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« やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。の話 その1 | トップページ | 「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」の話 その3 アニメの話そろそろしようか »

2013年4月30日 (火)

「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」の話 その2 アニメを見た。

というわけで、アニメを、みています。

「はまち」あるいは「俺ガイル」。どっちだよ。

以下、いつものように、ネタバレ御免で、続きます。

 

 

 

そんなことより、原作の話をしようZE☆

 

っていうか、前回は最新7巻の話あまりしてない気がする。

まずは最新巻のあらすじ紹介しよう。

「というわけで、先日の京都旅行は、取材なんです!仕事だったんです!だから天下一品の領収証も経費で落ちますよね!!オナシャス!!」

まあ大体そんな話。

ゲーム化も決まって、突然のvita推しも清々しい。やはりステルスしないマーケティングは、爽やかダヨネ。

 

おれは、ニセモノが好きだ。

諸君、と少佐張りに三度繰り返して呼びかけたい程、好きである。

ニセモノ、というと、語弊があるかな。海賊コピーみたいな、本気で騙しにかかっている詐欺アイテムは、むしろキライなので、その辺、自分でも説明に困る。

うーん、例えば、モビルフォース ガンガルは嫌いだけど、コレジャナイロボはすごく好き。

今振り返ると、懐古補正でガンガルもなかなか味わい深い、とつい思っちゃうようになったけど。往時は子ども心にも「恥を知れ」と思ったものだ。

サザエボンとか、最高だった。最近の若い人はご存知ないだろうけど。 今更だけど、おれは、サザエボンに対する弾圧を許容するのは、むしろ著作権保護の本来の精神を損なう行為だ、くらいに思っている。いまだにね。

 

何が言いたいかというと、おれはラノベにその手のニセモノ系のかっこよさをもとめているんだぜ、ってこと。

さらに言えば、「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」はそういう意味でラノベ中のラノベ、ラノベ界のサザエボンだと思っている。コレジャナイラブコメ?

 

独創性イコール新奇さ、って感覚あるらしいんだけど。 おれには正直あまりピンと来ない。

originという言葉には、「起源」だの「発端」だのという意味が強くて、「新しい」とか「他にはない」といった意味は、主ではない。

「独創性」という日本語には、「独自性」とか、「新奇さ」「そこにしかない珍しさ」といった意味がすでに組み込まれているように感じる。

日本人であるおれとしては、本朝の漢字の文化圏の用例を尊重したい。

だから、おれがまちがっているというべきなのだろう、例のごとく。

それでもそれでも、おれは、鬼面人を驚かすが如き、小手先でひねくり回した意外性、目新しさ、前例の無さ、そんな新奇さなどに、大して独創性を感じられない。

聞き飽きた譜面を、読み慣れた戯曲を、いま、演者の心のそこから自ずから湧き上がるような思いを込めて演じ直すことの方が、ずっと独創的と思ってしまう。

ライトとは言えノベルの話をしようというのに、ノベルティの価値を認めないとかwどんなバカだよハイおれがそんなバカです。

 

それに、おれは、二匹目のドジョウを腹いっぱい喰らって育った世代だ。

二匹目どころじゃないよね。十番煎じくらい楽勝、みたいな?

物心ついた時には、ウルトラマンは既に80だった。当時は再放送が盛んで、初代のウルトラマンから全コンテンツ、前後関係になんの説明もなく、平等に暴露されたものですよ。

ウルトラマンに限らない。仮面ライダー、寅さん、ジョーズ、13日の金曜日、物語は、決して、それ自体の命を生きられない。

大人の事情で生々流転を繰り返し、パターン化し、陳腐化し、その本来持っていたはずの魅力を完膚無き迄に食い尽くされて、「まだやっているのかよw」と次世代の笑いものにされる、それが、おれの知るコンテンツの「当たり前」だ。

そして、そんな食い散らかされ方があまりにも「当たり前」だからこそ、それでも、落ちこぼれが、当たり前のことを当たり前に出来ない不器用な落第生が、苦しむことが分かっているのに、望まれず生まれ落ちてしまうことも知っている。

陳腐とマンネリの狭間で、あたかも、灼けたアスファルトと、仮借ない陽光の狭間で、今にも黒々と焦げ付きそうなミミズがのたうつような、そんな、いのち。

それが、我々の生きる、いのち。

失礼、我々、ではないね。余人は知らん、とにかく、おれの場合は、リアリティはそこにある。

 

だから、ラノベなんだ。

だって、あの、所謂一つの、文学と、同じ土俵なんだぜ?

