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2014年2月11日 (火)

「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」8巻の感想 その7 やはり比企谷八幡は自己犠牲野郎なのか

ラノベの感想で自己犠牲野郎と言うと、どうしてもその言葉は沢城ボイスで脳内再生されるだろう?

 

という訳で、以下は、例によって、俺ガイルの原作8巻迄と、なぜか「ココロコネクト」のネタバレありです。ご注意。

 

 

 

 

自己犠牲野郎とラノベ関連で言えば「ココロコネクト」の主人公、八重樫太一がかなりの頻度で連想されるんじゃないかと思ったりするんだけど、どうなのか。

他人が苦しんでいることに堪え難い苦痛と不快と恐怖を感じる、それは当事者の苦痛よりも激しいくらいの苦痛である、それに耐えるくらいなら、自分が身代わりに被害を受けた方がいい。

そういう男である。

「ココロコネクト」もおれのお気に入りの作品でいつか感想を書きたいと思っている。主人公がめっぽう嫌なやつでどうしても好きになれない。なのに作品全体はすごく面白いというおれ的には稀有な作品だった。

主人公が嫌な奴だという部分も作品の重要な要素で、特に「ユメランダム」ではそこがテーマになってくる。そこをそう使って全体を構成するのか、すごいなぁと素朴に感動した印象が強く残っている。

 

話を俺ガイルに戻す。

「自己犠牲」と聞くと太一のやり方を連想するおれとしては、いや八幡全然違うし、と思う。

太一のそれは実は自分の苦痛を回避する行動だ。それもあまり後先考えない反射的というか常同的というか知性を感じさせない昆虫じみた単純な反応。

「痛いのは嫌だ」 それだけに見える。

傷つくこと、苦しむこと、悩むこと、痛むこと、そういう体験にも意味があるとか、そこから学ぶことが多い、とか、そういう感性がないんだろうな、とおれは想像する。

その特徴は作中「自分がない」という言い方で指摘されるんだけど、俺ガイル的にいうなら「理性がない」「自意識がない」とかいうことになるのではないか、とおれは想像する。

つまり、八幡のあり方と正反対だ。

八幡は推敲に推敲を重ね、極めて人工的な取捨選択の形を示す。迸る感情も一旦トラップしてから吟味し直すパワフルな編集作業があってその上での行動になる。

そうして練り上げられた行動は八幡の渾身の自己表現とも言える。

仮にそれが彼自身を傷つけるように見えたとしても、それが彼なのだ。全霊をあげて熟慮してその上で絞り出した自分自身。

傷つきも苦悩も全てが今の八幡を作り上げてきた掛け替えのないピースなのだ。

どうして今の自分や過去の自分を肯定してやれないんだよ」

だから、やり直したいなどとは思わない。その一瞬一瞬を自分自身として生きてきた。痛い目にあって後悔もする時もある。

「より正しく言うのならばこの人生のおよそすべてに悔いている」

その後悔こそが彼の人生なんだ。オルタナティブな選択肢など、ない。

そのあり方を否定することの方がより深い意味で八幡を犠牲にすることになる。

 

「君が誰かを助けるのは、誰かに助けられたいと思っているからじゃないのか」

この葉山のセリフが八幡の逆鱗を踏みにじって底を抜くのは、そう考えれば当たり前なのだが、おれはこのシーンがわざわざ描かれた意味を問い直したい。

葉山はまさに彼が八幡を助けようとするその瞬間にそのセリフを吐くのである。

もしかしたら、それは彼自身の話なのかもしれない。

葉山が八幡を助けるのは、八幡に助けられたいと思っているからじゃないのか?

そこに八幡が気づかない。常に言葉の裏を読む彼がこの時ばかりは文字通りに受け取って、正面切って激昂する。

八幡がいつになく無防備に怒っているのが、ちょっと嬉しくなる。葉山の心情を慮ることが難しいほどに腹を立てている。妹にだってここまでストレートに怒気を向けない八幡がだ。

八幡にとって葉山がそういう存在になりつつある。

葉山という人間、そして作品のメインテーマである「はやはち」を描き出すためにどうしても必要なシーンだから、初期のプロットから絶対あったに違いないシーンだと思うんだけど、おれにはなんとなく「八幡は自己犠牲的」と言っているファンたちに向けて作者が発したメッセージのようにも感じられた。

元来、八幡は口だけ出して手を出さぬ、というスタイルだ。それをどうして葉山が「自己犠牲」と感じたのか分からない。

その感じ方は、八幡よりも、むしろ感じる側の問題ではないか。

八幡を「自己犠牲的」と感じる読者の感性自体を問い直す側面を、俺ガイルに見出すのは牽強付会に過ぎるだろうか。

 

自己犠牲的ヒーローがラノベ主人公の定番の一つ、ということはないだろうか。さっきも引いた八重樫太一もそうだし、あの大ヒット長編ラノベの最弱レベル0ツンツン頭もそういう傾向。

それを言い出したら別にラノベに限らないよな。

だって自己犠牲はかっこいいじゃないか。

単におれがそういうのが好きなだけなんだけど。

でもおれだけでもないかもしれない。「俺に構わず先に行け」男子が一度は口にしたいセリフランキングで常に上位にランクインすると、化物語にも書いてあった。結局ラノベかよ。

ジーザス・クライストがスーパースターなのも、要するに自己犠牲がかっこいいからじゃないの、とか内心どこかで思っているのは、おれが不心得な邪教徒だからなのだろうけども。

とにかく、おれには自己犠牲を人間の美しさと思ってしまいがちな傾向がある。

 

しつこく強調するが、もともと八幡は量産型自己犠牲タイプのヒーローではなかった筈だった。だから、彼の上に自己犠牲の輝きを探そうとするのは、おれのワガママなのだろう。

ただ、時々だけど、それでも一方で八幡のやり方が自己犠牲のように見える瞬間が確かにあるのだ、ともおれは言いたい。

6巻のラストで、平塚先生も八幡が傷ついているように見えてつらい、という旨の発言する。ただ、葉山一人の感受性の問題ではない。

6巻では八幡はそれまでのやり方を変えたんじゃないかと思うんだが、どうだろうか。

次回、その辺りのことを書こう。

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コメント

はじめまして。(^^)

>作品のメインテーマである「はやはち」

作品・登場人物への尊厳・愛を感じつつ、記事を読ませていただいておりますが、これは笑わせて頂きましたので、感謝の念を表明しておきたいと思います。

>通すがりさん
初めまして、コメントありがとうございます。
ご笑覧おそれいります、今後ともよろしく(*゚▽゚)ノ

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