「アナと雪の女王」の感想
「アナと雪の女王」BD/DVDも発売されましたが。
ものすっごく面白かったので、感想を書きます。
以下、いつものようにネタバレ全開ですのでご注意。
オラフですよ。
オラフ。
オラフが一にして全だと思います。
ディズニーのアニメに対しては、おれは率直結構苦手意識があると言うか、なかなか感情移入の難しい場合が少なくない。
その理由の中の最大の一つが、あの、主人公の周りをチョロチョロつきまとう謎の喋る小動物。ディズニー映画につきもののサイドキックが、おれは大の苦手だった。
奴らの多くは、世界観的にも不自然な例外的存在で、理解できないほど陽気であり、共感を拒むほど頭が悪く、しかもなぜか必ず醜くグロテスクなのだ。
嫌い。
オラフもその点、例にもれず、不自然に陽気で頭が悪く、醜い。
にもかかわらず、そのもたらす印象が全然違う。
おれはオラフが大好きなのだ。
今回はその理由を書きたい。
おれは最初は奥さんと一緒に劇場で吹き替え版を見た。
すっごく面白くて、ピエール瀧最高っ!!とかいいながら帰宅して。YouTubeで「Let it go」とかヘビロテしていた訳です、ご多分に漏れず。
それで気になったのが、英語歌詞と日本語歌詞の差異。
日本語歌詞では「戸惑い傷付き、誰にも打ち明けずに悩んでいた」と訳されているあたりが「Be the good girl you always have to be. Conceal. Don't feel. Don't let them know」と、なんだかより厳しい命令口調みたいな感じ。
そう思ってみると、手袋をはめたままの右手の人差し指を振り振りその下りを歌う、それも誰かのお説教の物まねみたいに見える。
注意してみると、英語版の「For the first time in forever」の歌詞でも「Conceal. Don't feel.」と、エルサはくり返す。まるでそれしか言葉を知らないみたいに。
その時は分からなかったんだけど、あとで英語版を見て、その言葉が父王が生前、エルサに言い聞かせていた言葉だと分かった。その時の台詞が、日本語だと「手袋をしなさい。ほら、この方がいい」と訳されるから、全然雰囲気違う。
手ずからエルサが手袋をつけるのを手伝って、その手をそっと握りしめる父王の仕草は愛情といたわりに満ちていて、むしろ日本語訳の方が画面にあっているくらい優しげだ。
しかし、その言葉は歳経る毎に重さをまして、エルサにのしかかり、縛り付けていく。
まるで呪いのように。
呪いと、その解呪。
ディズニーでは珍しくないテーマ、というか十八番のモチーフだと思う。
「美女と野獣」も「リトル・マーメイド」も、古くは「白雪姫」、今度実写でリメイクされた「眠れる森の美女」とか、枚挙にいとまがない。
「アナと雪の女王」もその列に加えていいんじゃないか、とおれは思っているんだがどうでしょうか?
