我知らず、雪ノ下雪乃はわかるものだとばかり思っていた。(後)
続きです。
未完の作品の二次創作は悲しくなるからあまり書いたことないんですが、今回は、むしろ敢えて悲しもうと思って書きました。
8巻の例のシーンの雪乃視点という感じで。
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その男は机を挟んだ対角線上に座って、自分が放り出した資料の束を呆然としたように眺めていた。
私が睨みつけても彼は気付きもしない。
どうして彼は私を見ようともしないのだろう?
不意に脈絡なく、竹林を駆け抜けていく風の音が耳朶に蘇る。
嵐山の晩秋の宵、早くも冷え込み始めていたあの道。
彼の存在感の薄い背中の向こうに、海老名さんが居て。その表情が私からは良く見えた。
思い出したくない。
その瞬間の、あの子の顔を思い出したくなかった。
それなのにまざまざと脳裏に蘇ってくる。
彼女はまっすぐ彼を見ていた。
彼も、きっと彼女を見ていた。
彼の『愛の告白』は嘘八百で、彼女はにべもなくそれを断る、そんな場面だ。
しかし、あの時あの子の顔はどう見ても到底、そんな表情ではなかった。彼女の顔に浮かんでいたのは、まるで──
同じ表情を浮かべている一色さんの顔を、鮮やかに想像してしまう。
手元の資料を握り締める手に力が入って、紙束がかさりと軋んだ。
その音に反応して、彼はようやくこちらを向いたが、見ているのはそれでも私の手元だ。
握りつぶしてシワの寄った資料を突き付けるように机の上に差し出して、問う。
「……これは、あなたがやったの?」
「有志の人間だろ。どこの誰かまではわからん」
想定問答集に用意していた答えだろう。『痕跡を残すようなヘマはしていない』という意味のことを、めんどくさそうに彼は答えた。
そんな自明のことを私は訊きたいのではなかった。
しかし、分かってしまった。
彼はなお、私と視線を合わせようとしない。
私の問いにマニュアル通りにしか答えない。
「……そう」
分かった。
彼は奉仕部を去るのだ。
私は、最早、彼にとって部外者なのだ。
私たちは彼を失ってしまったのだ。
海老名さんは、段取り通りとはいえ、断ってくれた。
でも、一色さんは彼の提案に乗った。参謀として彼を選んだ。
この説明不十分な目録は冷静に考えれば何の根拠にもならないハッタリだ。真贋さえ明らかではないし、仮に真実だとしても規約上は何の拘束力も持たない単なるアカウントの羅列に過ぎない。
それでも価値があると、一色さんが信じたのは何故か。
この男がそう説いたからだとしか思えない。
おそらく、二人きりで。
きっと、目と目を見つめあって。
そうして彼女は彼を選び。彼は彼女を選んだのだ。
私では、なく。
それ以上、何も考えることが出来ず、私は押し黙った。
私は何をしていたのだろうか、とぼんやり不思議に思うことしか出来なかった。
「すごい数、だね」
由比ケ浜さんが彼におずおずと話しかける声を、遠くに聞いた。
彼女は事態を分かっているのだろうか。
おそらくまだ気がついていないのだろう。
気づいたら、きっとこの子は泣くのだろうと思った。私の責任だと思った。
私の責任だから、彼女を慰めてあげないといけない、と思った。
そこまで考えて物憂くなった。
私が泣きたくなったら、誰が慰めてくれるのだろう。
「ああ。結構なもんだろ。四百とかそんなもんだ」
四百。
「そう……、四百を超えているのね……」
ぼんやりとオウム返しする。
四百。
その数字がなにか気にかかる感じがした。
四百…………四百…………
……!!
比企谷くんが居住まいを正す気配がした。そして結論をまとめる声で話し出す。
「一色が会長をやるために枷となっていた条件は全てクリアした」
いや、違う。
四百では、足りない。
全校生徒千二百人の三分の一に過ぎない。
正直、私は一色さんと由比ケ浜さんを向こうに回しても、過半数の得票を得て当選する予定だった。経験も信望も教師とのパイプもない彼女たち相手なら当然の想定と言っていい。
一色さんを私に勝たせることが目的なら、六百人以上の名簿を積み上げてみせなければならないはずだ。
四百という数字が意味を持つのは、一色さんと由比ケ浜さんと私が、三つ巴で互角の競り合いになる場合だけだ。
つまり彼は由比ヶ浜さんの勢力を計算に入れている。どころか、私と伍する力を持つと看做している。
どういうこと?
