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2014年3月 5日 (水)

明日、ママがいない 感想 その1

おれはあまりテレビドラマ見ないので気がついていなかったんだけど、「明日、ママがいない」というみなしごのドラマがあったようで。

奥さんが見ていて、面白いから見てご覧よと勧められ録画を7話まで見た。

 

以下、7話までの同ドラマのネタバレありで感想書きます。

 

 

 

 

ものすごく面白い。

リーガルハイ1stシーズン以来の大ヒット(おれの中で)である。

 

リーガルハイと同じように、あまりシリアスではない。というか、すごく漫画っぽい。

「魔王」「ポスト」「ロッカー」とアダ名だけで呼び合って極力本名を示さない登場人物たち。

魔王はあたかも宝島のシルバーのようであったり、ロッカーはジョニー・デップの演じるシザーハンズのようだったり。

キャラの造形や描写がマンガ的というかアニメ的というか、ファンタスティックで、大人向けっぽいしかめつらしさのないのが楽しい。

その割りに妙なところはリアルというか、大昔の孤児ものみたいな、失笑を誘うまでに理想的な良いお母さんなんかは出てこない。ドンキのお母さんの決して悪い人でも残忍でもない、けど、どうしようもなくひどい、あたりの人物描写がすごく気に入ってる。

この辺が、例えば狐が人語を解し人間並みの思考を巡らすことができる設定にもかかわらず、それでもやっぱりどうしても手に入れることができない葡萄が存在するという変な現実感があるイソップの寓話の雰囲気に近い。

そう、寓話なのだろう。

だからこそ、あのセリフが胸を打つのだ。

 

「お前たちはペットショップの犬と同じだ。芸の一つもできないんじゃ貰い手はつかんぞ」

すごくいいセリフだと思った。

ドラマの中では、捨てるにしろ拾うにしろ大人側の選択権が強く子供側は選ばれるのを待つだけという側面が強調される。魔王のこのセリフはそういった現実の問題点を指摘、抗議するものとして聞くのが順当だろう。

魔王は里親候補の情報を子供たちに開示するという違反行為をしているし、そのことでアイスドールとアダ名される児相の係員と人気ない貸し駐車場で話し合うシーンもある。

魔王が一見子供達を怒鳴りつけるようでいて、その怒りの矛先が向いているのは明らかに世の大人たちの方なのだろう。

 

だが省れば、日々飼い主の顔色をうかがい尻尾振って媚るのは、他ならぬおれ自身の姿ではないか。

おれは裕福な家庭で愛情深い両親に恵まれてなに不自由なく成長した。

ドラマに出てくるような被虐待児や捨てられた子供を、持てるものの鼻持ちならぬ憐みで「かわいそうに」と見下ろすことしかできぬ立場だ。

しかし結局社会人として一歩踏み出せば、「社会」だの「世間」だのと言った得体の知れない飼い主に、尻尾振ってお腹見せて媚を売って、何とか露命をつなぐ毎日だ。

おれこそが、ペットショップの犬猫なのだ。

「かわいそうって言うほうがかわいそうなんだ」

おれは想像する。きっと、このドラマを制作したスタッフも同じ自覚あってのことではないか。

テレビマンこそ、世論とか、視聴率、スポンサーとかに軛され、芸をして餌が投げ与えられるのを待つ仕事じゃないのか。

皆様のお気に召す芸当が出来なければ、スポンサーが降りてしまったりして、中途の路線変更や放送打ち切りの憂き目をみることも珍しくないようである。

中にはたった1クール、3ヶ月の区切りを待つこともできず、第一話を見たくらいで頭ごなしに放送中止を要求するようなモンスタークレイマーもいると聞く。まあ噂で聞いただけだから、まさか本当にそんな人が実在するとは信じられないけど。

おれたちこそ、ペットショップの小動物だ、と。テレビマン達の苦々しげな自嘲が聞こえるように思う。

 

これが寓話的な演出の効果だ。

上述したように、ドラマ全体の雰囲気はマンガチックで、リアリティはと問えば噴飯ものだ。このドラマを見て、これが日本の児童保護行政の現実だ、などと誤解する者はまずいまい。

では浮世離れしたファンタジーのままで我と我が身につまされる真実に無縁なのか。否々、イソップの寓話が狐とブドウだけを物語ることによって鋭く人間普遍の心理を穿つように、このドラマはマンガチックだからこそ見るもの全ての胸に普遍的な真実を突きつけてくるのではないか。

我々人間は誰しもが大いなる多数の前に、不当にも、飼い慣らされたペットのごとき追従を迫られている。単に不承不承屈服するだけでは済まない。自分から進んで身を投げ出し、三べん回ってワンと喜ばしげに鳴いて見せねばならない。

それが現実なんじゃないの?

少なくともおれは普段ずっとそういう思いをしているし、おれの知る限りは普通の大人は全員そんな様子だ。おれは上司、同僚、部下、お客様、取引先にそうして媚態を示していて、そして彼らも一人残らずおれに対して自分を偽り、彼らなりの「媚態」を見せてくれると感じる。そこにはかけらも本音の交流はない、しかし、一方で暗黙の共感が流れているのも感じている。「お互い大変ですね」と。

世の中って、そういうものだよね? 窮屈で屈辱的で、泣くほど辛い時も毎日少なくとも2〜3回くらいはあるけど、どうしようもない。当たり前のこと。

 

魔王が厳しい訳ではない。魔王が何も言わなければ、おれと世間の関係は変わるだろうか。いや、どっちにしろ世間に向かって媚びるしかない犬猫程度のおれの立ち位置に何も変わりない。

