己犠牲と見立てたのは見る者が自分のヒーロー像を当て嵌めただけだと思います、みたいなこと。そうだったのか。

ただ、確かに八幡にも、そんな誤解のきっかけを与えるような行動パターンの変化はあったよね、という話。

 

さて今回はその続きが書けるのか。

 

ちょっと付け加えておくと、彼がとっさに身を投げ出して見知らぬ犬を助けるような性格を持っているのも事実で、その点は自己犠牲的といってもいいのかもしれないと、おれも思う。

でも、6巻で平塚先生が「君自身を傷つける」と言った行動は、それとは全然性質が違うと思う。犬のエピソードは作品の主題をくらますミスディレクションだったり、彼の真意が周囲から理解されない状況を自然なものにするための伏線なのだと思う。

 

以下、例によって「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」9巻までのネタバレ全開なので、ご注意のほど。

 

 

 

 

 

俺ガイルといえば会議。手に汗握る学園異能会議バトルは本巻も健在。

現役リーマン作家の面目躍如と言うか、会議シーンの燃えることと言ったらない。

会議のない俺ガイルとか、半額弁当を取り合わないベン・トーみたいなもの。

 

比企谷八幡の決めゼリフと言えば「絶対に働かない」。

そう真っ先に思い浮かぶ、そのくらい「仕事」は俺ガイルのメインテーマの一つだろう。

「労働」とか「職業」といった言葉では、ちょっとニュアンスが違う。おれの語感では、やっぱり「仕事」と言うのがしっくりくる。

誰がやったっていいような退屈な作業、日常的な雑事。やりがいも張り合いもなく、悲壮感も使命感も達成感も伴わない。でもやっぱりしないで済ますわけにもいかなくて、誰かがやらなくてはならない。そんなイメージ。

「仕事ってのはやめることはあっても、終わることはねぇんだよ」

ラスボスがいて、最終決戦があって、それに勝てば大団円。そんな、救済や解決を繰り込んだ世界観を、真っ向から否定するカフカ的窒息、それが俺ガイルの描く「仕事」なのだろう、とおれは思っている。

 

仕事。

無目的な日常生活の永劫回帰。

その空虚さにどこまで息を堪えていられるか、この憂き世を生きていくって、そういうことだろう、と。

でも、おれの幼稚さは、そこが辛抱出来ない。

空想は、より幼くなるほど堪え性なく、意味を、理想を、正義を求めるものだ。自分の無意味さの窒息を救ってくれる、無限に甘やかしてくれる魔法の乳房をまさぐろうとする。

中二病の動機はそこにあると、おれは思っている。おれが勝手に言ってるだけだけど。

君子は怪力乱神を語らず、とはつまりそういうことなんだろう。ハッピーエンドなど求めないのが、大人だってことだぜ、と。

 

だからなんだろう、9巻の敵役の玉縄さんは、相模南ちゃんより更に小粒になっていると思った。困った人だな、とはおれも思うけど、南ちゃんのときみたいに、好きにしろ嫌いにしろぐっと感情移入するほどの存在感はない。まあ、好きにやらせておけばいいんじゃね、という感じ。

そもそも、今回のタスク、二校合同のクリスマスイベントってのが、小規模な対外的なイベントで、すごくどうでもいい。

今年から思いつきで始まったらしく、守るべき伝統もなく、気にすべき外圧もない。地域貢献の建前をうたってはいるけど、他校と合同ということなら、そこまで地域に密着しているとも思えないし、クリスマスに演芸会を開く程度のことが何程の貢献になるとも思えない。

これが例えば、6巻のときの高校の文化祭ともなれば、作品内で指摘されたように、受験生が志望校選びの参考にしたり、地域商店街の繁栄に影響があったり、結構多くの人の将来だの生活だのを左右しかねない。賑々しく且つ安全に執り行うことは、高校生の分際では滅多に体験出来ないほど重い責務である。

それと比べれば、9巻イベントのリスクは屁でもない。失敗したところで、企画者のプライドが傷つく程度のことであろう。

要するに、最初からコトは「お仕事ごっこ」なのだ。仮に玉縄さんの意識が高くなくて、ろくろを回さず、諸事そつなく堅実に進めていく実務家だったとしても、案件がこの案件である限り、お仕事ごっこ以上のものになりようがない。

 

それなのに「ごっこ遊びがしたければ余所でやってもらえるかしら」とマジ切れて見せる雪ノ下雪乃さん。

どのくらい本気でそう言っているのかなぁ。

いくらなんでも本気じゃねーだろ、玉縄陣営を怒らせるために言ってるだけだよね、と思いたいんだけど、ひょっとしたら、けっこう本気で言っちゃってんのかなぁ、と疑ってしまう。

