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2014年3月17日 (月)

明日、ママがいない 感想 その2

先日無事に最終回を迎えた「明日、ママがいない」の感想の続きです。

 

昨夜、前回の記事を奥さんが読んでくれたのだが、そのあと衝撃的な事実を教えてくれた。

「明日、ママがいない」には「こうのとりのゆりかご」の慈恵病院や、児童養護施設から抗議の声が上がり、放送中止も要請されていたというのだ。

おれはひどくびっくりして、戸惑っている。

 

一応、以下は「明日、ママがいない」の全編のネタバレありなのでご注意。 

 

 

 

そんなことになっていようとは全く予想もしていなかった。

自分の想像力のなさにはいつもガッカリしているのだが、今回は特にひどい。

おれは芸能とかスポーツに興味なくて、ネットでもそういうニュースは見ない。

自宅にいる時でも、撮りためたアニメ消化したりゲームしたりで液晶画面は埋まっていて、正直世相には疎い。昨年も「リーガル・ハイ2」を見るまで「倍返しだ」が流行語だとは知らなかった。

こんなことになっていると知っていたら、「明日、ママがいない」には一言も触れずに流したんだけどな……

 

おれは敢えて火中の栗を拾う勇気など涓滴もないヘタレなので、賛否両論の話題とかおっかない。誰かを不快にさせることは好きじゃない。

前回のエントリーをこっそり消して、無かったことにするとかも考えた。幸いこのブログは誰も訪れない秘境だから、目にした人も少ないし。

でも一方で、書きたかった気持ちもある。おれがテレビドラマ気に入るとかそんなにあることでもない。

おれにとって大切なものもある。削除するに忍びない。

どうしたものか、決め兼ねている。

 

おれの調べた限りでは「児童養護施設の実態とかけ離れた描写であり、施設やその関係者に対する誤解や偏見、差別を助長する」ことが抗議の主な理由のようだ。

おれにとっては、その抗議内容は以下の文章と同程度の説得力を持つ。

「イソップの北風と太陽の寓話は、気象現象の実態と掛け離れた描写があり、北風や太陽、および旅人に対する誤解や偏見、差別を助長する」

あのマンガチックでファンタスティックな「明日ママ」の演出を見て、これは実態を正確に描いた写実的なドラマだと、もし我々視聴者が本気で思うと考えたのだとしたら、ずいぶんと人をバカにしてくれたものだと思った。

率直に言って、これらの抗議についてのおれの最初の感想は怒りだった。

 

しかし、すぐに背筋にぞっと悪寒の走る思いして、おれは考えを改めた。

おれの口を出す領分ではないのだろうが、やはり日テレは放送を可能な限り早くに中止すべきだったと、いまおれは思う。

おれがテレビ局の責任者なら直ちに放映中止していた。

そして完全版はBDとかで出す。R-18指定の上、パッケージに厳重な但し書きをつけて。おれは買う。

 

何故、放送を中止すべきだったか。

まず第一に、おれは自分をペットショップの犬だと信じるからだ。

聞くならくスポンサーがことごとく降りてCMタイムが震災直後のようだったというではないか(おれは録画をCM飛ばしで見ていたから最後まで気がつかなかったのだが)

ご主人様の不興を買って蹴り付けられたのだから、キャンキャン呻いてシッポまくべきだ。

それが来るべき将来、世界を背負って立つ子供たちにとって良きお手本となろう。

「泣く子と地頭には勝てぬ」

「長い物には巻かれろ」

それがこの世の真理なのだと、我々が身を以て示してやらねば、無用に傷付く子供も出てこよう。

 

次に、なんといっても抗議する諸団体の胸中を思いやるべきだ。

確かに彼らの言い分は世人の読解力を過小評価している。おれはやっぱりそう思う。誰があのドラマの内容と事実を混同するというのか。

しかしその一方で、おれは想像するのだ。

きっと彼らは思っているのではないか。自分たち以外の連中はバカばっかりで、隙あれば被虐待児や遺棄児童に偏見を抱き差別する連中なんだ、と。

おれは更に想像する。

そういう思いを、世間やマスコミに対して持ってしまうような、そんな体験と歴史を、あるいは抗議団体は生きてこざるを得なかったのではないか。

それほどまでに、誤解と偏見に曝され、差別に傷つけられ、無理解に孤立させられて、悲鳴を上げても一顧だにされずひからびるままに放置される、そんな思いを重ねてきたのではないか、と。おれは想像するのだ。

 