もし由比ヶ浜さんが私に対抗するとしたら、今のままでは足りない。もっと優秀な協力者が必要になる。例えば、そう、比企谷八幡のような。
それしかないだろう、比企谷くんは他人を操作はしても当てにはしない。大事な局面で動くのは自分自身のはずだ。
しかし、なぜそんなことをするのだろう。動機が不明だ。一色さんと由比ヶ浜さんと双方に助力する意味がわからない。今、改めて由比ヶ浜さんに肩入れするメリットは、一体どこにある。由比ヶ浜さんが立候補する目的は何だったか……
『ゆきのんがいなくなったら、なくなっちゃうから。……あたし、そういうの嫌だよ』
まさか……
もしや、彼も……彼も同じ気持ちだったりすることがあるのだろうか。
いや、ありえない。
しかし、もしかしたら、ひょっとして。
『どうして今の自分や過去の自分を肯定してやらないんだよ』
彼の言葉を声ごと思い出す。次々と。
『知ってるものを知らないっつったって、別にいいんだ』
生々しく、一言一言が私の中で今も留まっている。
待って……今は関係ないわ。そんなこと思い出している場合じゃない。
『……ならなくていいだろ』
ダメよ……待って、待って、待って……考えられなくなっちゃう……
自分自身にすがりつくようにして想起を止めようとするけれど、私の記憶の一番やわらかい部分を温め続ける、その声は、鳴り止むことはない。
『……そのままで』
耐えきれなくなって、思わず目を上げる。
由比ヶ浜さんに視線をやっていた彼が、私の方へちょうど目を向けるところだった。
「だから……」
目と、目が、あった。
「もうお前らが生徒会長をやる必要はないんだ」
ああ。
今更、何を言うのよ。
またそんな声出して。
彼の双眸。
あの時も彼はこんな目をしていたのだろうか。
文化祭、体育館の暗闇とビッグバンドジャズの大音量の中で。
彼は興奮する聴衆から私を守るように、すぐ近くに立ってくれていた。私のこの髪が、確かに彼の制服の肩を叩いた感触を覚えている。
耳元で囁かれるのがこそばゆくて、体が固まってしまって彼の方を振り向けなくて。目を合わせられなかった。
あの時も、この人はこんな目で、私を見つめてくれていたのかしら。
だとしたら。
私は……
ほぅっと、その時、小さな吐息の音がした。
「よかった……、じゃあ、解決だ……」
と由比ヶ浜さんが、安堵の色も濃く言った。
それに応じて彼がまた由比ヶ浜さんの方に視線を移す。
……助かった。
私は糸が切れたように面を伏せる。
あと百分の一秒も長く見つめあっていたら、きっと大変なことになっていただろう。主に彼が。具体的には、私が奇声を上げながら彼の眼球を二つともえぐり出してしまうとか。
それだと私まで犯罪者扱いされる危険があるじゃない。全くなんて男かしら私を巻き込むなんて。
息苦しさを感じて、胸をおさえた。気がつくと、随分と心拍数が上がっている。
背筋にじとりと冷たい汗を感じた。
血の気がさがって目眩がしそうで、手足が冷え切って強張るような。それでいて、みぞおちの辺りからカッカと火が入ったような熱さも感じていた。
自分の中になにか狂おしいくらいのものがあった。
今まで感じたことも思ったこともない、そんなものだ。
でも、そいつはたったいま産まれ落ちたばかりというものでもなかった。
もうずっと前からそれは息づいていて、私の内側ですみずみまで根を伸ばし、私を蝕んでいたのだ。
今、私は、はじめて気がついだけだ。
「……そう」
そうだった。
彼はそうなんだ、いつも。
体育館で混み合う人混みの中で、あれ程近くにいて、でも結局私と体が触れることはなかった。声だけが届く距離を丁寧に保って決して踏み込んで来ない。
「なら……」
だから、今回も私に直接働きかけはしなかった。
「問題も、」
ただ目前の問題を問い直した。
「私が動く理由も、」
そして私が自分を許せる理由を。
「なくなったのね……」
用意してくれたんでしょう?
