「かぐや姫の物語」と、夢をみること。
「かぐや姫の物語」を観た。
これ凄い。
以下ネタバレ感想につき注意。
何を描き、何を描かないか。
偶然の入り込む余地のないアニメーション芸術の画面作りが、いくとこまでいけばどれほどのものか。
一瞥するだけでこんなにも突きつけられる。
美しいとかどうとかの範疇を吹っ飛ばして、ひとえに怖い。
月の迎えの恐ろしさ。
軽快で楽しげな音楽を奏でながら、それでも粛々と、荘厳な雅やかさと秩序を保って、あくまでさやかに朗らかに。
下界のがさつな人間どもにも丁寧で優しく、音も無く眠らせてそっと雲で受けとめる。
あまりにも穏やか過ぎる。
涼し過ぎる。
下界の人間の射掛ける矢も、天上の音曲を浴びて菊の花に変わってしまう。抗議の声も、哀訴、怨嗟、愁嘆、何もかもが、何も届かない。
ただ、ケガレ、と、憐れまれるだけだ。
眉を顰めてもらうことさえ、おれたちにはかなわないのだ。
飛天の楽隊の中央で、傘をさしかられている肉髻螺髪の優しげな男は、親しく馴染んだオシャカサマのかたちに見える。
それは、生老病死、愛別離苦など四苦八苦を離れた浄土の有様なのであろう。
その、優しさ、正しさ、美しさのなんと非人間的なことか。
問答無用で月世界の薄物をかけられれば、途端に、何もかも忘れてしまう。
手を取り合い、だきしめ合って泣いた、媼と翁を、路傍の石程にも目もくれない。
前半は、いつもの高畑勲であるように思えた。
里山的な自然の中で、鳥、虫、獣、草、木、花と、回って、めぐって、お互いを受け渡し合う循環の中の充実した生命。
それがにんげんのほんとうだ、という老荘的な気分。
「かぐや姫」だから、おれも大まかなあらすじは知っていて、だから、京の都の公達が求婚に来るのだと分かっていて。きっと、その公達の虚飾が、幼なじみのガキ大将、オリジナルキャラクターである捨丸にいちゃんの素朴と対比されて、やっぱり人間、田舎でひっそりと暮らすのが一番しあわせだと、いつもの結論に落ち着くのだろう、と。
もしそうならば、いつものように、おれは知的には理解し賛成出来るものの、心情的には共感しづらいだろうと予感しながら観ていた。
だって、結局おれは都市住民で、祖父母の代までたどっても、帰るべき「里」等、持たないからだ。人工的な、汚れて歪んだこの世界の生き物だからだ。見たこともない「ここではないどこか」を持ち上げられても困る。おれには「ここ」以外、行き場が無いのだ。
それが、石作皇子が「ここではないどこか」と言い出した辺りから、風向きが変わってくる。
「ここではないどこか」という言葉のいかがわしさ、いまいるここ、どうしようもない現状と向き合おうとしない卑劣さ、胡散臭さが強調される、それは確かにそうなのだけれど。
一方で「ここではないどこか」に、身を震わせて憧れる切なさ、惨めさが身に沁みる。
その切実な希求もまた、おれのどうしようもない「いま、ここ」の一端なのだ。
足るを知り得ない。隣の芝がいつも青い。名月をとってくれろと泣く子かな。そんな頑是ない無い物ねだりの浅ましさ。
それは実に、みっともない、下らないもので、正室に叱られて縮み上がる石作皇子の滑稽さと言ったら無いわけだけど、では、彼がレンゲに託して述べた情熱が全て根も葉もない口からで任せかというと、そうではなかろう。
おれは勝手に想像する。高畑勲だって、田園がほんとに真正の楽園だなどと、本気で信じているわけではないのだろう。知っていても、弁えていても、それでも、桃源郷を見出そうとする人間の寂しさ、満たされぬ飢え、時に惨めで、時に可愛らしく、時に勇壮でさえあるその飢えを、飢え自体を描こうとしているのではないか。