所詮、おれは恵まれた家庭の子供だ。被虐待児はもとより、世間の大抵の人間からもうらやまれるであろう、裕福で健康で慈愛に満ちた生育環境しか知らない。

それだけに、おれのように何不自由無く生きてきた人間の傲慢さ、想像力の無さ、世間の狭さ、異なる境遇への無理解と偏見の根深さは、身を以て知っている。

どうしても、おれは、結局は自分の感覚でものごとを測ってしまうのだ。

しかし、それが通用する筈がない。親に虐待されたり、死に別れたり、そんな境遇をギリギリで生き延びる子供たちが、おれと同じ感覚なわけがない。

おれは彼らと違う。

絶望的に違う。

決定的に違う。

絶対にどうしようもなく断絶していて通じ得ないということを認めなくてはいけないのだ。

その事実を敬意をもって受けとめるべきなのだ。

「根っこは同じ人間なのだから何か通じ合うものがあるにちがいない」という勝手な思い込みこそ、おれの最大の偏見だということなのだろう。

だから、彼らにとって苦痛かもしれないという想像をすることも出来ず、おれがおもしろいと思うドラマをともに面白がれ、という愚劣きわまりない態度で、彼らを侵略して平然としていられるのだ。

そうか、これがおれの偏見。おれのしている差別なんだな。

ようやく分かった。おれがこのドラマを面白いと言うことは、第2話でパチのお試しの家のお母さんがパチのシャンプー容器を捨てるようなものなんだ。

あのお母さんを動かしていたのが善意であり、愛情であったことも、きっと本当だと思う。しかし、その押し付けがましさがパチをどれほど傷つけ苦しめただろうか。

こんなことも気付かなかったのだから、おれなどは抗議団体から「バカばっかり」という扱いをされても文句は言えない。おれは、彼らが必要とするだけの思いやりも想像力も敬意も備えていないバカに間違いない。

 

彼らが根本的におれの感性と絶縁した文化体系に住んでいる以上、おれのできることは受容だけだ。

だから、もしおれに決定権があったなら、唯々諾々と放映中止要請にうべなっただろう。だって全国数千万の家庭に向けて放映出来るテレビ局の機能はもはやある種の権力だからだ。相手を踏みつぶしてしまった後では協議も出来ない。まず相手を認めて譲るのは強者の責任だと、おれは思う。

 

このドラマは所詮、甘やかされた子供が両親からの愛情をありがたいとも思わず浪費しながら「ときには親のない子のように」とセンチメントを遊ばせるための、傲岸で残酷で贅沢なおもちゃに過ぎないのだろう。

ああ、それでも、とても残念なことだ。

おれはこのドラマが本当に好きだから。

これが時代劇とかなら良かったのかなぁ。

しかし、余りにも主演の少女たちが見事な演技で。

きっと制作者は彼女たちの技能を思う存分振るわせたかったのだろう、とおれは感じている。

彼女たちの演技力がもっとも制限少なく生かされるためには、現代日本に近い世界設定になってしまうのはやはり避け難いことだったように思う。

 

さて、そろそろドラマ自体の感想を書きたい。

これ以下は、フィクションをフィクションと弁えることができて、現実の児童養護施設などの実態と混同しない分別を持つ方のみお読み下さい。

 

おれ的にベストだったのは第1話で、残念ながらその後はあんまり、という印象。

6話、抑えきれず暴力を振るうロッカー、そんな彼を見つめるうちに怯えた顔から凄惨な笑みに表情を変えるドンキ役の鈴木梨央が強烈で、そのときはすごくワクワクした。

けど、ドンキは8話であっさりポストに泣かされちゃって解毒されて、ちょっと残念だった。

ポストが朝倉先生の家にいり浸りになる下りも、魔王の介入によって解決するのはおれとしては肩すかしというか、勿体ないと思った。

おれの好みだけで言わせてもらえれば、鈴木梨央VS芦田愛菜の演技合戦でラストを締めくくって欲しかったなぁ、と。

ポストがドンキを「嘘つき!」と糾弾する。ドンキも「悪かったね。『愛』ちゃんは正直者だもんね? ね『愛』ちゃん?」みたいにやり返す、とか、そういうシーンを見たかった。

同い年なのに、ポストは大人びて姉のように、時に母のように、ドンキを導き守る立場だった。この関係が揺らぎ変わってほしかった。第1話で「私に怒ったっていい」とポストが受けとめる側だったのが、逆転する瞬間を見たかった。

