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2014年1月26日 (日)

「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」8巻の感想 その4 なおも雪ノ下雪乃の場合

公式のキャラ紹介だったかで、雪ノ下雪乃は「奇麗な中二病」と書かれていたんだけど、おれはようやくそのことを理解しつつある。

前回、前々回とくどくど書いたけど、要するにそういういうことをおれは言いたいのだと思った。

渡航先生が、田中ロミオの「AURA」が好きで、俺ガイルはその影響下にある、みたいなことをツイートしていたような記憶があるのだが、なるほどなあ、と。

確かに、このヒロインの痛々しさは、佐藤良子系のそれだ。

 

以下、いつものように俺ガイル8巻までと、何故か「AURA〜魔竜院光牙最後の闘い〜」のネタバレがありますので、ご注意。

 

 

 

 

「つまり自分の作った設定に基づいてお芝居をしているようなものなのね」

雪乃自身による中二病の定義だが、なるほど、確かにそれは雪乃自身の行き方だ。

雪乃が類い稀な美貌を持つこと、裕福な名士の親がいて、明晰な頭脳、優れた運動神経、料理、テニス、ギター、武道などでそれぞれ玄人はだしの技能を誇ること、そこらへん迄は、たまたま彼女に備わる現実なのだろう。

しかし、「人ごと世界を変える」だの「暴言や失言は吐いても、虚言は吐かない」だのまで言い出したら、キャラ盛り過ぎってもんだろう。

まるで、ラノベに出て来る、完璧超人系お嬢様キャラじゃないか。

しかし、俺ガイルは、そんなカリカチュアの実在を許すようなジャンル「ラブコメ」ではなかったのだ。タイトルからして「まちがっている」と断言しているじゃないか。

ガガガ文庫はラノベレーベルだという思い込みがあったから、おれは全く疑問を持たず綺麗に騙されていた。自分の貧弱な読解力が情けない。

現実に、ラノベヒロインみたいな果断凛烈のかっこいいお嬢様が、いるはずない。

それが、俺ガイルの世界観なのだ。

 

このあたりは、「氷菓」とも似ているかも、と思った。

一見、ミステリーみたいな構成を取りながら、その世界観の中では「名探偵」はあくまで空想上の存在であって、実在しない。

フェイクミステリーというのか、一見ミステリーに見える、あたりがまさにミステリー的なミスディレクションなのも面白かった。

こういう構造を取ることで、ミステリーとは何か、というジャンル評論の側面を示すのが、「氷菓」の面白さの一つなのだろう。

 

話を戻すけど。

しかし、でもやっぱり雪乃のそれは、いわゆる「中二病」とは少し違う気がする。

雪乃は本気すぎる。

「中二病」、より正確に言えば「邪気眼」、「AURA」の用語で言えば「妄想戦士(と書いてルビはドリームソルジャー)」と呼ばれる一群の人々は、所詮は「お芝居」だ。

どこかで冷めている。自覚している。

「設定」であり「演技」であり「ごっこ」であり「おふざけ」でしかない。材木座もそうだ。「運命」と書いたところで、ルビは「じいちゃん」に過ぎないことを、分かっている。

 

この辺りも、「AURA」と被る。

「AURA」では、「妄想戦士にも本気派と見栄派の二系統があると思う」と書かれていて、おれも今、似たようなこと書こうとしているんだけど。

ただ、おれは、雪ノ下雪乃や佐藤良子の属する本気派と、材木座や「AURA」のモブ戦士達の与する見栄派の違いは、大変大きいと思っている。

その違いを知りつつ、それでも「妄想戦士」という大きなくくりでは同じだと考えることができる、というのが「AURA」の主人公、佐藤一郎のスタンスの独特さなのだろう。そこは多分、どりせんと同調するところなんだろうな。