でもそれをはっきり言葉にしてくれたから、おれの覚悟も決まるのだ。

開き直って言わせてもらえるなら、おれは何もできない、わけではない。

それでもまだ、ペットとして芸ができるじゃないか。

追いつめられて嫌々渋々と芸をするのではなく、自らその運命を引き受けて、あえて進んで道化を演じよう。それがおれに残された最後の自由だ。

行く先が処刑台だとしても、刑吏に鞭打たれ泣き喚きながら引きずられて行くより、自分の足で最後の数メートルを尊厳を持って歩きたい。

「だからわたしは名前を捨てた」

 

おれ達はペットショップの犬猫だ。精一杯媚びへつらって芸をしてご主人様に気に入ってもらうしか、生き残る術はない。

思えば当たり前のその事実を、しかし敢えて直言してくれる人は少ない。

何故か。

人は、凶報に接した時、伝令を憎むからだ。

隋の煬帝はその若い晩年、荒れる国を尻目に後宮にこもって酒色にふけり、国事を奏上する忠臣を斬ったという伝説がある。

彼の暗君ぶりは唐代に誇張されたものだろうし、事実は今となってははっきりしないけど、その話自体は、人間にありがちな愚かさの典型をあらわす寓話として見事な物語だと思っている。

犬猫のように芸をして可愛がってもらわないと生きていけない、そんな己が無力を認めるのは屈辱的だし、恐ろしいことだ。そんなことは間違っている。人間は全ての人が等しく尊重され、自由と尊厳を保証されるべきだ。おれは心からそう思う。

だから、現実がそんな風に正しく出来ていない、というシンプルな事実をおれは認めたくない。聞きたくない。考えたくもない。そんな事実をおれの目の前に突きつける者がいれば、恨まないではいられない。その人のせいで世の中が間違っているのでないとしても。

おれの想像に過ぎないけど、多分、こういう心理はおれだけの物ではないのではないか。

誰だって憎まれたくはないから、お前らは犬猫なのだとは言いたくないのではないか。

 

「悲しさを吹き飛ばすには怒るんだよ! それは私でも誰でも良いんだ」

しかし、それで誰も言ってくれないなら、おれの怒りは、憎しみは、どこへ行けばいいんだ。

繰り返すが、魔王が黙っていたって、あるいは耳に快いだけの綺麗事を唱えていたって、世間が芸のうまい従順なペットを求めている事実が変わるわけじゃない。残酷なのは事実であって魔王ではない。

その残酷さに、おれは、どうしても納得いかない。許せない。腹が立って仕方が無い。

そんな怒りをポストは知っている。

その行き場の無い怒りを、受けとめよう、と言ってくれる。

誰かが悪いという訳でもない世の中それ自体の理不尽さ、少なくとも、彼女は絶対に悪くない。誰よりも一番悪くない。

それなのに「私に怒ったって良いんだ」と、言ってくれるのだ。

 

この辺り、ポストは魔王によく似ている。魔王が手塩にかけて育てた子だなぁ、って思う。

ポストは法的にも魔王の子になっちゃえばいいのに。魔王と弁当屋さんの子。

魔王とポストのパートナーシップがとにかく面白い。親子というより相棒のような、あまり上下の力関係を感じさせない感じが、「ペーパームーン」のオニール親子みたい。

 

ポストのネーミングの元になった「赤ちゃんポスト」が設立されたときのことを思い出す。

児童遺棄を助長するなどなど、さまざまな非難があったと記憶している。

この国には既に乳児院とかいろいろな養護施設があるのに、なぜ新たにぜんぜん別の形の施設を作るのか。 

おれも正直良く分からない。

それでも、捨てられる子供は現実に居るのだ。「赤ちゃんポスト」が捨てさせようとしている訳じゃない。

大人の身勝手は責められるべきだろうが、しかしそれを子供の安全よりも優先すべきなのか。

世間は非難轟々、マスコミは興味本位で「赤ちゃんポスト」という残酷な通称をつけて、今でも平然とその名称で呼ぶ。何がポストだ、こどもは小包じゃない。本当は「こうのとりのゆりかご」という名称のシステムだ。

おれは想像する。その提案が我々の目を背けたい現状を突きつけてくるから世論の不興を買うのではないか。

それでも恐れずに手を出した「こうのとりのゆりかご」スタッフの勇気を思う。

だから、このドラマの主人公の最も目立つ一人、強くて優しいハードボイルド感みなぎるかっこいい小学生女子が、劇中「ポスト」というアダ名なのが燃える。

このドラマの製作者の「こうのとりのゆりかご」への熱い尊敬と共感を感じる。

劇中の「ポスト」のイメージは、そのまま、制作スタッフの「こうのとりのゆりかご」へのイメージなのだろうと、おれは想像している。

正直、おれ個人は慈恵病院のそのやり方には全面的に支持しきれないところも感じている。例えば「赤ちゃんポスト」という通称が初めて使われた時、訴訟も辞さぬくらいの気迫でもっと強く抗議申し立てをすべきだったと思っている。

当然抗議はしたのだろうが「衆寡敵せず」だったのだろう。それにしてもあまりにもひどい名称だ。そこを経由して生育する子供たちのセルフイメージを思えば、絶対に訂正すべきだった。

だから、このドラマが「ポスト」の発音はそのままに、しかしその響きの意味を変えようとしているのだと感じる。

「こうのとりのゆりかご」が残念ながら果たせなかった「赤ちゃんポスト」という通称の嘲弄的な揶揄の印象の払拭を試みているのだろう。このドラマを見た人の多くは「ポスト」という音韻に、芦田愛菜の表現する気高い怒りとしなやかな尊厳をイメージするようになるだろう。

「こうのとりのゆりかご」のスタッフはさぞかし勇気づけられているだろうと想像する。

 

書きたいことはまだまだあるがまた今度。

今夜はいよいよ第8話。楽しみでならない。

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