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2013年7月 4日 (木)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。の話 その10 アニメ13話と、6.25巻の感想「赤組必敗の奇策」

という訳で買いました、6.25巻買いました。

例によって、以下、アニメ13話、原作7巻までのネタバレありです。未読の方ご注意下さい。

特に6.25 巻に関する致命的なネタバレがあります。十分にご注意下さい。

 

 

 

「細かくて伝わりにくい割に量だけは過剰なパロネタ、ネットスラング、アホみたいに多いモノローグが結構な分量削られていた」

って、わーっっっっっ!

のっけから何を書いているんですかセンセーッ!

みたいな始まり方をする6.25巻。ドキドキしちゃったよ。

っていうか、ただ、八幡の文化祭のレポートに平塚先生が朱を入れているだけのシーンなんですけどね。

 

というか6.25巻ものすごいから、特に原作ファンは必読だと思った。

なにが凄いって、アニメ13話特別編とのコラボレーション。

見事な多重奏。計算され尽くした不協和音というか、ハウリングというか。

 

「Q.番外編13話と6.25巻は同じ話ですか? A.体育祭という事件は同じです。6.25巻以降はそこで明かされなかったお話です。事実的側面のみならば番外編だけでも表向きの情報としては足ります。番外編は『平穏無事な俺ガイル』。 俺ガイル6.25巻、それは世界を暴くシステム…(補足続く」

「承前)アニメ番外編13話はそれ単体でもお楽しみいただけるようになっています。「でも、裏でこういう話があったんだぜ…」というのが6.25巻以降のお話です。アニメ番外編13話と6.25巻以降は主眼となるストーリーラインが違うので、アニメを観てもネタバレにはなりません。ご安心ください!」

「俺が自分でこういう言い訳じみた説明をするのって結構珍しいんだぜ!こんなサービス滅多にしないんだからねっ!」

「すげー簡単にいうと、アニメ番外編は『一話完結で綺麗な俺ガイル』、6.25巻〜は『いつもの俺ガイル』。」

 

原作者渡航先生ご自身の、13話放映直後のツイートです。

所詮アニメは「平穏無事」で「奇麗」な「表向き」の話に過ぎない。事実的側面しか共有しておらず、真に世界を暴くのは小説である、と。

そう読み取ってしまうのは、おれの穿ちすぎだろうか。

なに?セルフ「時の娘」?

マッチポンプ「樅の木は残った」なの?

これらのツイート、一読明らかなように、6.25巻からのthree qaurtersが不穏で有事だぜ!という宣言になっている訳で、実際、アニメ13話には名前さえ出なかった相模南ちゃんが、前巻の勢いをそのまま引きずりつつ、ストーリーの中心にいすわる6.25巻な訳ですよ。

オラなんだかわくわくしてきたぞ。

 

アニメ13話の八幡の行動は不審きわまりない、と俺には見える。

棒倒しでのハチマキ偽装は、一見赤組勝利のための作戦のように見えるが、本質は、どう見たって赤組必敗の奇策である。

赤組が自然に負ければそれで良し、万が一勝ったとしても、八幡のせいで反則負けにできるための仕掛けであろう。ほかに共犯者を誰も巻き込まずに、一人ぼっちで確実に八百長負けを喫することが出来る、たった一つのさえたやり方。

この、独断専行的で、ギャンブル性のない安定したやり口は、まさに比企谷八幡で、方法論に不審な点は感じない。

不審なのは、八幡の動機だ。

序盤のギャグシーンで「マジギレするサッカー部の永山」の回想が語られる、これが、例によってギャグっぽく深刻な伏線を張る俺ガイルの手法なのは明白だろう。

アニメ版では一切語られなかったが、つまらない小細工で赤組勝利を水泡に帰さしめた八幡に対する永山的体育会勢の風当たり、強いなんてもんじゃない筈だ。

八幡が、そんな風当たりは忌避(ヒッキーだけに)したい、と、出来るだけ関わりにならず、薄く、目立たず、クビにならない程度に働く社畜的チームメンバーでいたい、とその時点では言明している描写、とおれは読む。