時代の問題だろうと思うんだけど、ディズニー映画の呪いのイメージって変わってきている感じがする。
昔は、呪いって、死に準じるような破滅的に無力な状態に陥ってしまうことだった。呪いは完全に悪であり、純然たる敵であり、対して周りの人々、つまり「社会」は呪われている人と同じサイドに立つ同志で味方だった。
完全な無力化である呪いは、呪われた個人の力ではいかんともし難く、社会的な援助が絶対に必要なのだ。
なんの伏線もなく登場する王子様が白雪姫にとってそれでも救いなのは、アノニマスだからこそ、かえって不特定多数の善意を保証する存在となるからだ。
それが時代が下ると、呪い自体が特徴を変えてくる。野獣は、確かに容貌こそ異様だが、その姿のまま歌やダンスを楽しみ、恋もする。アリエルは声を失っても優しく勇敢なままで、冒険を続ける。もはや、呪いは決して死に比すべき破滅ではない。
ラプンツェルに至っては、その髪が秘めているのは癒しの魔力で、むしろ有用だったり人に望まれる性質だったりするくらい。
こうなってくると、害を為すのは呪い自体ではない。
呪いに対する無知や偏見、あるいはその状況を利用しようとする意図的な悪意が、呪われたヒロインの真の敵なのだ。
呪いとともに生きるヒロインが、社会の中でどう生きて行くのかを問う。
それが現代、呪いを考えることの意義になってきている。そんな気がする。
そういう流れに「アナと雪の女王」はそっていると思うんだ。
作中ではっきり「curse」と歌われているのは、エルサの氷結の魔力それ自体だけど、実は、その力はトロールの長老の言うように美しく素晴らしい力だ。
使い方次第では恐ろしい猛烈な冬をもたらすけれど、奇麗な氷の彫刻や楽しいスケートリンクも作り出せる力。
やはり長老の予言の通り「恐れが敵となる」のだ。周囲の人間から恐れられることも無論だけど、何より、エルサの両親の恐れが一番エルサを深く傷つける。
父王が「Conceal , Don't feel」と彼女にくり返し、彼女のこころを不安と恐怖で埋め尽くす。お前の力は恐ろしい、近付くもの皆に仇をなす。彼女自身が自分を化け物のように恐れ、汲々として身を慎むようになる悲痛さこそ、エルサのかけられたもっとも深い呪いであろう。
ここまでは「アナと雪の女王」もディズニー映画として予定通りの進化の順路を辿っていると思う。
しかし、これまでのディズニーの慣例から決定的に逸脱するのは次の点だ。
呪いが解かれない。
おれの知る限り、呪いを扱ったディズニー映画では、これまで呪いは全て完全に解かれてきた。
例えば「塔の上のラプンツェル」みたいに、本質的にはポジティヴなはずの髪の魔力でさえ、ヒロインの重荷になる以上は呪いであって、だからクライマックスで、ハンサム君が切断してくれてラプンツェルは解き放たれる。
ラプンツェルの場合も、真の呪いは、母親の過保護が彼女の自立を阻んでいるところだと思うけど、これも丁寧に解呪される。その母親が実の母親ではなく、動機も真の愛情からではなく魔力目当ての利己心からだ、と段階的に脱価値化、無力化される。最後に悪い魔女はラプンツェルの髪からの魔力の供給をたたれ無惨に老醜をさらした上、後腐れの無いようきっちり死ぬ。その死も、ペットのカメレオンが引っ張った髪につまづいて塔から転落死するのだ。自滅に近い死がコミカルに描写され、ラプンツェルが殺人の罪悪感という新たな呪いにとらわれることもない。一分の隙もない見事な解呪だ。
こうしてラプンツェルはあらゆる呪いとしがらみから切り離され、パーフェクトイノセントピュアバージンディズニープリンセスとして、本当の両親のもと幸せに新しい人生を歩み出す。実にディズニー。
しかし「アナと雪の女王」は違う。
エルサの心を縛る父王は、まぎれもなく本物の父親で、その言葉は明らかに姉妹を思う親の心の底からの言葉なのだ。優しく、暖かく、思いやりと親らしい老婆心に満ちた、真の愛による呪いなのだ。
しかも、その両親は不慮の事故によって、勝手に死んでしまう。その言葉が呪いになったことさえ、気がつかない。だから、取り消すことも、悔やむことも、詫びることも、訂正することも、開き直ることさえも出来ない。
だから、呪われた娘は、最早彼らを責めることも恨むことも許されない。全ての思いが一方通行の空振りに終わる。
取り返しがつかない。解くことも切り捨てることもできない。
そもそもの原因になったエルサの魔力も消えない。再び人々の、あるいは自分自身の恐れを集めて、呪いの核となるかもしれない。
エルサはこれからも過去を引きずり、未来の不安を抱え続けるのだろう。そんな現在の物語なのだ、と思った。
「アナと雪の女王」どうしてこうなった、とおれは不思議に思う。
改めて考えてみると、普通の大人の常識から言えば、まぁ普通、呪いがそんなに綺麗に解ける訳がないよね、と。
当たり前過ぎて、文字通り言うまでもない。
だから、この問いはつまり、なぜ「アナと雪の女王」以前のディズニーは「呪いが解ける」などというデタラメを語り続けてきたのか、という問いである。
あるいは「観客はなぜそんな絵空事を求めてきたのか」という問いと言うべきか。
ものすごく呪いを怖がっているように見える。
欠片でも呪いが残っていれば世界が破滅するかのように必死で、まるで、おれたちには呪いに耐えていく力などないと言わんばかりではないか。
そうなのか?