雪乃さん、こと「仕事」に関しては、残念なところしか見たことないからなぁ。そのダメさ加減がすごく可愛いわけですが、一緒に仕事はしたくないなぁ。部下ならまだいいかな、上司だったら最悪だ。

雪乃さんに比べたら、玉縄さんや南ちゃんの方が、全然マシだと思う。何もしないだけだからね。

 

玉縄さんが小粒で、案件が些事だからこそ、登場人物各人の仕事への意識がはっきりする仕掛けなんだと思う。

仕事のやり方というか、仕事に向き合う態度というか。

これまでも、例えば「問題の解決」と「問題の解消」を対比するみたいな形で、俺ガイルで取り上げられてきたテーマ。

「問題を起こすなという命令と、問題を解決するよう促すことはまるで違う」と、7巻で平塚先生が言ったのも、同じテーマについてのことだとおれは思っている。

 

どうも平塚先生を中心として、俺ガイル世界の多数派公序良俗は「問題は解決すべし」と迫るかのようである。そこを斜に構えて解決を迂回し、「問題の解消」を試みるのは、ヒネくれた高二病であり、更生されるべきなのだ、と。

作劇の作法に素直に読めば、これはつまり、アンチテーゼの引き立て役としてのテーゼなのだろう。「転」に備えての「起承」であり、「破」を予定された「序」であるはずだ。

そして一方で、比企谷八幡は真っ向から「問題の解消」を体現してきた。

それは作劇上祝福される運命にある「転」あるいは「破」なのだろうか?

6巻までの流れは、そうだったと思う。

 

リアルな話をしてみよう。

 

高校までの教育課程では、与えられた問題に真面目に取り組んで解答を導くことを訓練されるし、しかもそれらの問題自体は予め教師など大人たちの手によって調整済みで、真面目に取り組めば必ず正答が得られるように出来ている。

だから、正攻法で解答を出さないことは、解答者の無能、あるいは怠慢である、という見方が罷り通る。

しかし、普通の学問や当たり前の社会生活の中では、ある「問題」が、あたかも既定のように思われても、愚直に回答しようとする前に、その前提や妥当性を疑い考え直すことが当然の対応だ。

既知の「問題」に捉われず、猥雑なナマの状況から、ポイントを押さえて柔軟に新たな問題を立て直すことが出来る能力こそ、知性と呼ぶべきものだろう。

こんなこと大人なら言うまでも無い常識だが、しかし、思えばおれだって高校生の時分では、問題があったら固執して、諦めず正解を求めることが美徳であると信じていたような気もする。昔のことなのでよく覚えてないけど。

無論例外はあるだろうけど、与えられた問題に対して逃げずに真面目に取り組むことは、大抵の場合は不合理で非効率的で目的を遂げられないことが多いように思う。要するに愚行である。

 

「問題があればこれを解く」というシンプルな行動原理に比べ、「その問題は解答可能なのか、あるいは回答するに値する妥当な問題設定なのか、といった観点から、問題の立て直しも含めて検討する」という行動原理は、複雑だが、注意深く慎重であり、より効率的で合目的的なゴールを設定出来るだろう。

おれの感覚ではよりパワフルで、自由度の高いメソッドだと思う。

「絶対に働かない」と主張してやまない八幡が登場人物の誰より「仕事」を知っていて、有能だという皮肉が俺ガイルだと思います。

 

そう「問題の解消」という概念は実にリアルなんだ。

俺ガイルが、その、いかにもなテンプレラノベっぽいチャチなニセモノくささにも関わらず、妙なリアリティを放っているのはその辺りからだろう。

現実逃避のツールであるはずのラノベファンタジーのくせして、むしろ自らの基礎を切り崩すように、殺伐とした現実感覚をふりかざして、理想的で完全な解決への希求を幼稚な強迫観念だとせせら笑う。その矛盾と小気味よい皮肉が俺ガイルの魅力の大きなものの一つだった。

 

しかし、その6巻を通過して、すでに八幡セオリーは既知のものとなった。相対化され陳腐化し退屈になってしまったそれに、7巻以降のクライマックスを支える力はないだろう。

では、今、俺ガイルがスタンダードなエンタテインメントとして達成すべき「転」「破」は何だろうか。

 