にも関わらず、当日の体育祭の現場では、八幡はアニメに描かれたようなスタンドプレーを行ない、たった一人で赤組敗戦の責を負うのだ。 この動機の変化の経緯が、一切語られない。

 

奉仕部全体としては、赤組勝利もめぐり先輩からの依頼、と見ているところがあるらしい。アニメ版で八幡自身がそう言っている台詞がある。

しかし、比企谷八幡は、これを裏切っている。意識して、意図して、故意に。

その理由は、6.5巻、6.75巻で、語られるのだろう。きっと、既にアニメ版で排除されている南ちゃんが大きな役割を果たすのだろう。

そこはいずれ続巻を愉しみに待つことにして、なんにしても現時点で明らかになったと思えるのは、既にこの時点で、八幡が能動的に奉仕部の活動を逸脱している事実だ。単に足並みが揃わないというだけではなく、奉仕部の活動に逆らってさえいる。

あからさまに対立を表面化させずに、一見、赤組勝利を目的とする奉仕部に貢献しようとするかに見える方策を選んでいるのが、実に姑息で、興味深い。この姑息さも意図的なものだろう。

これは7巻での、「ふられたくない」という戸部の依頼を果たそうとする奉仕部の方針に、一見従うかように見せて、独自に海老名さんの依頼に応えようとする八幡の面従腹背と、同じものなのではないか。

 

この面従腹背が、「一番の大嘘つきは俺だった」という7巻の結びにつながるのだと、おれは思っている。

もはや本音で自分の目的を語ることが出来ない、そんな奉仕部の欺瞞を、欺瞞と知りつつ、なお波風立てずに維持しようとする、いつから、八幡はそんな自分に成り下がったのか。

その欺瞞を演じ続ける、それでいていまさら孤高のぼっちの役をも演じようというのも欺瞞だろう、かつてあれほど憎んだ薄っぺらくも壊れやすいニセモノの人間関係にとらわれて、身動き取れない。

この孤独。 以前、俺ガイルのテーマは「怒り」だと書いた。

あれは嘘だ。と言うのには正直結構抵抗あるけど、恒例だ。嘘だ、と言おう。

俺ガイルのテーマは「孤独」。

やはり「孤独」。

「孤独」に尽きる。

前回のエントリーでも書いたけど、まるで理解者や味方のように現れて、彼にメッセージを送る人々。それぞれの解釈が間違っているという訳でもない、暖かい真情も嘘ではない。

しかし、誰一人、彼を理解してはいない。

それは、読者たるおれ自身がまさにそうだ。彼が気になる、ひどく関心を惹かれる、好きだ、惚れ込んでいると言っていい。でも、分かりはしない。比企谷八幡が、何を考えているか等。

 

このレベルの孤独を、本当に、傷付く程に共感出来るのは、多分、葉山だけだ。

葉山の、全てを大事に思うから何か一つを選ぶことが出来ない、という痛みを、八幡は、それだけは理解出来た。

「理解してしまった」

目の前の孤独、理の当然としてアタリマエに立ちふさがる、この孤独。 その孤独を苦しみと感じることを、それに抗おうとして、免れようとして、もがく試みを、欺瞞だとせせら笑うのは容易い。

しかし、その嘲笑は、孤独が真に克服出来るものである場合にのみ可能なものだ。 おれは以前も書いたように、どちらかと言えば葉山よりのリア充だから思う。

欺瞞の何が悪い、って。

欺瞞、それは精一杯の祈りだ。

人と人が、真に分かり合う。そんな奇跡はないのだ。人間は、理解し合えるように出来ていない。

どうしても誤解と偏見と孤絶の中で生きていかざるをえない、the locked in beingたる人間であるおれは、そんなことは百も承知で、しかし、そう悟り澄まして全てを諦めてしまうこともできなくて、どこかに美しい人間のまごころの交流があり得ないものかと、切に、切に、祈る。