おれたち人間は、そんなにも脆弱で、無菌の世界でしか生きていけないナイーヴな存在なのか?
違う。
我々は呪われたまま、生きていける。
「アナと雪の女王」はそう言っている。ディズニーで初めて、人間は呪いに負けない、と宣言する作品なのではないか、とおれは思っている。
なんでそんな風に言えるのか。何故、我々は呪いに負けないのか。
その答えがオラフなのだ。
雪だるま、つくろーう。
何故か、おれにとっては全編を通じて一番涙腺に来た歌「雪だるま作ろう」。
幼児の頃、魔法が素敵な遊び道具だったころに、一緒に作った雪だるま。
「ぼくオラフ。ぎゅーって抱きしめて」
声色でそう言って木の枝で作った腕を広げた。魔法の記憶は消えても楽しい思い出は残る、そうトロールが言って残してくれた、姉妹をつなぐ大切な思い出。
親の存在は確かに大きい。でも、それが全てじゃない。子供には、子供たちには、彼らだけの世界が、親に内緒の世界がある。
エルサの生涯を呪って、縛り付ける、父王の「Conceal , don't feel」という台詞が初めてエルサに向けられるのは、この曲の間奏の時。
呪いに軛され、手袋で絞め殺される、その扉のすぐ向こうでアナは歌い続けているのだ。雪だるま作ろう、大きな雪だるま、と。
あの簡潔の究極を行くエレガントな導入部で、反復されて染み込む雪だるまのイメージのあたたかさがあって、だから、エルサがついに自ら手袋を捨て、Let it go!!と歌い出す時。
彼女が、真っ先に作るのは、当然、雪だるまなのだ。
アナと一緒に遊んだオラフを作ってしまう。
生きて動いて「ぼくオラフ。ぎゅーって抱きしめて!」と喋って、そして夏に憧れる、そんな雪だるまを、エルサは真っ先に作ってしまうんだ。
ああいうサイドキックが主人公の内面の一部を担う存在として登場するのは、ピノキオやダンボ以来のディズニーの定番だし、東映動画とかも盛んに真似をして、内面描写の基本の文法になっていると思う。
濫觴を辿ればハムレットのホレイシオ以前に遡れそうだが、まぁその辺はどうでもいい。近年では割と子供向け作品の定型なんじゃないかな。
囮物語の撫子ちゃんのシュシュみたいな白蛇とか、オーディンスフィアの青い鳥とかも、その伝統に乗った上で、キャラ内面の葛藤を描くと同時に幼若さも表現しているのだと、おれは勝手にそう理解している。
しかしオラフはそこにとどまらないと思うんだよ、おれは。
オラフは、確かにエルサが作ったものに間違いないのだけど、エルサ一人の内面、本音というにおさまらない。アナとの関係、二人の間にある思い、積み重ねられた時間、共有する体験が、オラフを作ってる。
絆の擬人化。
ディズニーがオラフの上で試み、成功したのはそういうことなんじゃないか。
だから、最後にニンジンの鼻をくっつけて完成させるのはアナなんだ。
「ぼくはずっと鼻があったらいいなと思っていたんだ」
このセリフがおれには、すごく切なく聞こえるんだ。
「雪に色があってもいいのに」や「ぼくは夏に憧れているんだ」と同じくくらい切なく。
一人では、満ち足りることはない。
そんな欠損を体現した存在のように感じる。
おれはホレイシオが気持ち悪くて苦手だった。
ああいうのを莫逆の友と言うのだろうけど、ないわー。だってあいつ、ハムレット以外の人間とほとんど絡まないんだもん。ひくわー。
彼をハムレットの幼児性が産んだ空想上の友達だとする説もある。あるいはハムレットは佯狂ではなくガチの精神疾患で、ホレイシオの存在は父王の幽霊と同様、病的な妄想であるとする説もあると聞いた。
それは言い過ぎとしても、ホレイシオはハムレットの孤独、と言うより引きこもりと自己完結の象徴みたいなキャラだ。ハムレットを自分だけに依存させることに陰湿な喜びを感じているみたいな雰囲気を感じる。冬彦さんとその母のカップルみたいな気持ち悪さなんだよな。真面目な話、ローゼンクランツやギルデンスターンの方がずっと健全な友達だと思うんだ。