ここからいつものように、おれの希望的願望を垂れ流します。

ぶっちゃけ、おれは既に、ドンデン返しがあるようなストーリーを俺ガイルに望んでない。もう、エンタテインメントじゃなくたっていいじゃん、くらいの気持ちがある。

ヤマもオチも、イミもなくたっていい。

そして、素敵なことに、9巻、おれのそんな期待は裏切られていない、と思った。

正直、読む前まで9巻は6巻の焼き直しになることを覚悟していた。

6巻、八幡が雪乃さんを救うために動いたように、雪乃さんが八幡のために動くのではないか、と恐れていた。

そしてその描写によって、6巻の八幡はあらゆる解釈の可能性を奪われて、要するに愛する少女を自己犠牲によって救ったのだと、ロマンティックな解釈でとどめを刺されてしまうのではないか、と。

しかし、全然そんなことはなかった。

今や、この物語にとって「解決」と「解消」の一元的な二項対立のダイナミズムは過去のモチーフなのだと、おれは感じる。

 

さて、八幡の話に戻ろう。

冒頭で、彼は敢えて自己犠牲をしたのではない、ただ目立ってしまっただけだと書いた。

彼が目立ってしまうのは、さっきから書いている大人っぽい現実感覚のせいだろう、というのがおれの理解だ。

みんな子供ばかりの高校生たちの中で、いや平塚先生でさえその辺り青臭いのに、彼だけが大人の理論で動いている。

しかし、一方、彼は子供の理論も十分理解している。

正直、おれには6巻や7.5巻の南ちゃんやその取り巻きの言動はまったく予想できなかった。心情的には共感できるけど……大人社会では、あんな態度取っていたら、絶対、南ちゃん達の方が叩かれるよね。別口の悪い噂流すとか、南ちゃん達が関与していない箇所で攻撃するとかになると思う、大人同士なら。

でも、八幡は6巻で起こることをかなり正確に予期していて、自分が攻撃を受け止める役を買って出ることが事態を動かすという確信の上で行動している。

自分の受けるダメージを計算に入れている辺りが、自己犠牲的に見えるのだろうけど、何かすればそれなりにリスクを負いコストを支払うのが等価交換の法則というやつだ。

彼はその計算を読み違えたわけではない。

とっさのことで、衝動に負けて計算をすっ飛ばしたわけでもない。

それだけの価値があると、彼がみなした何かのために、必要な代価を支払っただけだ。冷静に、穏やかに。

 

まず、そのような冷静な計算が出来るということが子供達の中で異質だと思うんだけど。

しかし、そういう部分を露呈して変な目立ち方をしてでも、それだけのコストを支払う価値を、彼は6巻で見出したのだ。

おれは6巻に書かれていることは、そういうことなんだと思う。



八幡のその早熟な仕事感覚はどのようにして育ってきたのだろう。

将来の夢は専業主夫、と1巻で彼が言い出したときには、最初はひどい世間知らずの甘ったれた言い様に聞こえた。専業主夫ってすごい大変だぞ、舐めてんのかって思った。

でも2巻で示された、妹のために早く帰っていたエピソードを踏まえて考えると、全然響きが変わってくる。

「早く帰ってきたのは友達がいないから」みたいなまぜっかえし方をされるんだけど、そこは因果関係が逆なんじゃないの? 小町のために、早く帰ることが続いたから、友達とのすれ違いが増えたってことは無いんだろうか?

無論、もしそうだとしても、八幡は絶対にそうとは口にしないだろう。小町が聞けば、彼女は自分を責めるかもしれないじゃないか。

 

そもそも、その前は、八幡が家事をしていた。「小学六年生レベルでは家事全般だいたいできる」ということは、おそらく小学六年生までだ。

当時、家事全般に加えて、妹の面倒もみていた彼が、標準的な小学生たちと、時間や話題が、合ったのだろうか?

そのために友達ができなかったという可能性はないだろうか?

友達がいないというのは八幡の持ちネタになっているんだけど、彼が一切、その理由や背景を語らない。推測さえしようとしない。

小中学生の頃の彼が、楽しく遊び騒ぐ級友を尻目に、日々、家事のために、妹のために、早く帰らなければならない境遇を不満に感じたことがなかったとは、おれは信じない。

これさえなければ俺にだって友達が、と、本当にその通りかどうかは別として、誰かを恨みたくなるのが、人情として無理のないところだと、おれは思うんだけど。

でも彼は何も言わない。

 

その上での、専業主夫志望宣言。

 

6巻で彼が独白する。

「どうして、今まで一人でも頑張ってきていた人間が否定されなきゃいけないんだ」

誰のことを言っているのか。

一人で頑張ってきたとは、誰のことか。

そして、否定されてしまったのは。

6巻では、それは雪ノ下雪乃のことなんだけど、でも、八幡がそのことを理解できるのはなぜか。以前にも書いたように、客観的に見れば6巻の雪乃さんは無茶苦茶にひどいやつで、南ちゃんや文実委員の反応は、ある意味当然のことなのに。

なぜ、八幡は雪乃に肩入れをする?