「かぐや姫」と呼ばれるようになったその少女が、彼女自身の夢見る桃源郷を写した箱庭を、蹴散らし踏み潰すその日が来る。自身を「ニセモノだ!」と鋭く糾弾し、「私は何をしていたのか」と自責する。下らん自己愛のために、折角の地上に生まれ直したチャンスを無駄にした。ただ、鳥や虫や花のように、ひたすらに素朴に生を謳歌すべきだったのに、と。
そうなのだろう、きっと、それは、その通りなのだろう。
でも、おれはそうは思わない。「かぐや姫」と呼ばれた少女の生き態が、生物としてのひたむきさに欠けていたとは、これっぽっちも思わない。
おれなどは「お父さんいい加減にしてよ!」と怒鳴りつけてやればいいのに、と何度も思った。おれだったら、そうするのに、と。
そう、それは「おれだったら」の話。所詮、血の繋がった両親に十分愛されて健康に育った、多様な価値観を許容する現代を生きる、それも経済的社会的に自立した成人男性である、おれの場合ならでは、の話だ。
翁の意向を迎えるのも、背くのも、必死の営みだ。苦しむのか、苦しめるのか。どんなに相手を思いあっても、侵略し合い、苦しめ合うのが避けられない。だって、人間なんだもの。
鳥が囀るように、虫が跳ね花が咲き誇るように。
我ら人間は、このように精一杯愛し合って、お互いを追い詰める。「消えて無くなりたい」と、真剣に叫ぶほどに。
想像するのだが、きっと翁も嫗も、数え切れないくらい「消えたい」「死にたい」というくらいの悲しみや怒りを味わって来たはずだ。ヨチヨチ歩きの姫が縁側からまろび落ちた時、悪童達と野山を駆けて傷だらけで帰ってきた時、公達の求婚に無理難題で応えた時、御門の求めに「むしろ殺せ」と応じた時。
それで、いいんだ。
それこそが、人が、ただひたすらに、率直に生きるということなんだろう。
でも、そのことを苦しんでしまう。嫌だ、ニセモノだ、鳥や花に比べて、真直でないようにさえ感じてしまう。
その苦しみもまた、じつに人らしい。足るを知らざる。真っ向正面、人間らしく、生き物らしい境地だと、おれは思う。
終幕近く、捨丸にいちゃんに再会する。タケノコに戻ったその子が「捨丸にいちゃんとなら一緒に生きていきたいのだ」と発見する。引き続いて二人で手を取り合って、空を飛ぶ、高畑勲の映画の中でも最高にセクシュアルな快美感のほとばしるシーンが描かれる。
落ち着いて考えれば、人生に得難い悦びだ。以って瞑すべし。その一瞬を味わったのだから、何の悔いもなく逝ける筈だ。
でも、少女は「もっと!」と叫ぶ。「まだ足りない!」と。
だから、夢にするしかない。
夢から覚めて牛車で都へ帰る、車中の姫の表情は窺えない。
夢と言い、憧れと呼ぶ。
おれにとっては、もともとあまり好きな言葉ではない。
卑しく、意地汚い。だらしない無いものねだりの貪欲が、我が物ながら醜悪で、うんざりする。
でも、この映画を見て、初めて、夢見ることを美しいと思った。
庭石をひっくり返して、わらわら這い出るムカデやナメクジの虫どもに、少女が微笑む。虫愛ずる姫君の、見る夢だ。
その愚かしいワガママな欲望の無価値なちっぽけさが、いとおしくていとおしくて、たまらない。
姫の犯した罪と罰。
月の世界では、おそらく微罪で、軽い罰なんだろうな。筆箱忘れたから、黒板に10回「もうしません」と書いた、くらいの。
その程度のことに、身を引き割かれんばかりの、下界のおれが、いとおしい。
おれは畢竟、悟れぬ、至らぬ、分を知らぬ、命を知らぬ。 だから諦めきれぬ。
その自分の賤しさに思いを馳せる。
自己憐憫と言う者があるなら、まあ言えば良い。それでも、夢を見る自分を、おれはいとおしく思う。
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