おたくっぽいサブカルチャー、他にもビデオゲームとか、漫画、アニメ、いろいろあると思うけど。ノーベル賞とかもらえるジャンルじゃねーだろ。

そこいくと、ラノベのひたむきなニセモノぶりの、清々しさ。

圧倒的にクソだよな(絶賛)

クズっぷりの品格が違う。二桁くらい違う(大絶賛)

比肩しうるものといえば、20世紀初頭、あのヨーロッパの隆々たるクラシック音楽の山脈と、同じ五線譜の上で向き合っていたジャズとか、そういうレベルだと思う。違うか? 違うな。

 

そして、「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」公式略称「俺ガイル」である。

「俺ガイル」は、1巻初版では、わざわざ平坂読から、帯に賛を貰っている。

レーベルの垣根を超えてまで、わざわざ彼の大ヒット作「僕は友達が少ない」との類似性を強調し、強烈なマガイモノ感を演出して見せる、この時点で、おれたちはその確信的ニセモノ志向に戦慄すべきだったのだろう。

 

「青春とは嘘であり、悪である」

この鮮烈な第一文。

これほどまでニセモノ感プンプン放つ中で、開口一番、「嘘は悪だ」と抜かすのであるヲイ!

「おまえがいうな」系のツッコミを果たさなければ、読者と言えまい。

しかし、余りにもフリがキレッキレで、どうツッコんでも、拾いきれる気がしない。 名文だと思う。本編内の一文をタイトルにするなら、普通コレだろう、と思うんだけど、無論、「俺ガイル」の愉快犯的悪意がそんなぬるいタイトルを許すはずもなく。

 

前回のエントリーでは、「変化」が「俺ガイル」のメインテーマ、と書いた。

あれは嘘だ。 この一文に始まる以上、「虚偽と真実」がテーマに決まっているじゃないか。

特に第7巻。 虚構の中で遊び倒す腐ロイライン海老名姫菜。八幡は、絢爛たる王城の風光を背景に、彼女の真実と虚妄を追跡して行く物語を選択する。

「名探偵より未来少年派でね」って混ぜ返し方もかっこ良く、「俺ガイル」はたった一つの真実なんてものを否定する。注意深く徹底されたそのニセモノぶりは、その主張のためにあると言っていいくらいだと思う。余談だけど、作者の現在が一番自己投影されているのって、平塚先生だと思うんだけど、どうか。

客観的な事実は概ね一つかもしれない。でも、観測者各自が、おのおの好き勝手な物語にとりこんで、真実を解釈してしまう。あらゆる物語が可能であり、おそらく、それが人の自由というものなんだろう。

八幡は、だから、自分の物語を、ラブコメにも選ぶことが出来た。友情ドラマを選択することも。

でも、そんな「青春物語」は「選ぶ」と自覚して選ぶことが出来ない。そこに「選ぶ」という自分の作為と決断を認めれば、途端にそのハリボテの馬脚を顕わして、「青春」の陶酔は嘘になる。

嘘は、どんな嘘をつくか選べる。でも真実はただ真実なだけであって、こっちに選択の余地はない。

だから、八幡は言う。「選べない」、と。

他の何が選べても、青春だけは選べない。

 

「問題なのは、悪意によって孤立させられていることだ」 4巻のルミルミの立ち位置についての台詞だけど、じゃあ「悪意によって」じゃなければ、問題じゃないのか。 7巻は、その回答と言っていい。