すげー話が逸れたけど、何が言いたいかというと、主人公とサイドキックの掛け合いは、ものすごく閉鎖的で、他者に対する拒絶の表現だと、おれには見えることが多いってこと。
ディズニーのサイドキックどもが嫌いだったのも、その辺の気持ち悪さのせいなんだろうな。
しかし、オラフはそこで他者に向かって開こうとしている。
アナに向かって開くことで、それ以外の人にも開いていく。彼の鼻のニンジンは、スヴェンのためにクリストフが購おうとしたものだ(お金出したのはアナのようだが)。
オラフは、誰か、ではない。
誰かと誰かの間にある、何かなんだ。
つまり「愛」そのもの。これは公式のパンフにも書いてある通り。
結局、真の愛が呪いを打ち破ると言う、ディズニー伝統の物語をシッカリ踏襲したということな訳だけど、とにかくその「愛」ってヤツを、ものすごく魅力的に描いてしまったところがこの映画の素晴らしさなんだと思う。
おれから見れば、完全に呪いをぬぐい去る「愛」なんてものは、例えば「善」、或いは「美」「真」みたいな、対概念を仮想敵として迫害することで成立する、了見の狭いけちくさい美徳に思えた。
「悪」を貶めるから「善」なのであり、「醜」を見下すから「美」なのであり、「偽」を糾弾するからこその「真」であろう。
同様に「愛」も、「恨み」「憎しみ」「妬み」「呪い」といった感情を否定することで、自分の尊さを主張する。
おれは卑しい人間だから、恨みも妬みも憎しみも、呪いだってなみなみと内側に湛えていて、そりゃ自分でだってそんな気持ち、決して好きじゃないさ、誇れる訳もない。
でも、どうしたってそうなっちまう、それぞれの気持ちにはそれぞれの理由が、事情が、背景が、物語があるんだ。
そんなの全部一切合切無視して、とにかくダメなものはダメと、切って捨てるのが、それが本当に「愛」なのか。
それが愛なら、愛などいらぬ。そんならおれはヴィランでいい。捻くれて星をにらんだぼくなのさ。
でも、オラフはそんな固陋な「愛」とは違う。
もっと矛盾と混乱に満ちていて、結論を出せるような筋道なんかない存在だ。
夏に憧れている、って、そういう意味でしょ。
「女王は優しくて親切で、心の暖かい人だと思うんだ」
みたいなことを言っている最中に、侵入者に向かって鋭く尖る氷柱に、ずぶずぶと体を貫かれるシーンがすごく好きだ。
「ねえ見て!刺さっちゃった」
彼はそのつららを撫でて笑うんだ。
女王がけして悪意ある人ではないとしても、拒絶的だし、攻撃的だし、不用意に近づけばザックリやられるんだね、と彼の笑顔が指摘する。
すごいのは、ただ笑いっ放しなだけというところ。その笑顔が屈託無くて、女王に対していかなる判断も下していなくて、ただ新しい発見を喜んでいるだけ。
彼は、なんだか良く分からない陽気な混沌なのだ。
だから、夏が突然真冬になってしまったこの災害が、しかし一面、エルサにとっては長年の父王の呪縛からの解放だという矛盾を体現して、一目で観客に、そしてアナに納得させてしまう。
前半のアナは、度重なるエルサからの拒絶の中で、自分なんか価値のない存在だと思い込み、それを埋めあわせたいと「desperate for love」になっている。
ハンスと婚約し、彼の馬でノースマウンテンへ向かうまでの彼女は、誰も信じられず、無軌道で捨て鉢。ぐれた中学生みたいに、ひどく危なっかしく見える。
しかしその雪の中、彼女はオラフに出会う。
「オラフ?……そうか、オラフだ」というこの時のアナの台詞は、ラスト近くエルサが自分の魔力をコントロール出来るようになる直前に呟く「愛……そうよ愛よ」に呼応していると思った。