私はいつの間にか顔を上げていた。
彼の顔を、その瞳を見つめたかった。
しかし何故か体が思うようにならない。不用意に動けば、がくがくと壊れたおもちゃのような無様な震え方をさらしそうだった。
どうしても視線を彼の方に向けられない。
我ながら不自然極まる動きで、私はぎこちなく窓の方を向くことしか出来なかった。
そこにあるのはいつもと変わらぬ風景に過ぎない。傾いた太陽と、高く抜けるような初冬の空。
西日が眩しいのはあまり好ましくないとつねづね思っていた部室だが、今日ばかりはありがたかった。おそらくその色彩が私を守ってくれるだろう。
私は普段と同じ顔色を保てている自信が全く持てなかった。
「そういうことになるな……」
彼がなんでもないことのように言う声がする。
私はうなづく。
「……ええ」
信じられないことだった。
私の計画はねこそぎ挫かれた。私の目的自体も否定された。全ては秘密裏に私を陥れる格好で進行した。
負けた。
雪ノ下雪乃は完膚なきまでに出し抜かれ、やっつけられ、負けたのだ。
信じられないのは、そこではない。
私は嬉しいのだ。
私の中で吹き荒れる何かが吼えているのは、爆発しそうな歓喜だった。
こんなにも惨めに蹴散らかされたというのに。私は猛々しいほどによろこんでいる。
私はいまはじめてわかった。
望んでいたのだ。
私自身さえ気付いていなかった望みを、誰かが気付いてくれることを。
無躾に押し入ってくるのではなく、かといって私の拒絶を真に受けるでもなく、柔らかく、ねばりづよく、私を迎えにきてくれる誰かのことを。
誰かが私を求めてくれることを。
ずっと待っていたのだ。
なんてこと。
情けなくて、目が回りそうだった。
顔を伏せてそっと目を閉じる。
歓びがなお心臓を押し上げている一方で、私はこのまま泡沫となって消えてしまいたいほど惨めだった。
私は幼児か。
『そうやって誰かにやらせたり押し付けるの、お母さんそっくり』
またも姉の声が頭蓋内に響いて私を責め苛む。
自分一人で何でも出来るような顔をして、今回だって偉そうに、自分が奉仕部を守るんだといきがって。
それで実際何をしていた。
有効な手を何も打てず、方針は二転三転、最後は姉の挑発に引っ込みつかなくなって私自身が出馬。バカじゃないの。
そんなの、漁る術は授けても魚を施しはしない、と自ら定めた奉仕部の理念に悖るじゃない。その上、由比ケ浜さんにも心配かけて立候補しようとまで思い詰めさせて。
愚かしい。恥ずかしい。
そんなところまで突き進んで、それでも退かなかったのは、幼児のように無心に信じていたからだ。
比企谷くんを。
いや。甘えていた、或いは、すがっていた、と言うべきかもしれない。
とにかく比企谷くんならば、わかるものだとばかり思っていた。
そう。度し難いことに。
「わかるものだとばかり、思っていたのね……」
嘆息が思わず声になる。
今になって、はっきりわかった。私はまったく疑っていなかった。
……違う。もし、彼をして分からないようなら、そんなことになるなら。もう何もかもどうでもいい。自分がどうなろうと、奉仕部が、学校が、雪ノ下の家が、どうなろうと知ったことではない、と。
恐ろしく投げやりで捨て鉢な気持ちがあった。
なんと未熟で愚劣な女なんだろうか、私は。
……彼の視線を感じる。
今、不用意に声に出してしまったことを思い返して、私はさらに新たな感情の波に襲われる。羞恥だ。
急激にいたたまれなくなって、私はつい立ち上がってしまった。
大きな動きに二人の視線を集めてしまったのが分かる。奇行を重ねてしまった。彼がいぶかしんでいるのではないかと思うのだが、どうしたらいいか分からない。自分がどんな顔をしているか全然見当がつかない。
「──平塚先生と城廻先輩に、報告してくるわ」
吃らず噛まずにそれだけのことを言えたのは奇跡に近い。これも雪ノ下の家で鍛えられてきた賜物といったところか。
とにかく一人になりたかった。このまま比企谷くんのそばにいたらどうなってしまうか分からない。主に彼が。
由比ケ浜さんが一緒にと言ってくれたのを、とりあえず丸め込んで一人で慌ただしく部室を出た。
廊下の空気は冷えていた。空き教室に三人だけで暖房器具もない部室はこの時期かなり寒いのだけど、それでもひとけのない長い廊下よりはずっと人の温みを溜めていたのだと知った。
どうしよう。
……どうしよう。
…………本当にどうしよう。
足早に歩きながら頭を抱える。
最後にまたバカを言ってしまった。遅くなるから待たずに帰っていいと言ったんだけど、先生と先輩に説明するだけでそんなに時間かかるわけないじゃない。
部室の二人が今頃狐につままれたような顔をしているのだろうと思うと、もうこのまま死んでしまった方がいいような気がしてきた。
明日から、彼らにどんな顔をして会えばいいのだろうか。絶叫しながら窓から飛び降りたいような衝動と戦いつつ、私は途方に暮れていた。
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