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2013年5月30日 (木)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。の話 その5 アニメ第8話までの感想

タイトルにおいて反語的強調がなされていることから明らかなように、この物語のジャンルは青春学園ラブコメな訳で、今日はそういう話。

以下、いつものように、アニメ8話、原作7巻までのネタバレありです。未読の方ご注意下さい。

 

 

おれのイチ推しカップリングは、やはり葉山✖八幡。すなはち「はやはち」。

おれってホラ、原作公認カップリングにハマる、素直なタイプなので。

でも「八幡受けとかねーわー」が主流ダヨネ。と、原作でも海老名さんがメタツッコミしているけど、それはおそらく正しい。本気の腐女子の間には、おれたちの哲学では思いも寄らないカップリングがあることを、思い知らされるに違いない。

それは仕方がない。葉山の魅力は、所詮、おなごにはわからぬか……

 

おれ自身は、自分で言うのはアレだけど、正直、どちらかと言えばリア充の方だと思う。

無論、葉山とかのレベルじゃない、そんな、ラノベの完璧イケメン役が張れる訳がないけど。

でも、友達も恋人も困らない程度にはいたし、勉強や仕事もほどほどにできたし、その成果も正当に評価されてきた。プライベートでも仕事上でも、そこそこの人間関係を維持出来てて、特に気まずいとかの問題もない。 今はきれいで優しい奥さんと幸福な家庭を築いているしな(このサイトは奥さんの巡回コースに入っています)

だから、八幡は好きなんだけど、彼のようにルサンチマンに自覚的ではないから、共感を覚えるというのとは違う。「へーそういう考え方もあるんだ新鮮」みたいな感じ。

 

しかし、ルサンチマンに無自覚だということと、そのことから自由だということは、同じではない。

むしろ、意識さえできないというのは、より問題は深刻なのかもしれない。

「比企谷君とは、仲良くできなかったろうな」

葉山のそのセリフ。

原作では、言われた八幡が、全編を通じて例のない程に動揺するシーンとして描かれるんだけど、それを読みながら、おれは想像していた。言った方の葉山は、もっと自分の言葉に驚いたのではないか、と。ほとんど確信するほど。

アニメでは、この台詞の間、ずっと葉山のアップが続く。

八幡視点の横顔で。

このとき、ああ、葉山は結構早口に言っていたんだ、ってわかる。張り付いたような笑顔のままで、一気に吐き出すように。

葉山みたいな、「本当の意味で現実世界が充実している」「真のリア充」が、ある誰か一人に、「君とは仲良くできなかったろう」と、面と向かって口に出すということ。

この重さは、リア充寄りを自負するおれは、分かる気がしている。

 

「真のリア充」で、「ザ・ゾーン」を発動できるほどの奴だと、実は結構、批判的なこと、厳しいことに言及するものだ。

平塚先生の言い方で言えば「問題を解決するように促す」というタイプの苦言を呈する責任から、逃げることを自分に許さない。

放置すれば場が荒れたり、人間関係がこじれるような問題があるなら、必要に応じて「叱る」役割を、自ら引き受けるだろう。

 

その原動力になるのは、同じ人間、話せばきっと分かり合える、という希望の確信だ。

ときにケンカしても、いがみあっても、十分な努力と時間さえあれば、我々は必ず、お互いを理解し合い尊重し合えるに違いない、そういう人間性への信頼だ。

実際、彼が2巻(アニメ4話)で友人が疑われた時にも、4巻(アニメ8話)で脅迫者を演じてみせた時も、彼の言動の根っこにあったのは崇高といっても良い人間への信頼だった。

 

しかし。

「それでも……比企谷君とは、仲良くできなかったろうな」 葉山は認めたくなかったろう。

もはや、自分が、人間を信じることができないのだ、と。 いや、本当はどこかで、自分は気がついていたはずだった。

人間は分かり合えない。

信じ合えない。

生涯、誤解と猜疑に囚われて、ヒステリックな怯えを撒き散らして生きて行くのだ。 ずっと、目をそらしてきた。人間の矮小さと、自分の卑劣さから。

でも、もう、知らぬふりでは通らない。

比企谷八幡が、そこにいるからだ。彼の腐った眼差しを、正面から覗き込んでしまった。

そして知った。腐っているのは、自分自身だ。八幡の瞳は、ただ冷徹にそれを映し出しているだけだ。

 

葉山の告白は、そういうことなんだと思う。

ずっと「ヒキタニ」と名前を間違えて呼び続けてきた葉山が、ここで、その間違いがわざとだったと明かす。地味な伏線が、ちゃんと生きてきて、上手いと思った。

葉山は、もはや、八幡から目をそらせない。

八幡を、彼の人間への絶望を、許せない。

理解したくない。

認めたくない。

しかし、その八幡への嫌悪感自体が、八幡が突きつけてくる、醜悪なルサンチマンと全く同根の感情なのだ。

彼を否定すればするほど、自分が彼と深いところで似ているのだと、思い知らされる。 そんな敗北感を当の相手に白状する、葉山の心情、想像しないではいられない。

 

葉山の中の人、近藤隆さん、というんだね。

この人知ってる。東京エンカウントのナレーションやってた人だ。ねねどのもよどどのも。

 

それにしても、アニメ版の再構成のうまさといったらない。プロってすごいな。

役者のうまさも演出の計算に入っているんだな、ってしみじみ思った。

前回、「言葉って生き物なんだな」という独白がカットされたのが残念みたいなこと書いた。

それは確かに残念なんだけど、でも、今回の江口拓也さんのモノローグの聞いてたら、大丈夫いらなかった、って分かった。

「自分が変われば世界は変わるというが、そんなことはない」

ここが実に良かった……

この台詞は、究極、「言葉って生き物」って台詞と同じ意味だと思っている。例によって、誤読であいすみませぬ。

それで、どちらがより説得力があるかと言えば、おれは断然、「言葉って生き物」推しだよ。

「自分が変われば世界は変わるというが、そんなことはない」の方は、字面だけだと、ふてくされたガキが拗ねて、自分の怠惰のいいわけをしているような台詞。と言ったら、雪ノ下さんとか「全くその通り」と肯定しそうだけど。

ちょっと気の利いた中学生なら、なにも実感が無くても、小器用にでっち上げそう。だから机上の空論というか、抽象的すぎるというか、最初原作で読んだときは薄っぺらく感じて、ほとんど印象に残らなかった。

でも、言葉面がどんなに薄っぺらくても、世界と自分の力の差というのは歴然としている、というその内容は揺るがせられない。世界それ自体は、世界独自の法則で勝手に動いてて、こっちが一生かけて踏ん張ったって、こっちのコントロールはまず利かない。これは大抵の人間にとって、動かし難い事実なのではないか。

世界はこっちを振り回せるが、こっちは世界を振り回せない。

この残酷な一方通行にはねとばされた傷付きと、諦めと、そして、そのそこに深くわだかまる怒り。

「言葉って生き物だよな」と発せられるのは、ストーリーが煮詰まってくる前で、さらっとギャグの中で。

巧まずして出る辺りが、ぼっちカジュアル。

これがかっこよくてなぁ。芯から、八幡の体にしみ込んでいるんだと思った。その苦みが。

 

しかし、やっぱ言い方だよねー。

「自分が変われば世界は変わるというが、そんなことはない」

かっこ良かった。江口君が!!

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