だって、オラフは明らかにエルサからの「I love you」に違いないのだもの。(英語版では、「愛……そうよ愛よ」は、その前のアナがエルサに「I love you」と言うのに応えての台詞)
だから、オラフと出会ったあとのアナは生まれ変わったように前向きだ。
「できる。あなたならできるわ」と根拠なく断言する彼女の確信。これがオラフの力なんだと思った。
だから、我等は呪いに負けない。
呪われっぱなしでも、元気に陽気に生きていける。
序盤三分の一の展開は、すごくティム・バートンだと思いませんでしたか?
おれは思った。そう言えば、彼はディズニー出身だったな。
アカデミー主題歌賞の「Let it go」の印象的なメロディは、CMかなんかで聞き覚えていて知っていたけど、まさかあのシーンで流れるとは。「ここかよ!」と驚倒したのをありあり思い出す。
「はい怪物ですが何か?」的な開き直りの自己実現。
ティム・バートンと永野のりこは、おれの青春、つまりイタいイタい自意識の傷つき体験の愛着深い同伴者であったが、まさにこのやせ我慢のようなヤケクソのような開き直りが、しかし一方で確かに開放なのだと、それもまた祝福された可能性の一つなのだと、どくどく血を流しながらグロテスクな爽やかさで背中を押してくれた。
あの激励を思い出す、「let it go」の感激だった。
あそこで終わっていれば、シザーハンズ。
しかしエルサの孤立はもう一つ最近のヒットシリーズを連想させる。
あの氷の山砦に、今にも車椅子のパトリック・ステュワートが迎えに来そうに思いませんでしたか?
おれは思った。
一つの解決として、彼女が対等の同類と邂逅する、という方法論があると思う。X-MENメソッド。
pixivで「FROZEN」で検索かけてたら、「jelsa」ってタグ見つけちゃってさ……ノルウェイの港町じゃなく、日本未公開のドリームワークス映画「Rise of the Guardians」のジャック・フロストとエルサのクロスオーバーなカップリングのことな。
いやこれが萌えるのよ。おれもちょっとはまっているんだけど……。
このカップリングが萌えるのは、やはりX-MEN脳で考えた場合だろう。
X-MENメソッドに則れば、孤独の問題は、相手が同類かどうか、同類とは何か、という問題に論点をすり替えられる。
同類さえいれば本当に孤独は癒されるのか、という疑問から目を逸らすことができるところが魅力的なのだと思う。もし癒されないとしても、それは相手が同類ではないからじゃないか、と疑う余地があって、つまり相手のせいにして自分自身の内部の深淵を覗き込まなくて済む。おれは深刻な問題から目を逸らすのが大好きだから、jelsaカップリングすごく好き。
そして最終的に「アナと雪の女王」が提示する孤独へのアプローチは、ティム・バートン式でもなく、X-MENメソッドでもない。
一旦はティム・バートン式に開き直りながらも、でもオラフが登場する。本当は夏に憧れているんだ、鼻がずっと欲しかったんだ、と悲しい告白をしてしまう。
孤独は孤独のまま。
ただ、そうして行きて、行くしかない。
そんな、ひとりぼっちの空っぽさを、諦めて受け入れるしかない。自分の狷介を、怒りを、敵意を。
それが唯一可能な方法なのだろう。
妹は妹のまま、代わっても変わってもくれない。王国も変わらずそこにあって、自分を押しつぶす責任を投げかけてき続ける。
超常の力も、また、去らない。どう足掻いても、自分は所詮、人外の怪物に過ぎないのだ。
そんな孤立が。
世界に溶け込めず、はじき出される、不条理な例外が、つまり自分自身だということなのだろう。
でも自分自身が孤絶した個性だからこそ、他者と出会える。出会いが生む可能性こそ、他ならぬ。
オラフだ。
ひょっとしたら、それは素晴らしいことなのかもしれないんだ。負け惜しみではなく。誰かと溶け合うように分かり合える空想上の蜜月よりも、いかなる責任も免除された自由放埓よりも。