でも、主人公ならざるおれは、やはり、ガチ勢は、なんちゃって勢とは桁違いにイっちゃってるでしょ、と思っている。

程度の差ではなくて、根本的に別物なんだと思う。

「化物語」シリーズの「囮物語」、憑かれていないのに、憑かれていると思い込んで行動していた千石撫子のアレな感じと、ガチ勢のおっかなさは通じると思う。

「猫物語」の羽川さんもいいところ重症だけど、千石ちゃんは更に膏肓に入るよね。

 

こういう本気派、自分を心底騙してしまうタイプのヒロインには、もう一つ共通点があって、おれもそのことをどうしても連想してしまう。

守ってくれない親。

希薄な親子関係。

希薄という以上に、虐待に準じるような放置とか、無関心。 私室を持たない羽川翼、クローゼットを開けてもらえない千石撫子。

「AURA」の佐藤良子の場合、親が登場しない分だけ、なおさら不気味さが募る。

ちゃんと読み書きもできて、高校に進学できているのに、本気で箸が使えない。

どうも天ぷらを食べたことがないらしい。

物語の最後、学校全体を巻き込んだ大騒ぎを起こしたのに、それでも登場してこない両親。

どんな家庭の状況なのか、想像してみると最早ホラーの領域だ。

 

そして、雪ノ下雪乃。

やはり、もうずっと以前から親子関係のシビアさが仄めかされてきたヒロインである。

ただ、おれの想像に過ぎないのだが、実はそこまで厳しい状況ではなかった、という展開になりそうに感じている。

というか、そういう展開を期待している。

詳細を知ったら誰もが「なあんだ」という程度のことだったら、すっごいおもしろいんだけどな。

本当に深刻な虐待、例えば「永遠の仔」みたいなことが、もし雪ノ下家にあったら、ちょっと堪え難い。

おれみたいな腰抜けは、耐え切れなくて、「なんて酷い父親だ」とか、きっと悪者捜しをして、気持ちを楽にしようとしてしまうだろう。

悪者捜しは好きだ。だけど、おれが俺ガイルに求めているのは、善と悪との叙事詩的対立劇ではない。白黒つかない、割り切れない、モヤモヤした煩悶だなんだ。

 

雪ノ下家の秘密といえば、8巻では、陽乃さんが意外にも結構良いお姉さんで、6巻迄読んで想像していたより、ずっと雪乃のことを真摯に案じている風情なのでびっくりした。

7巻、修学旅行でのことを、雪乃が姉に話したとは思えない。それでも、一緒に暮らしているわけでもないのに、雪乃と八幡の間の緊張の高まりを把握している。

情報源として平塚先生もあるだろうし、城廻先輩からもあるだろう。そういった情報網を密に維持しているあたり、妹への配慮が尋常ではない。

 

雪ノ下雪乃の中の人は、本当はどんな人なんだろう、という話を、今しようとしている。声優ネタではありません。

これまで、表面に見えていた雪乃像が、所詮演じられた妄想戦士で、あまり信用出来ないというか、単純に鵜呑みにできないものだとしたら、じゃあ表面に出ない部分はどんなものなのかと素朴な好奇心に駆られる。

一つのヒントは、家族関係。他にも、葉山とか、パンさんとか、いろいろヒントはあると思うけど。

雪乃が演じ続けてきた表面に出ている雪乃の姿も、まるっきり嘘でデタラメ、でもないのかもしれない。

それがハリボテのツクリモノだとしても、作り上げたのは雪乃自身だ。昔付き合ってた女の子が「気合いメイクをキメた顔は、スッピンより素顔だ」と言ってた。それが彼女の作品である以上、そこに彼女の一部が映り込んでくることは避けられない。

カッコイイ雪乃像は演じられた役柄に過ぎない。それでも、なぜそんなキャラを選んで役作りしてきたのかを考えることは、雪ノ下雪乃の人となりを考える上で大きなヒントになりそうだ。

 

