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« ドラゴンクエスト10の話 | トップページ | 「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」の話 その2 アニメを見た。 »

2013年4月 4日 (木)

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。の話 その1

春ですね。

半年に一度のブログ更新の季節がきたようだ。
今日は、4月からのアニメ放送も待ち遠しい、「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」のことを書こう。主に最新7巻の感想とか。
以下、いつものようにネタバレ御免で、進行です。


いやー、アニメ化かよ。

おれは例によって「声優とかわかんなーい」って言うだけなんだろうって思いながらキャスティングみてたら、柚木涼香とか檜山修之とか、うわビッグネームだ、おれでさえしってるよ、みたいな。
ていうか、おれ江口拓也君って知ってりゅー。東京エンカウントで「ばくはつすりゅー」って言ってた子だ。
おお、そうすると、東京エンカウントのあの回は、キョンと折木君と八幡が一室に集って、ゲームして遊んでたのか。……胸が……熱くなるな……

ああ、しかしアニメ化かぁ。
きっと、来週の今頃のおれは、何もかも蹂躙され尽くしたハイライトの消えた瞳で「原作は……原作は面白いんだよ……」とぶつぶつ呟いているのだろう。
地の文の八幡節がやたらカッコいい、というのが作品の主な魅力なだけに、ものっそい不安である。

原作は、ラノベにありがちな構成で、1〜3巻で第一部、4〜6巻で第二部という感じだ。
恐らく、今後も一部3巻で、全4部くらいの企画なんだろう。と、おれが勝手に思っているだけなんだけど。
1〜3巻はまだいつ打ち切られるか分からない緊張感があって、目先の生き残りをかけて、意味もなくメイドコスのシーンがあったり、今読み返すと、ちょっと微笑ましい。
グンッ、と抜けてくるのが、第二部。 今読み返すと、4〜6巻の構成のうまさに唸る。1巻ごとにちゃんと読み切りとして成立してて、いかにもな引きらしい引きがあるわけでもなく、でもちゃんと続き物になってて、だから6巻の盛り上がりったらないわけよ。
「変化」が全編を貫くテーマなんだろうけど、その普遍性と、統一感も、安定してていい。
大変オーソドクスな、王道の青春小説のテーマで、これを正面切って取り上げ続けるバイタリティ自体が感動的だ。おじさん青臭いの大好き。
あるいは「青春」、あるいは「成長」、あるいは「恋愛」。
あえてそのポジティブな側面のみ取り上げて美化される「変化」って奴を、主人公八幡は、欺瞞だ虚妄だと喝破して否定する。
いや八幡は「変化」自体を否定するわけではない。彼自身は変化は否めないものとして、受け入れている。比企谷➡ヒキガエル➡蛙、という自身の仇名の変遷に、さらりと「言葉って生き物なんだなと思った」としか感想を漏らさない八幡のクールさといったらない。
そんな風に彼が従容と受けとめる変化って、彼の口から語られると「喪失」だったり「疎外」だったり、まあ、世間ではあまり歓迎されないネガティブな側面で取り上げられがち。
しかし八幡は続けて問う。ネガティブな変化の、何が悪い。っていうかそもそも「ネガティブ」ってなんなんだよ。
八幡が否定し、怒るのは、「変化」それ自体ではなく、変化をポジティブなものとネガティブなものに区別することだ。さしたる必然も基準も無く勝手に区別しておいて、一方を称揚して、一方からは目をそらす、その恣意的な感性が問題なのだ。
そう、八幡がネガティブなのではない。連中、「リア充」どもがポジティブに偏りすぎなのだ。
おれたちは、おぎゃあとこの世に生まれ落ちた瞬間から、流れ続ける時間に押し流されて、絶え間なく変化し続けることを余儀なくされている。どんな嫌でも、苦しくても、逃げ場はない。
どうせ避けようがない苦痛なら、せめてもそこに意味を見いだしたい。間断ない強制される変化の中にも、それでも少しは良きものがあって、自分は精一杯、良き物を選んだのだ、良き方向へ進んだのだ、と自分を慰めたい。
その気持ちは多分、分かる。赦せる。いや、むしろ、応援したいくらいだと言っても良い。
しかし、孤独の中で、自分自身の変化していく醜穢な過程を見つめ続けて、それでも「高み」を見失わない者等、ほとんどいない。
多くは、ほとんど全てが、自分を良くするよりも、わるものを作り出して責めることを選ぶ。
"ONE FOR ALL" 一人に傷を負わせてそいつを排除する。よくやっていることだ。
比企谷八幡は、それを許さない。排除される側の少数の思いはどこに行くのか。そんな「排除」が変化だというなら、変化の価値など認めない。
「だから俺は変わらない」と彼は言う。