それが、この映画の回答なんだ、と。おれは衝撃とともに受け取った。
実はそれはとても古臭く当たり前のことで、一隅を照らす者は国宝だとか、青い鳥は自分の家にいるのだとか、身の程を知れとか、要するに無い物ねだりするなよということで説教臭く繰り返し語り尽くされてきたことで、そーんなの陳腐だ退屈だ分かり切ってるよ、ウンザリだと、みんな飽き飽きして、だからティム・バートンが新鮮に登場してきたのだったのではなかったか。
うん、そうかもしれない。
陳腐になるってのは、つまりそれだけ普遍的なんだ、とおれは改めて思った。
ただ一つどうしても納得いかないのは、ハンス。
近年のディズニーのトレンドでは、王子様ってdisられがちなので、結局咬ませ犬なんだろうと、登場した途端に思った。それが咬ませ犬どころか極めて主体的な故意犯だったのは嬉しい驚きだった。
そこまではいい。
おれが納得いかないのは、アナが確実に絶命するまで、どうして彼は待てなかったのか、ってこと。
ネタにマジレス的無粋なツッコミなのは百も承知なんだけど、どうしても書きたい。
あの時点で、ハンスには急ぐ理由は何もない。仮に数日を費やしてでも、アナが間違いなく息を引き取るまで側にくっついて、余人を近づけないようにすべき、という判断を下すのが普通。
さらに、看取るとしても「冥土の土産に聞かせてやろう」とばかり自分の悪巧みの全容を語る必要も全然ない。
そもそも、キスくらい、してやればいいじゃないか。
それで万が一アナが助かったとしても、最初の予定通り。
助からなかったとしても「トロールどもめ、いい加減な与太話で仇な期待を持たせおって」とか言って、自分の愛情が足りないせいではないと誤魔化しながらアナの死を待てばいい。
あの「冥土の土産」のせいで、一気にストーリーが段取りくさく感じられて。ああ、悪役だから成敗されるフラグ立てたのね、とどうしても思っちゃう。
おれはそういうメタっぽい見方を下品だと思っていて。だから、ずっと考えているんだけど、どうしても、何故ハンスが待てなかったのか、なぜキスしなかったのか、なぜネタばらししたのか、わからないままだ。
あんまり、そのあたりのことを真面目に考えた感想ってネット上でも見かけなくって。
おれが見つけた中で一番素敵だと思ったのは、くぽぽさんがpixivの二次創作小説で書いてらした「自分が愛していないことが露見するのを恐れたのではなく、自分の中の真の愛を発見することを恐れてキスしなかった」という解釈。
冷淡な家族の中で余計者として居場所のない思いで生きて来た彼が、冷徹な野心家としてようやく自分の生き方を決めかけた時、それでも誰かを愛してしまう自分と向き合うことができない、ってキュンキュンくるよね。葉山といい、くぽぽさんの書くひねたイケメンがすごく好き。ラブラドルレトリバーになって、くぽぽさんの書くハンスの手をベロベロベロベロ舐めたいです。
くぽぽさんの解釈は好きだけど、でもやっぱり納得はいかない。
だって、彼の笑顔が素敵すぎるから。
おれは、彼がアナと初めて出会った後、水中、ひっくり返ったボートの下から顔をのぞかせた時のあの笑顔が忘れられない。
水面のすぐ上、ボートの陰、誰が見ているわけでもない。たった一人で、油断した笑顔をを浮かべるそのシーン。
驚きとはにかみと喜びの絶妙の配分。まるで恋に落ちた青年のような笑顔。
観客は最初、彼はアナに恋したのだと錯覚したはずだ。
しかし、あとから見直すと、全然意味が変わってくる。
あの時、彼は実は、ついに自分の王国に手が届きそうだとほくそ笑んでる、ってことなんだよね。どうやってあのちょろい王女を誑かしてやろうか、と、ワクワクしながら胸の内でソロバン弾いている、それがあの笑顔なわけでしょ?