黒髪ストレートロングって、小学生女子の髪型だと思うの。

というのは、あまりにも偏りすぎた意見か。

おれの世代、或いはおれの育った地域だけのことかもしれないが、中学女子はショートカットにしちゃうことが多くて、高校生以降は、伸ばすにしても染めたり巻いたりひねったりとかで、シンプルなブルネットストレートロングヘアってほとんど見かけなくなるような印象だった。おれが若いころって、茶髪が標準だったし。 小学生の頃、気になる女の子って、大抵、ああいう感じだった。もう完全におれの個人的な体験の話だけど。

黒髪ストレートロングで、可愛いとかより、かっこいいとか、りりしいとか、気高い、とかだったな、って。

今から思うと信じられない感覚だが、小学生のころとか、女子って、不気味で醜い生き物だった。臭くて、ナヨナヨしてて、すぐ泣くし。話通じないし、先生にチクるし。 そういう中で、アイツはちょっと違うよな、みたいな子を好きになる。女にしとくの勿体無いよな、みたいな気持ち。

好きってのが、尊敬とか憧憬の方向なんだ。ヤりたい、みたいな下卑た欲望ではなくて、おれ自身も、そんな風にカッコ良くなりたい、って。

 

おれは雪乃さんが好きで。 じゃあそれは上記のような小学生男子的な意味での憧れなのか、というとちょっと違う。

無論、いい歳した成人男性としての恋情の対象でもない。

二次創作で八結とか読んでると、むうぅとご機嫌が悪くなってしまうんだけど、自分の男が取られる感じなんだよな。

登場するヒロインの中で、雪乃が一番感情移入しやすい。

この、ヒロインになって男性主人公から愛されたい願望が、どうにも我ながら気持ち悪くてなぁ。

他人様に分かってもらえる気もしない。

 

「人は、女として生まれるわけではない。女に成るのだ」

ボーヴォワールの名言を、敢えて誤読してみよう。

だとしたら、おれだって、ひょっとしたら女になれたかもしれない、と。

おれの内側にも、機会と環境さえ整えば女に育ったかもしれない何かが、あったのかもしれない。

でも、おれには初潮は来なかった。女の子たちのコミュニティで、おしゃべりだのおしゃれだのしたこともない。男と恋したことも、男に抱かれたこともない。妊娠も出産も、更年期も知らない。

おれの中の男の子は、未来を持つ。少年になり、青年になり、おっさんになった。やがてジジイにもなれるだろう。

でも、おれの中の女の子は、時間が凍りついている。小学校の中学年くらいのまま、永遠に少女だ。

 

雪ノ下雪乃、黒髪ストレートロングのクールな無表情系美少女。 小学校時代に憧れた優等生の女の子を彷彿とさせる、そのいたいけなヒロインに、おれは、おっさんの中にひっそり住み着いていて、そして成長し損ねた永遠の乙女を重ね合わせている。

雪ノ下雪乃はおれだ、おれ自身だ、と思っている訳だ。 頭おかしい。

さらに、それ以上に、作者の渡航先生の、その心の繊細なひだの奥にまどろむ、幼い女の子だと思って見ている。

どうも、おれは、心の中に乙女が棲んでいるのはおれだけではないだろう、と思いこんでいるみたいなんだ。おまわりさん、こいつです。

男性なら誰でも、そんな乙女を内心に飼っている。きっとそうだ。

この乙女心は、女性にはまず分からない。

彼女たちはどうあがいても、やがておねえさんになり、お母さんに、おばさんになり、終にはおばあさんになる運命にあらがえない。女性としての生々しい現実を生きる彼女たちには、純粋無垢の少女を内心に不朽のまま保存することは至難だろう。

でも、男ならだれだって永遠に少女だ。

きっと渡航先生だって。

生まれることが出来なかった少女同士として、近年めきめきと体重力を強めておられるむくつけき元イケメンのアラサーライトノベル作家に対して、おれは、ゆりゆりとした共感を感じているんだ。

なにそれ気持ち悪い。

 