祈ってしまうんだよ。

なんでもなく行き交うメールの、安っぽい定型的な顔文字の中にも、おれはその祈りを見出す。どうしようもない人間の孤絶と、その傷付きを。だから、どうでもいいような社交辞令だって、おろそかには出来ない。

それをくだらない、欺瞞、と笑えたころの比企谷に訊きたい。では、くだらなくないものって何だ。欺瞞ではないものとは、なんなんだ。

比企谷八幡は、おそらく、真摯な人間関係ってものが何処かに実在するとでも、思っているんじゃないかと想像する。サンタクロースを信じる子供のように、ナイーヴでセンチメンタルなアイディアリストなんだと思う。

八幡は、6巻で自分を「ニヒリスト」と定義していて、おそらくこのころまでは、そんな純粋さをもっていたと想像している。彼の所謂「リア充」の方が、よほどニヒルの性根が据わっているとは、全く考えていない風情だ。

その八幡が、7巻では、葉山のニヒリズムを受けとめる。揺さぶられる。共感してしまいさえする。

全編でももっとも感動的な下りだが、今読み返せば結構唐突な印象が拭えない。

このギャップを埋めるのが、6th and three quartersなんじゃないの、っておれは想像する。

 

渡航先生の「売らんかな」の姿勢が、おれは大好きだ。 俺ガイルの話をする時、必ず、「あやかしがたり」が売れなかった、というところから話しだす、その姿勢がものすごく好きだ。

「書きたいものを書くのか」「売れるものを書くのか」みたいな議論、って、おれは良く耳にするもののように印象している。そして、その2つがまるで対立するテーゼのように定立されがちに感じていて、そこに納得がいかないでいる。

何言ってんだ。

「売れるものを書きたい」んだろうが。或いは「書きたいものを売りたい」んだろ。

だって、プロの作家やってんだから。

おれみたいなアマチュアだって、こうして発表する以上、出来る限り多くの人にこの拙稿を読んでもらいたいと思っている。読んでもらえるものを書きたいと思う。誰も読まなくても良いから書きたいこと、ってなら、それこそチラシの裏に書くさ。

渡航先生が好きなのは、この俺ガイルを、多分、本気で売れ線だと思って書いているだろうところ。

自分が書きたいものこそ、今みんなが金出してでも読みたいものに決まってる、みたいな自信というか、なんというか訳の分からない確信を感じる。そこが好きなんだ。

そして、この6.25巻である。

この人たちは、どうも、全くBD/DVD特典というものを理解していないらしい。普通、もっとサイドストーリーというかスピンオフというか、あっても無くても本篇に関わりない無害なものにするものなんじゃないのかな。

これ、普通にナンバリングされてしかるべき内容。多分、アニメ化決定以前は、普通にこの体育祭の話が7巻って予定になってたんじゃないかと想像する。

それを敢えて、BD/DVDのおまけとして発表する。大胆不敵だ。

 

しかし、俺ガイルのこのアニメ化が、とっても良かった。

アニメ版と原作の描き方のギャップの話を、おれもここで何度か書いた。特に12話の差異は凄かった。

しかし、視点の違いによって生まれるこの距離、絶望的な違和感、どうしようもなく無力感を掻き立てる、この遠さ。

ちがう……ちがうんだけどなぁ……けど、言っても原作廚キモいってだけの話だしなぁ…… などとモノローグ余儀なくされるところが素晴らしい。

まさに、人間同士のディスコミュニケーションを描き切っている。

これこそ、正統な俺ガイルの感動なんだと思う。

敢えて、原作者が、自身の6th and three quartersのアニメ版としての13話の脚本を担当したことで、原作カットとダイジェストから成り立つ第三者視点を意味付けた。それが俺ガイルの読み方として、適切だと。

まあ、この圧倒的な原作力が商材の魅力を増すのだよ、という冷静な商魂があるのは無論なんだろうけど、渡航先生が商売の算盤をはじくということは、作品を魅力的にすることと同義である、と、確信する程度には、おれはファンなのである。

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