 

おれの勝手な理解では、八幡自身がずっと、一人で頑張ってきたからだと思っている。

しかも、そのことが評価されない。むしろ頑張りの結果の孤独を「友達がいない」などと揶揄されて、価値を否定されている。

八幡には、寂しさで家出したくなっても、迎えに来てくれる兄もいない。猫可愛がりされているはずの小町でさえ、家出したとき迎えに行ったのは八幡だけだったじゃないか。

「……頼るのは大事でしょうけど、頼る気満々の奴しかいないんですよね」

頼る気満々の奴とは、誰のことなんだ、八幡。

 

八幡は彼の育った家庭環境を省みて、働くということが、要するにそういうことなんだと知っているのだと思う。

労働だの仕事だの稼ぎだの、偉そうに言っておきながら結局は誰かの頑張りに「頼る気満々」なんじゃないか。

「頼ってるならまだいいですよ、単純に使っているだけの奴がいる」

その子が耐えかねて家出するところまで追い詰められたって、迎えにいく手間すら惜しむ。そうやってその間、奴らは「仕事」をしているのだ。

だから、八幡は言う。

「俺は絶対に働かない」

自分の家族には絶対こんな思いをさせない。そんな彼の激しい恨みと怒りを感じるのは、おれの想像のしすぎだろうか。

家庭より仕事を優先する生き方への強烈な抗議ではないか、とおれは想像する。

 

おれがもっとも八幡らしさがあらわれていると思って、原作で一番好きな文章がある。自分のあだ名が小学4年生当時「ヒキガエル」だったことに関してのモノローグ。

「いつのまにか苗字と関係なくなってただの両生類扱いされてて言葉って生き物なんだなって思ったもんだぜ」

アニメではカットされてしまったクダリだけど。

この物凄い論点のずらし方がほんと八幡。大好き。

本当に問題なのは、勿論、パロールの変遷についての言語学的な洞察などではないはずだ。

そんな呼び方をし始めた奴は何様だったのか、どんな意図や目的あってのことだったのか、それに雷同した連中はどんなつもりだったのか、そういうことではないのか。

おれは奴らの悪意と卑劣を見逃せない。許せない。

しかし、八幡はそうではないかのように振る舞う。いや、違うだろ、とおれは思う。八幡は気にしていないわけではないだろう、許したわけでもないはずだ。

彼のこの痛烈な韜晦にこそ、おれは彼の怒りの深刻さを感じる。

 

8巻で、彼が両親について語る。

「ほんとあれだな、おれを養い、時に叱り、愛してくれるだけの存在だな、あいつら」

おそらく八幡の捻デレを読み取るべきところなんだろう。なんだかんだ言って、親子の情愛が健全にあるじゃないか、と。

そうなんだろうけど、読解力を欠くおれは誤読する。

この期に及んで、彼は親を責めることができないのか、と。気安く親に文句を言うのは、子供のある種の甘えだ。つまり、八幡は甘えることができない。

親を信頼していないのだ、と思った。

 

「ヒキガエル」というアダ名に対して「言葉って生き物なんだ」で済ます八幡らしさはここから始まるんだと思っている。

やっぱり大抵の場合、親が、人間というイメージの最初のモデルだと思う。

もしも親が、優しく正しい人間なら、育てられた子供は「人間とは基本的に優しく正しいもの」だと思って育つだろう。

だから、意地悪さや冷たさを「まちがっている」と感じるようになるだろう。

しかし、そうでなかったら?

八幡は、無邪気な悪意を彼に突き刺してくるいじめっ子たちを、人間としてまちがっているとは、思わなかった。

「言葉って生き物なんだな」と。それが当たり前なのだ、と彼はそう言うのだ。

 

それが世界の標準なんだと、押し付けられた現実を受容して、適応しなければ生き残ってこれなかったのだから、仕方ない。

しかし、それを認め順応することと、心からそれを喜び納得することとは全然別だ。

八幡は、少なくとも高校入学の朝までは、誰かを友達だと思おうとしたり、女の子に告白したり。

中学までの知り合いが誰一人いないような進学校に合格して、新生活への期待に心躍らせて、とんでもない早い時間から張り切って登校したりしてしまう。

彼が押し付けられた境遇に全く満足せず、もがいている様子を、おれは読み取る。

彼を突き動かす最大の力が、その不満なのだと思う。

 

おれはその不満を、怒りと呼ぶ。

彼の青白いほどに灼ける怒りを、もっと読みたいのだ。

だから、今回の9巻が、こんな感じですごく良かった。

「本物」と彼の呼ぶ何かが、おれには、怒れる八幡のとば口のように思えてならない。

間も無く発刊される続刊にわくわくしている。

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