まあ、おれのきわめて個人的に歪んだ性的嗜好なんだ、って、自分でもそう思うけど、なんでいまその話かというと、自意識のことを考えているから。

自他を弁別する理性の機能という意味での自意識。

おれの未然未発の乙女心って、まあおれ自身の一部以外の何者でもない訳だけど、でも一人称「おれ」で語る時の「おれ」の一部として意識されているか、というと、それは微妙。

自意識が自分として認めていいものか悩むような、自分に成り合わないような領域、件の乙女はその辺縁に巣食っているのだ。

 

決して自意識の中心として選ばれることのなかった、心の乙女。雪乃ちゃんはまた選ばれないんだね。

彼女が一人称で物語を進める少年に恋をする。

いや、その思いを恋と言っていいものか。ツンツンしたり、蔑んだり詰ったり責め苛んだりする。何その純然たる敵対関係。

そうだな、恋愛感情よりは敵愾心とか、競争心というべきもののような気がする。

そこに闘争の要素は濃厚なのだが、何を以て勝利を決するかが分からない。

一体、彼女は何と戦っているんだろう。

 

自意識の余り物の彼女は、自分で自分を語れない。自意識の視線上に乗らない限り、浮かび上がることもない。

だから自意識に意識されていたい。慮られていたい。そうでなければ存在できない。

かといって素直に「私だけを見て」とデレてしまう訳にもいかない。

だって恥ずかしいじゃないか、デレて自意識との同化を素直に求めるってことは、つまり、その中2病的に完璧な美少女に自己投影しているキモい自分を認めることになる。

イイ歳ぶっこいたおっさんが、大人の男性として社会で振る舞って行く上で、内心で乙女心がキュンキュンしてるとか、おくびにも出してはいけないだろう。

 

それに、自意識に飲み込まれて同化してしまえば、彼女は消えてしまう。馴れ合って、パーティメンバーになって、解説役になったら、もうおしまいだ。

あくまで「自意識は私が倒す!」と言い張らないと存在を保てない。

ベジータ系女子? 石ノ森ファンのおれとしてはハカイダー系女子と言いたいけど、通じないんだろうな、今の若い人には。

だから雪乃は、自分が八幡の視線を求めていることに気がつくことが出来ないのだ、とおれは想像する。

多分、内心いろいろ理屈は捏ねた筈だ。しかし、8巻でも、明晰に述べられない。由比ヶ浜さんが割り込んで話をするタイミングを逸する描写があるけど、その程度で挫けてしまう雪乃の心事が問題だと思う。

 

それが、作中での、彼女の立ち位置だと、おれは思っているんだ。

かつて、力石徹やキングギドラを巡って語られたことが、雪ノ下雪乃について語られるべきなんだ、って。

ここで詭弁の基本に則って、過度に一般化をしてみたい。 ラノベヒロインって、大体そんなところあるよね、って。

ラノベ、アニメや漫画、ゲームとかの、まあオタクくさい界隈では、黒髪ストレートロングのヒロインって、王道とか、定番とか言っていい気がする。

古いとこ挙げてくときりがないけど、先月最新巻が出たばかりなので、漫画「ハイスコアガール」(押切蓮介)を読み直したので印象が新しい。

押切蓮介の絵がなんというか、独特の雰囲気があって、わかりやすい漫符が無いというか、カワイイを意味する記号が足りないというか、美少女の筈のヒロイン大野晶があんましそう見えないところが、この漫画の魅力だよね。

あれが小学生編から始まっているのがものすごく適切だと思う。小学生の矢口ハルオの前に立ち塞がるヒロインは正に強敵以外の何者でもない。

ハルオの存在など歯牙にもかけぬように見えた大野さんが、しかし、ハルオとの関わりによってしか解放されない何かを発見する。彼女の中で、その何かが膨れ上がっていく。

アザレアを咲かせて。

暖かい庭まで連れ出して。

所詮、ヒロインは、王子の救助を待つ囚われの姫君でしかないのか?