完璧にカッコいいヒーローみたいだったポストが、実はアイデンティティが空っぽだから理想的なヒーローを演じるしかなかったのだと、ポストとドンキの熾烈な感情のぶつかり合いの中で、二人で一緒に気がついていく。

そのときポストも肩肘張らずに済むようになって少し楽になる。ドンキもポストに劣等感を感じるところが少なくなったり、ポストに罪悪感や借りを作っているような気分が軽くなったりして、楽になる。

そんな展開を見たかったと思う。

魔王はその二人のための場所と時間を用意するだけで踏みとどまってほしかったな。

ポストが「早く朝倉家と養子縁組の手続きをしてくれ! それが私の幸せなんだ」と叫んでせっつくのに向かって、魔王は例のごとくのんびり舌打ちして「私? 私って誰だ。朝倉愛なんてガキは知らないな」とか言って、手続き事務を懈怠して進めない、とか、その程度の干渉に抑えてほしかった。

最終話で「お前はおれの娘だ」って抱きついてきたのは、ちょっとイヤだった。一緒に見ていた奥さんは「インセストタブーを超えられているみたいに気持ち悪い」と言っていた。

おれはそれ以上に、その後に続いた遊園地のシーン、二人きりで遊ぶ魔王とポストの姿にものすごい違和感を感じて、ウンそうだね、はっきりいって気持ち悪かった。

前回の感想で法的にも親子になっちゃえば良いのに、とおれは書いたけど、あんな生命保険のCMみたいにおぞましい幸せ臭にまみれた紋切り型の親子像は全く想像してなかった。あれおかしいだろう。キャラ崩壊ってレベルじゃねーぞ。

 

おれは最終回では、第1話の「お前たちはペットショップの犬だ」という台詞が、絶対に回収されると期待していた。

それが全然なくてビックリした。

例えばさ。

 

ポスト以外の子供がすっかり入れ替わったコガモの家の食堂で子供たちがかまびすしく噂している。

「また新しい子が入ってくるらしいよ。小学生の女の子だって」

「じゃあまたアレやるのかな」

「アレでしょ?『泣け!お前たちはペットショップの犬だ。芸をしろ!』」

おどけて魔王のモノマネをする子の台詞にみんな笑い転げる。

ポストも笑っている。と、ポストの隣に座った子がポストの袖を引いて言う。

「ねえポスト、最後のお手本の『泣き』、今日は私にやらせてもらってもいいかなぁ?」

いつの間にか食堂に入ってきた魔王が、二人の背後に立っている。静まる食堂。そして「泣き」の手本を演じたいと申し出た子に魔王が言う。

「できるのかぁ? お前に?」

そして魔王はポストの方を見る。

ふんっとポストは不敵に笑って言う。

「いいよ。『泣いて』みな」

「やったぁ、ありがとうポスト!」

うわーすごいねー、がんばってねー、とその子を囲んで盛り上がる子供たち。

その輪の少しだけ外側に座ったまま、悪戯っぽい目つきで魔王を見上げるポスト。

その視線からそっぽを向いて、口を歪めて魔王が舌打ちする。

「チッ」

 

とかさとかさ、そんな感じのラストシーンが定番じゃない?

少なくともポストと魔王がスワンボート乗っているラストシーンよりかはマシだと思っちゃう。

このドラマは割と王道のストーリーテリングだから、絶対そういうので来ると思ってたんだけどな。

第1話のあのシーンはポストと魔王の呼吸がぴったりで、しっかりした打ち合わせと踏んできた場数を感じさせる熟練の芸という感じだった。ジャングルクルーズみたいに筋書き通りなんだよってタネ明かしが、後できっとあると思ったし、そうでなければあのシーンのどぎつさは解毒しづらい。

 

「こうして欲しかった」「ああだったら良かったのに」と仮定法過去完了の繰り言ばかり並べているのは、我ながらみっともないなぁ。

そういう感想は悪口よりも卑劣だと思うんだが、それでも書いてしまうのは、奥さんから「抗議をうけて内容の一部変更をしたらしいよ」と聞いてしまったせいにしたい。

ひょっとしてこのシーンは、この展開は、当初の構想と違っているのかもしれないと疑いだしてしまって、テキストに真剣に向き合うことが難しくなってしまう。

というか、やっぱりラストで魔王とポストがメリーゴーランドに並んで座ってたりするのがおれにはどうにも納得がいかない。

おれ個人の感性が腐っているんだろうけど、おれとしては不愉快極まる。

あんなあまったるい弛んだウソっぽい親子関係がドラマ全体の帰結としてハッピーなエンディングなのかよ、と。上等な料理にハチミツをブチ撒けるがごとき思想。

 