八幡はリア充を否定して、呪う。
しかし、八幡は戦わない。徒党を組まない。やる気を出さない。
そのスタンス自体が、群れなして周囲へよけいな干渉をしたがるリア充の生き方への抵抗の表現でもあるわけだけど、そんな八幡が、ついに6巻になって静かな怒りを発する展開が熱い。
「本当に世界を世界を変えるってことを教えてやる」と。
「俺は変わらない」「変わる方が逃げだ」「安易な変化を成長などと言ってごまかすな」と言い続け、血を流してもその孤塁を守ってきた八幡が、ついに、敢えて、自ら変化し、かつ他者に自己変革を迫ろうというのだ。
それが、病欠した雪ノ下のマンションからの帰路のモノローグな訳だけど。

雪ノ下雪乃は戦う。
変化を望み、自らに課した。他者を言い訳にしないために、群れることを自らに禁じた。
その行き方に「憧れていたのだ」と八幡が言う。このことを、ついに5巻で、八幡が認めざるをえなくなる展開が切ない。
八幡と等量の優しさと正しさを以て、それでもこの残忍な世界で生きるなら、普通に考えれば雪ノ下雪乃のように一心不乱に戦って正面突破するしかない。
それに対して、八幡の戦術は斜め上過ぎて。
彼がこの屈折を獲得するまでに経てきた数々の、衝突、葛藤、紆余曲折が偲ばれる。おれは、彼が好き好んでそのひねくれを楽しんでいるとは思わない。きっと、貫けなかったのだ。くじけたのだ。諦めたのだ。何度も何度も。
それでも、自分の優しさと正しさを、八幡だけは信じていた。負けても、砕かれても、逃げて譲って撤退して道を枉げて、それでも、リア充どもの冷酷さに妥協したりはしなかった。
しかし、やはり、そのとききっと思っていたろう。もしも自分に力があったら、と。正々堂々、奴らの偽善を暴き、虚飾を剥いでやれたら、と。やつらがよってたかって感情的に集中攻撃を加えてきても、全て跳ね返してむしろ返り討ちに出来るほどの実力があれば、と。
「その完璧な超人性は俺が会得せんとし、彼女が確かに持っていたものだ」
そんな雪ノ下に。
「きっと俺は、憧れていたのだ」
その憧れの認識が苦いのは、幻滅を通じて得られたものだからだ。雪ノ下がその超人性のほころびを見せたとき、八幡は自分が傷付いてしまうことに衝撃を受ける。
「雪ノ下雪乃でさえ嘘をつく」
そんなことは当たり前なのに、そのことを許容出来ない自分を、八幡は嫌う。

雪ノ下が嘘をつく。
これは確かに、大事だ。
ただ一事、八幡のことを事故の時から知っていたのに、それに言及しなかったということにつきない。
繰り返し彼女が「私は嘘言は吐いたことがない」と、自らに言い聞かせるように、何かに誓いを捧げるように、その脆くも不退転の生きる姿勢を張り続けてきた。
それは彼女の動きを縛り、敵がイニシアチブを取るのを容易にする。どうしようもない弱点となる一方、しかし、だからこそ彼女の強力な武器となってきた。たとえ自分の不利益になっても、一歩も引かず信念を主張する彼女の強さを、これほど明示する態度はない。
しかし、それが根底から崩れる。自分の都合で好きなときに嘘をついたり、つかなかったりする。その恣意性は、リア充的な欺瞞と虚妄のそのものだ。別に悪事というほどのことでもない、凡夫ならば無理からぬところだが、そんな人間の言動に重みのあろう筈がない。
リア充の欺瞞を憎む八幡が、そんな雪ノ下にどうしても幻滅に近い感情を持ってしまうのも、これもどうしようもないだろう。
しかし、八幡がそんな幻滅を、被害者面して抱く資格は、果たしてあるのだろうか。そこを問うのが、八幡の優しさと正しさなのだ、とおれは思う。