「もし、優しさというのが可視化出来るものであれば、こういうものに違いない」

戸部が告白の場所に選んだ竹林の道の描写だ。周囲の人々の善意と好意が用意した「戸部のための舞台」。

それは海老名さんを絞め殺そうとする包囲網でもある。

関係者全員が少しずつ嘘をついて、彼女を追い込んでいく。

「海老名さんは何も答えない。お行儀良く腰の前で手を組んで、静かに聞いている。表情は透明で無機質な笑顔」

優しさによって孤立させられて、居場所を、今まさに奪われようとしている少女の表情。

「ああ、俺が想像した通りの表情だ」

痛ましいのは、海老名さんが、状況を理解していることだ。 彼女は、相対化された様々な真実の中から、自分の物語を選べる人で。つまり、物語としての自覚がない「真実」を狂信的に「選ぶ」ことが出来ない。その点で、狂信者の中では、孤立する以外の生き方が出来ない。狂信を強いられるなら「あ、じゃあもういいや」って。笑いながら言う人だ。超他人みたいな感じで。

 

その彼女の上に、比企谷八幡は「俺が想像した通りの表情」を見いだした。

自分自身の問題、強要される孤立の問題を、彼女の上に重ねてしまったのだろう。

その瞬間、彼は自分の依頼者を「選んだ」。

だから、彼は、ウソをつく。白々しくも無神経な嘘をつく。

「ずっと前から好きでした。俺と付き合ってください」

他の連中と同じように、恋愛だの青春だのの幻想に酔えない、斜に構えたクソ生意気な自分が嫌いだ。

でも、それが自分で、いままでずっとこんな自分で、これからもこんな自分で、やっぱり自分の好きで生きているんだってのも、照れくさいけど、認めざるをえないんだ。

ずっと前から、好きだった。これからも、ずっと付き合っていきたい。

それが、周囲の奴らの優しさのウソを暴くことになるとしても、「みんな」の共有幻想を砕くとしても。それでも、おれはここにいて、こんな風なんだよ。しょうがないだろ。

 

1巻の手作りクッキーの件から、八幡の問題へのアプローチは常に同じで、その安定ぶりが頼もしい。

問題の前提を疑い、一旦、その前提を崩して問題を再構築する、イノベーター的発想?と言えるだろうか。

一時の毀誉褒貶は様々だろう。あるいはひねくれ者、あるいは利他的自己犠牲。あるいは嫌い、あるいは軽蔑し、あるいは感謝したりするものもいるかもしれない。

ただ一つ言えるのは、触れる者全てに、自身の無意識の自己韜晦を自覚させるということだ。

 

7巻で、そのあおりをもっとも食らったのは海老名さんだろうな。

「私、腐っているから」 凍った笑顔で、そんなことを口にしてしまう。

「誰も理解出来ないし、理解されたくもない。だからうまく付き合っていけないの」

果たして、彼女は、かつて誰かにそんなことをそんな表情で話したことがあっただろうか。

そんな話題を穏やかに出来る相手、しかもそれを過不足なく理解した上で、それを良いとも悪いとも結論しない相手。おれの想像だけど、おそらく、そんな相手、彼女の生涯でも、初めてではないか。

彼女はもともと自覚的で醒めた人だったみたいだけど、それでも、このことがなければ、ここまではっきり言語化して自覚することもなかったかもしれない、くらいにおれは思う。

これって、事件だ。物凄い変化だ。

遊び仲間の男の子から告白されて、断っちゃってからちょっと気まずい、みたいなアリガチな変化の比ではない。

取り返しがつかない。

海老名さんは、八幡との醒めた会話の雰囲気を、もはや忘れられない筈だ。同じクラスの中で、葉山や三浦と青春コメディを演じながら、それを演じているに過ぎない自分を、あのやさぐれた同級生の腐った目が見抜いていてくれることを、いつも感じ続けていくのだろう。

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コメント

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。のアニメをたまたまアマゾンで見て原作読んでレビューを読んで、ネットで感想書いてる人のを読んで、いまココに辿り着きました。ツイッターですか?右の枠の中をみると原作13巻でどう思うのか書かないみたいな?最新のを1つと古い方から3つ読んで、もっと読みたくなってます。普段読むだけなんですが登録などがなく書けるなら読みたい気持ちを伝えたい。

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