すきなところの話をしよう。

パチのシャンプーといい、ドンキの香水瓶といい、お母さんを偲ぶよすがが匂いに宿っているというのがすきだ。リアルな感じがする。

それに匂いはテレビに映らない。音声と画像のテレビメディアに映らないところに、登場人物が求めてやまない理想のお母さん像を置く感覚がすき。

 

ドンキがコガモの家を去るときに、ポストは一言だけしか言わない。

「マキ」って、もともとの名前を呼ぶ。

この感じもものすごくすきなんだ。

ポストというあだ名の秀逸さと良い、このドラマが名前をつけること、そして名前を呼ぶことを、とても丁寧に扱っているのを端々に感じる。

 

それから、魔王が「私はコウノトリです」って、わざわざ水たまりに顔突っ込んでみせたりするシーンがすきだ。

大人の芝居っけというか、子供相手だからゴッコ遊びみたいな表現をするんだけど、伝えたい思いは重く、真剣なの。なんか異様な迫力で「私はコウノトリです」ってやるのがものすごくすきだ。

我らが井之頭五郎こと松重豊と大塚寧々の川島夫妻が、ドンキと三人で川の字に寝ているシーンが同じような意味ですきだ。

ドンキの虚実を行き来する不安定さが、時に無惨なほど人を傷つけるんだけど、それをただ一面だけで悪事だみたいなレッテルばりをしない、このドラマの釈然としない逞しい態度がすきだ。

川島のお母さんに「私を生んだ時…痛くなかった?」と質問する鈴木梨央のうまさ。半分ふざけてて…いや半分以上本気な感じ。どこまでがウソか分からない不安定な子供の心的現実の深みを感じる。この女優さんは本当凄い。

川島夫妻が目配せしあってうなずいて、あえてドンキの問い掛けに乗って、生き生きとして饒舌に親バカの歴史を物語る。ここの芝居がおれはすきですきでたまらない。

「あなた幼稚園の入園式でも泣いてたでしょ」

「え、バレてた?」

あくまで遊びなんだ。でもすごく本気なんだ。語る言葉に事実は全くない。けれどいちいち、真情がこもっているんだ。

「ものがたり」とは何か。

その問いにこたえる本当に美しいシーンだと思った。

まあ、例によっておれの誤解だけど。

 

一昔前「ひろゆき」さんが「嘘を嘘と見抜けないと( 掲示板を使うのは)難しい」と言ったことがあって、おれはこれはリテラシーの本質を語る名言だと思っている。

キョンシー映画を見てて思うのは、道士の書く黄色いお札の、字のような文様のような図形の不思議さ。どうも字ではないみたいなんだよ、意味はないらしい。

おれの想像なんだけど、多分巷間で道士を自称してお札で商売していた連中は自身も文盲ながら、当時の世間の識字率の低さにつけ込んで詐欺を働いていたのかな、とか。

字を識らなければ、文字が書き付けられたお札に呪力が宿ると思いこんでも無理はない。

つまり、字を識るとはただ字の読み方の知識を持つことだけではないのだろう。字は所詮は記号でしかない、と字の可能性に幻滅する現実感覚を持つことでもあるのだろう。文字自体に呪術的な力などなく事実が記されている保証もないのだ。

「嘘を嘘と見抜く」って言うのは、そこを弁えていつも「ウソかもしれない」と眉に唾付けて慎重な疑念を持ち続ける姿勢を保ち続けることなのだと思っている。

 

しかし、そこに書かれていることが事実かどうかだけが、文字の持つ情報の価値なのだろうか。

フィクションはどうなる。基本的に事実を語ることを存在意義としていない。おとぎ話とか寓話とか、根こそぎデタラメばかりの物語もある。だったら「ウソ」なんだろうか。

事実ではない。でも虚偽や欺瞞ではない。

そういうことって、ないんだろうか。

いろいろ意見があるだろうけど、おれは、あると勝手に思っている。

松重豊が鈴木梨央に「はじめてパパって呼ばれた時は泣いたなぁ」と語る、その語り口に事実をこえる何かがこもっていると、おれは感じた。

ここに、このテーマを表現する方法を、ルポルタージュでもなくドキュメンタリィでもなく、それどころ写実的なタッチでさえない、いかにも絵空事のフィクションのスタイルをあえて選んだ意味を、おれは強く感じている。

ラストシーンのがっかりを差し引いても、それでもやっぱり、圧倒的におれはこのドラマがすきだ。

BDの発売が今から楽しみ。

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