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2014年2月 4日 (火)

「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」8巻の感想 その6 比企谷八幡は自己犠牲野郎なのか

比企谷八幡のスタンスにハードボイルドなダンディズムを感じるのだぜい、と前回書いた。

彼のスタンスと言えば、八幡のやり方は「自己犠牲」だという評判を何度も聞いたような気がしている。気の所為かな、自分とは違う感想はひっかかるから印象が強いだけかもしれない。

きょうはその辺りを書こう。

 

以下は、例によって、俺ガイルの原作8巻迄のネタバレありです。ご注意。

 

 

 

 

「俺とか超犠牲でしょ」

6巻で、八幡は文実会議中に全委員の前で言ってのける。

ほら、自分でも言っているんだから、やっぱり犠牲だ。んなわけあるかい。

 

犠牲って言葉は、おれにはどんな意味に聞こえるかの話。

素朴な理解として、何かを得るために何かを失う、ってことだよね?

でも、例えば。

吉牛入って、並盛り一杯280円。あ、すいません玉子付けてくださいはい50円になりますうっわたっか!玉子たっかー!

ここで払う280円は果たして犠牲か、というと、おれは違うだろうと思う。

「牛丼並盛り674kcalのために、おれの280円は犠牲になったのだ」

そんな言説は妥当かどうか。

逆に「吉牛は、並盛り一膳の犠牲において280円の獲得に成功した」でもいい。

意味は通じる。日本語として間違っている、とまでは言えない。

でも、何を大げさな、とか、何か皮肉か冗談のつもりなのかな、みたいな、微妙な空気になるんじゃないか?

ここで犠牲という言葉が似合わないのは、日常的な売買行為だからだろう、とおれは思う。

対等な二者間の、両者合意の上での、常識的で適切な価値観において概ね等価な交換。

そういった状況には犠牲という言葉は相応しくない。

犠牲って、もっとドラマティックな、極端で例外的なイメージ。邪気眼的な意味で。

本来、神々に捧げ物をすることを指した言葉だから、おれのこういう理解もそこまで見当外れでもなかろう。

対価が得られない、あるいは極めて少ないような損耗だ、とか、その交換が一方的だとか突発的だとか暴力的だとか、そういうとき犠牲と呼ぶ感じがする。

だから、事故・災害の被害には「犠牲」という言葉がしっくりくるんだと思う。

 

8巻で葉山が「もう、やめないか。自分を犠牲にするのは」とか言いだして、それに対して八幡がいつになく本気で腹を立てるシーンがある。

おれが読んでて真っ先に思ったのは、「犠牲」という言葉の意味が、葉山と八幡の間で食い違っているんじゃないのってことだった。

 

葉山は「君は自分の価値を正しく知るべきだ」という。彼にとっての問題は八幡の価値なのだ。

それが、周囲から、あるいは八幡自身から、不当に低く扱われすぎている、そのことを、葉山は嘆く。

そうなった原因の一つに葉山自身がなってしまった、そんな悔いがあって、葉山は自責し、贖罪を焦っている。

 

対して、八幡は主張する。

自分は、自由だった。主体的だった。

「空気」に強制されたのではない。

打算的な期待を込めて、これ見よがしに痛々しい「犠牲者」を演じた訳でもない。

自分が自分の世界の主人であるために最低限必要なことをしただけだ。

彼にとっては、自分らしさ、主体性だけが問題なのであって、自分が他人からどう価値づけられているかなどはどうでも良い。

いや、そのような値踏みが可能となるような共有される価値観への追従こそ、忌むべき欺瞞と妥協であり、それこそが自ら主体性を売り渡し「犠牲」とすることなのだ。

自分が自分である限り、自分は断固として犠牲などではない。

憐れむなよ……憐れむな……葉山。

憐れみとは、蔑みであり、否定であり、侵略だ。救済のふりをして主体性を簒奪することなのだ。その憐れみこそが八幡を犠牲者に落とす。

だから八幡は誰かを助けたわけでもなく、ましてや憐れみなどしなかった。

八幡は雪乃を決して憐れまない。助けない。正さない。

雪乃もまた彼を憐れまない。

比企谷八幡が憐れみを向けるのは、お前だけだ、葉山隼人。空気読みのリア充代表、全てを選ばされて、身動き取れないヒーロー。上から目線で、当り前のように人を憐れむ、そんなお前だけは容赦なく憐れんでやる。

 

おれは、そんな風に八幡の心情を読んだ。

だから、なんてハードボイルドだと、おれは彼を愛しく思うんだ。その空疎な強がりが可愛くてならない。

本当に、自分の主観だけに引きこもることができるなら、ただの邪気眼。小説によっては、それが許される世界観もあるだろう。邪鬼眼系俺TUEEEファンタジーラノベとかなら。

しかし、昨今のラノベの流行りは、とくに俺ガイルは、そんなご都合主義は通らない。

自意識というものは他者との軋轢の瞬間にしか生まれない。

他者と比較して、初めて自分であり、自分と比較して初めて他者であろう。どちらか一方だけでは存在出来る筈がない。

「世界は俺の主観だ」

八幡がどんなにかたく握りこぶしを固めて怒ったって、そんな主張は通らない。

唯我論は論理的には絶対に論破不可能だ。しかし「我」だの「論」だのという概念自体が、既にして、他者との切瑳を前提しなければ、発想し得ない筈だ。

それは猛烈な欺瞞なんだよ、八幡。

八幡の、そして雪乃の、ふんぷんと鼻も曲がらんばかりの悪臭を放つ大嘘なのだ。

 

葉山との対決のあと、駅の近くの駐輪場で、八幡は自分の自転車が風で倒れているのを発見する。他にも倒れた自転車の折り重なった、一番下が自分の自転車だ。

一台一台立て直しながら「……ふざけんな」と悪態をつくシーンが、凄く好きだ。

知っているのだ。「世界は俺の主観」だなんて、子供っぽいウソだってことを。

こころの底から、誠実に生きたかった。

嘘の無い真心を、抱えていたかった。

しかし、それが可能だと信じることは、人間は嘘をつかずに生きていける、という大嘘を自分につくことに他ならなかったのだ。

自分の間違いと矛盾を、八幡だって分かっている。

「俺には確かな信念があったのだ。

おそらくは、誰かとたった一つ共有していて。

今はもう失くしてしまった信念を」

 

この辺がハードボイルド。

生きていく資格があると言えるほど優しくなれない自分に悩み、生きぬいていけるほどハードにもなれない自分に苦しむ、そんなマーロウだから、あの台詞がカッコいいんじゃないか。

未熟で稚拙で葛藤に苦しんでいる感じが、すごいカッコいい。しびれるヒーローだぜ、八幡。

 

八幡が自己犠牲野郎なのかどうかの話をしていた筈なのに、だいぶ話がそれてしまった。

次回仕切り直してその辺りを改めて。

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