冷酷無惨の悪巧みに、あんなに無邪気な邪悪さで微笑みが浮かべられる。
もう、どうしよう。おれのどストライクですよ。お嬢吉三の「こいつぁ春から縁起がいいわえ」と見得を切る、そのクラスのすごいシーンじゃないですか。
その彼が、今更、自分の中に真の愛があるかもしれないなどと、怯えるものだろうか。それも、アナとの間に? アナはハンスの思うツボにハマっただけ。ハンスが彼女の中に、未知の何か、自分のコントロールを超えるかもしれないものを見出して、脅威を感じたとは、少なくともあの「冥土の土産に」のシーンの前までは思えない。
おれがハンスにこだわるのは、まず悪役としてものすごくおれ好みってのは確かにある。
冷静で計算高く、大胆で勇敢。
兵士達の最前列に立って、ノースマウンテンでマシュマロウと対決するシーンのかっこよさったらない。あれが無鉄砲な正義感や盲目的な愛情からではなく、欲得づくの計算からなのだから、大変な知性と克己心だと思う。
そういうクレバーで度胸の座った悪漢って最高じゃないですか。
それが、突然、人が変わったようにすごく愚かなミスをする。水戸黄門の悪代官だってああまで短絡的じゃない。バイキンマンだってもう少し思慮深い。
その理由を理解出来ないのが残念でたまらない。
しかし、それ以上に、アナとエルサのうちうちの感情のもつれに焦点を合わせっぱなしの本作の中で、ハンスがほとんど唯一、現実や社会、つまり「他者」を体現出来る存在だと思うからだ。
未熟な少女が、自分ってなんなんだろうと悩む間も世間は待ってくれない。
エルサが「恐怖が敵となる」と怯えて「Don’t let them in. don't let them see」と繰り返す、そのTHEYってのは本当のところどうなのよ、って話なんですよ。
エルサがどう考えているかは分かった。それで、実際はどうなのか。
おれはやっぱり王女でも女王でもないので、ろくに登場もしない庶民が気になっちゃう。名も無いアレンデール国民とかさ。そういう目線だと、ハンスが一番ありがたい為政者じゃんよ。
それにひきかえ、はた迷惑だよ、あの姉妹。
そういう視点を描こうと思うなら、ハンスの存在は重要だったと思う。
彼を取り巻く現実の夢の無さがいい。奇跡も魔法もないのが当たり前、疑心暗鬼がデフォルト、頼れるものはおのが才覚と美貌だけというハードボイルド。大藪春彦かよ。
ちょっと目を離すと愛とか夢とか言い出す連中ばかりのディズニー世界では貴重なキャラクターだと思うんだ。それがあんな風に突然ポンコツ化して、紋切り型の悪役として無個性に退治されてしまうのを見るのは、大変悲しかった。
まぁディズニーだから仕方ない、と言ってしまうのは簡単なんだけど。なんとか、彼の末路に意味を見出したいと思って。
本当はこの映画GWに見たんだけど、今日まで考え続けて、でも結局、どうにも分からないでいるのだ。
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