 

やっぱり小林秀雄なのか?

「太陽や水や友人や、要するに手ごたへのある抵抗物に出会へない苦痛」なのか?

ならば性愛や肉体や恋愛、官能と本能と情熱が、その「手ごたへのある抵抗物」であり、この孤独と断絶を突破する可能性なのか?

タイトルのみならず、あとがきでも「この迷走続きのラブコメ」と記す作者のせいで、「ラブコメ」という単語のゲシュタルトは崩壊気味だが、おそらくコミカルなラブストーリーみたいな意味だと思っていい筈だ。だよね?

でも、そうなのか?

結局、救いはラブにしかないのか?

だとしたら、絶望するしかない。

だってそこにいるヒロインには、官能などないからだ。

総身画餅。

萌えの記号をつなぎ合わせた人工の怪物だ。しかし、そんなパッチワークの化け物以外、おれの不朽の乙女心を託す先はない

 

雪乃は、だから、おれにとって希望のヒロインだ。

どこまでもラノベ的な完璧超人系ヒロイン、であるかのように見えて、実は、そんなヒロインに本気でなり切ってごっこ遊びしていただけのイタい邪気眼。

しかもガチ本気勢で、自分自身でも、それが所詮は演技だと自覚していなかった。

それが、突然、自覚してしまった。まだ他の人が誰も気がついてないのに、彼女だけ、自身のニセモノ性に気がついてしまった。

国中がまだ騙されている時に、真っ先に自分が裸だと気付いてしまった裸の王様みたいだ。

そう、裸の王様。それが彼女の正体に関わる重要な特質の一つなのだとおれは思う。

自分の愚かさ、至らなさを知っていて、でも認める度量はなく、ごまかそうと去勢を張って見栄を張って、かえってそのために自分の底の浅さを露呈してしまう。

雪乃にはそういうところがあるのではないか、少なくとも、彼女自身は、自分がそんな風に恥をかく可能性をひどく恐れているのではないか。

だから、人前に立とうとしない。

「死ぬほど練習」と他人には言いながら、自分はそこそこの成果を収めたら、それ以上は打ち込まない。人並みの体力さえない程だ、倒れるまでの努力なんてしたことないんだろう。自分の限界を晒すのが怖いのではないか。

全ておれの想像に過ぎないけれど。

彼女の、その臆病と卑怯が大好きだ。

 

そして、比企谷八幡に、その怯懦を見抜かれた。彼女はそう想像したのではないか。

見抜いて欲しい、と彼女自身も望んだことの筈だが、堪え難いほどの羞恥を感じるだろうと、おれは想像する。

実際は八幡は「雪ノ下は生徒会長になりたかったのか?」などと戸惑っていて、全然見抜いていないのだから気にしなくていいのだけど、雪乃視点ではそんなこと知る由もない。

雪乃ビジョンの中では、「誰でも救ってしまう」と美化された比企谷君である。きっと、彼女の弱さも愚かさも見透し、許している。だから、今回も、梢に登りつめて降りられなくなった猫みたいにひっこみつかなくなった自分を、助け下ろしてくれたのではないか。

そのことに甘い喜びがある。彼の心の中に、自分がいる。

でも一方、不安がある。彼も呆れているのではないか。彼に幻滅され、軽蔑され、嫌われたりしたら、どうしよう。

それに、今回は、彼の前で姉に恥をかかされた。他の女の子もいたのに。何も言い返せない自分を、彼の目の当たりに曝してしまった。彼は一体、自分のことをどう思っただろうか。

 

期待と喜びと嫉妬と不安と見栄と照れ隠しと。

綺麗なヒロイン像に包含しきれない、あらゆる人間的なもの、それまで気づかなかった、あるいは気づかないふりをしてきた、みっともない、恥ずかしい、情けない、だらしない、おぞましい、醜いものの数々が、いま、眼前になだれ込んでくる思いに惑乱しているのだろう。