人に好意を向けられる苦痛について、雪ノ下は、そのことで嫉妬されるという観点から説明するけど、明らかに、嫉妬など仮に無くても、のしかかる好意自体がおぞましいものなのは間違いない。
勝手な幻想を思い描いて人に押し付け、身勝手にプレッシャーをかけては、身勝手に失望して罵ったり。対象の言動がちょっと理想から外れただけでCD叩き割る動画をYOUTUBEにアップする類いの「ファン心理」、人間の好意のなかにはそういう成分がある。
雪ノ下に自分の理想の体現を強要して、嘘をつくことさえ許容しない。
そんな「憧れ」は正しく、そういうタイプの好意だろう。
それは畢竟、恣意的に「正しい青春」の理想を押し付けあって、なじめないものを切り捨てる、リア充どもの差別と排斥と同根のものだ。
八幡は、敏感な男だ。過敏すぎるまである。
雪ノ下の欺瞞に幻滅する以上に、自分の虚妄に幻滅する。あれ程に憎み、軽蔑した、リア充どもと同じ欲望で、八幡は、雪ノ下のを自分の理想像に押し込めようとしていたのだ。

しかし、そこでただ傷付いて終わる八幡ではない。
失敗と、負けることに関してなら球磨川先輩とだっていい勝負が出来る男だ。
「いや別に嘘をついてもいいぞ、俺もよくついてる」
これは、一応雪ノ下を許す言葉なんだけど、それだけではないだろう。
それ以上に、八幡がずうずうしく、自分を許して開き直る言葉だ、とおもった。
社会が八幡に厳しいからな。せめて自分くらいは自分に優しくしてあげよう、という姿勢。かっこいい。
これが、きっと雪ノ下さんが言う、八幡の「弱さを肯定してしまうところ」なんだろうな。

というのが6巻までの流れで、第一部「青春編」第二部「成長編」まで終了ということでしょうか。
などという構成や名称は、無論、おれが勝手に言っているだけのことなんだけど。
7巻は、第三部の最初の巻なんだろうだから、第二部の完結巻だった6巻と比べられると、どうしてテンションダウンしている感じでちょっと可哀想。でも、これまでと違って、もうアニメ化もしちゃったし、マンガ化やゲーム化も進行しているし、今更短期で打ち切りはなさそうで、安心して風呂敷シッカリ広げている感じがいい。
何の根拠もない勝手な予想を続けるけど、第三部は、多分「恋愛編」という感じなんだろうな。
というのは、7巻、雪ノ下さんがついにデレ始めたんだけど、これがもう本当に痛々しくて、惨めで、読んでてつらいから。
普通デレだしたら、可愛くなるもんじゃないの?
それで「2828してるオレきめぇwwww」みたいなコメント打つもんじゃないの?
第一部のころには完璧に見えた雪ノ下さんが、第二部に入ってから、ブレブレに軸がぶれてきて、7巻に至っては。
「……あなたのやり方、嫌いだわ」
「うまく説明が出来なくて、もどかしいのだけれど……。あなたのそのやり方、とても嫌い」
駄々をこねる子供みたいに、ネガティブな感情をそのままぶつける。それは、身勝手な理想を強要して、相手が外れることを許容出来ない、八幡が自身の中に発見して「自分を嫌いになりそうだ」と思った、例の気持ちとほとんど同じものだ。
あの雪ノ下さんの、この脆弱さ。
その前から、修学旅行で、クラスの子に八幡との仲を取り沙汰されたくらいで、部屋から逃げ出して来てしまったり、その後のラーメン屋からの帰りに、歩き方がぎこちなくなるくらいに八幡と二人きりだということを意識してしまったり。
同じことを由比ケ浜さんがやってたら「はいはい萌える萌える」で済むところだが、雪ノ下さんだと、そのアンバランスさとか、内部の空洞化と言うか、かつて彼女が矛とも鎧とも頼んだ軒昂たる気概が崩れてきている感じがして、不安な一方だ。
仕方ない。これまで引いてきた伏線の数々、多くは雪ノ下さんのご家庭の話だ。
お母さんとの関係、葉山との関係、パンさんの原書をお誕生日にくれた人、そして、陽乃さんの「また選ばれないんだね」という言葉の意味。
このあたりを扱うためには、雪ノ下さんの見かけ上の完璧さが、一度シッカリ崩壊しないわけにはいかないだろう。可哀想に、ここ2-3巻は、雪ノ下さんはしばらくつらい思いをするのではないか。

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