雪ノ下雪乃は美少女という設定だから、頬を朱に染めてわたわたしていても愛らしい。かえって萌える。

むしろ、その瞬間を萌やすためにこそ、美少女は存在すると言っていい。

しかし。 そこで萌やかされて、読者と一人称主人公に愛されてルート確定、二人は幸せなキスをして終了。

とは、我らが雪ノ下雪乃はいかない。

ハイライトキエノンとなって、失われたものを悼むような、見る者の心を苛む微笑み方をするのだ。

最高じゃないか、雪ノ下雪乃。

おれは、その笑顔を知っている、と思う。

毎日毎日、おれ自身が浮かべている、貼り付けたような作り笑いだ。

 

おれは想像する。

それが渡航先生の作品である以上、そこに彼の一部が映り込んでくることは避けられない。

その羞恥、その惑乱、当然、総て渡航先生のものに違いない。

それは、上記のように、萌える美少女なら、許され、愛される恥だ。

でも、渡航先生ご自身ならばどうか。あるいはおれの場合はどうか。むくつけき中年男性であるおれなどが「ふぇぇ……はずかしいよぉ……」(CV丹下桜)とかましたところで、静かに滑るだけだ。

もっとも、おれの実体験によれば、現実の大人社会では、どんな美少女だって、かわいいだけで許されることなどない。

「かわいいは正義」「ただしイケメンに限る」などという言説は、それ自体フィクションである。

そんなリアルワールドを生きる大人は、生き恥を黙って飲み込んで、へらへらと死んだ笑顔を浮かべるだけだ。

 

それが辛くて、おれはファンタジーに逃げ込む。

「かわいいは正義」の世界で圧倒的俺TUEEEEを味わえる美少女に感情移入する。実に惨めで情けない。

しかし、その逃避自体もまた苦痛だ。

現実の羞恥と当惑からはただ逃げることしかできない、と、自身の可能性を断念することだからだ。自分を蔑み憎む生き方だからだ。

おれは、逃げ惑うおれは、それでも本当は、堪え難い恥辱を、雪ぎ得ない屈辱を、それでも噛み締めて生き延びて、それでも自分自身であり続けるような、そんなタフな自意識でいたい。

本当は、下らなくも醜い自分自身として生きていたい。清楚で可憐なヒロインの中に封じ込められたまま死にたくない。

それが、おれの求める自意識の物語だ。

この辺で、おれは小林秀雄とは意見があわんだろうなと思う。「太陽や水や友人や、要するに手ごたへのある抵抗物に出会へ」ば、ほだされる程度の苦痛を自意識だと思っている人とは、絶望的に話が合わないだろうなぁ、と。

太陽や水や友人なんぞに出会ったところで、自意識の苦痛が癒えるわけがない。

手ごたへのある抵抗物に癒しを期待するような錯覚がむしろ痛みをいやます、そんな感性が、つまり比企谷八幡だ。だから、おれは、彼が好きなのだ。

そして、今や、雪ノ下雪乃が、並びつつある。

輝く美貌、高い知性、諸芸に秀でる才能などなどに二重三重に呪われて、ガチガチなテンプレヒロインの運命を科せられ、約束された救済を強いられていた筈の彼女が、いま、それらの軛を断ち切って、そこらのノネナールくさいオッサンと同じ絶望に向かって翼を広げ、羽ばたこうとしている。

成り合わない、永遠に未然の少女だった筈の、おれの裡なる乙女も、自意識の大地に立つ可能性を持っている。

おれも亦、乙女であって、いい。

そんな福音をおれは俺ガイルに聞くのだ。

感動のあまり、自分でも何書いているのかよくわからない。

 

「紅茶の香りは、もうしない」

すばらしい。

うん、その空気、知ってるyo☆

おれの職場、毎日、そんな空気だし。紅茶の香りとか、しない、しない、したこともない。

「美少女と謎部活」のテンプレ設定に始まって、この索漠に至る。 おれ、この作品が本当に好きだわ。

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