オーディンスフィア リプレイ日記23 「呪われ王子の冒険」序章━ふわふわのもこもこ━
あけましておめでとうございます。
強い子良い子のコルネリウスくんです。
そんなこんなで、ようやく第二冊目に入りました。おれは一体、何年かけるつもりだろう。正気の沙汰じゃないね。
運命の陥穽は突然足下に開く
今日と同じ明日が続くと
誰に言えよう
魂はうつろう
投げられた硬貨のように
巻頭言に端的にテーマをまとめるのが、オーディンスフィアの語り口なわけですが、預言の詩篇のようで、スタイリッシュですね。
「呪われ王子の冒険」の巻頭言、一言に要すれば、翩々流転、というところでしょうか。
取り返しがつかず、ままならない。
実は、おれがオーディンスフィア購入を決心したのは、公式サイトのコルネリウス君のムービーが決め手だったのですよ。
浪川大輔さんの、ハンサムな王子声で、思い切り深刻な芝居。
「この姿は…これでは…まるで…ケモノではないか!!」って。一体どんな化け物かと思ったら、ディズニーグレードにファンシーなウサギさんが、両手で耳をふぁさふぁさ、ってさせている訳です。
かわいいっっ!!
「人生はクローズアップで見ると悲劇だが、ロングショットで見ると喜劇だ」って、確かチャプリンの言葉でしたか。
コルネリウス王子の冒険はまさに全編そんな感じ。
でも、とにかく冒頭で、王子らしい麗しの尊顔を披露して下さってよかったです。
「美女と野獣」とかだと、最初から野獣じゃないですか。最後王子に戻った時、すごい違和感がありませんでしたか。
おれはどうしても納得がいかなくて。何度見ても、王子役のジャン・マレーの貴族的美貌になじめない。あの血腥い、愛おしいケダモノはどこへ行ったのか、と。
変身、というモチーフが、オーディンスフィアでは繰り返し語られる。
コルネリウスでのそれが一番端的なんだけど、ベルベットも終焉でプーカに変じるし、一時的なものだけどイングヴェイもカエルになる。メルセデスも世界樹になっちゃうし。
残るグウェンドリン・オズワルド夫妻は、如何。
変身していないと言えばしていないんだけど。いや、誰がどう見たって変身なんかしていませんから。という理性の制止を振り切って、でも、おれは、ちょっと、そうかなぁ、みたいな気持があって。
変身、って、した人の側から見たとき「えっ、これが自分かよ、おい」みたいな違和感と言うか。実際に変わっているかどうかよりも、そういう自分への違和感があるかどうかなんじゃない? みたいな。
そうすると、巷間流布する「オーダインの魔女」みたいな恐ろしげなイメージとの間にギャップを感じて、お母様のドレスを着たくなってしまうグウェンドリンは、やはり変身せしめられていたのではないのかしら。
それまでは単なる人間、ありふれた漂白の王子(ありふれてるなぁ。オーディンスフィア世界ではそこらのカエルだって亡国の王子だもんなぁ)に過ぎなかったオズワルドが、死の影を纏う剣士となったのも、やはり、変身ではないか。
彼らは、自分自身が、本来の自分ではないという違和感にずっと苦しめられ、では、一体本来の自分とは何者なのだと、もがきながら問い続けていたのではなかったか、と。おれは言ってみたい気持ちになります。
だけど、なあ、おれよ。また、そういう話の広げ方して、そこまで言ったら、大抵の人が変身していることになってしまわないか。ちょっと言い過ぎなんじゃないの。と、たまには自分にツッコミ入れてみよう。
そうですね。言い過ぎです。まあ、言い過ぎだっていいじゃないか。ブログってそういうもんでしょ(そこが言い過ぎだと)
言い過ぎなんだけど、さ。人格、ペルソナが仮面って意味だと、みなさんもご存じの通り。正体を隠して人格の仮面をつけて、いわば変身して現実を生き残っていくというのは、そんなにへんてこなイメージじゃないと思う。
多かれ少なかれ、おれらみんな変身を経験している。おれは、なんかそんな印象さえもっていたり。
みんながそうだから、変身が普遍的だから、コルネリウスの物語も面白いんじゃないかな、とかさ。
この物語が個別特殊に、呪いでウサギになった王子様の物語でしかなかったら、おれの感情移入できる余地は欠片もないんじゃねぇか?みたいな。だって、おれは王子じゃないし、ウサギになったこともないもん。わかんないよ。
何が変わって、何が変わらないのかなぁ。
変身、って、全てが変ってしまったのだったら、なんというか変身じゃないよな、みたいな。おれはそんな感じがしちゃうんだけど、どうだろう。
本郷猛も脳の改造手術まで完了してしまったら、仮面ライダーへ「変身!」とか言ってる場合じゃなかったよね。ショッカーの怪人「バッタ男」として、「イー」とか「ヨー」とか言ってた筈。勘弁して下さい、上司に言われたんです。
本郷猛として、自分的にはキャラは同じ、つもりなんだけど、見た目アレな怪物的改造人間にされてしまった。その状態を、それでもなお、自分は本郷猛である、と。自分として生き抜いていこう。その覚悟と決意が「変身!」のこころいきなんじゃねぇか、と。
あれ? なぜ仮面ライダー論? しかも初代。まあいいや。
変わらないところがあるから、変身なんだ、と。変わらないところ、中身、本質、正体、とでも呼べばいいのかな。中の人? まあ、どう呼ぼうとレッテルなんか下らない。おれの歌を聞け。
「中の人などいない」という言説は吉田戦車「伝染るんです」に嚆矢を発するとのことだけど、さすがに吉田戦車。
ポストモダン、なんて言われ出してから既に30年以上経つわけで、すでにそれが数世代前なんだけど。おれの浅薄な理解で図々しく壟断することを許されるなら、許されなくても言っちゃうけど。
森羅万象の背後に、何か、原因と言うか理由と言うか、真理があるんだよ、きっと、間違いない。みたいな信念を前提に「その真理ってこれじゃね?」と言い続ける学問や宗教のスタイルというか、姿勢があって。どっかで妄想と地平を同じくしかねない、パワフルで人の言うこと聞かない感じの、オペラ座の怪人というか、メガネ君っていうか、みたいな。暑苦しくて、うっとおしくて、そこがかわいい、みたいな。
対して。えーっ、真理とかそんなんあるんかいな、分からんぞなもし、ただ現時点で誠実に言えるのは、おれにはこう見えるよ、って程度のことじゃないの、みたいに思う立場があって。
なんか、思想の流行りって、大ざっぱにこの二つの潮流に分けられね?とか、勝手に思っています。
はい、すみません。全部ウソです。
「中の人などいない!」というのは、後者の基本的な主張。でも、なんつうか、かわうそ君が震えながら「!」つきで叫ぶみたいな、なんだかムリヤリ感をおれは感じる。
おれ自身が妄想的で、「全てお見通しだ!!」みたいなアハ体験を毎秒L5しているかわいそうな人でしたから、前者のアポフェニーに親近感があるせいかも知れませんが、やっぱ、人間、「真理」の概念からは逃れられないんじゃないのかなぁ、みたいに思っている訳です。
「真理」があるかどうか、おれなんぞには皆目見当もつきません。でも、ほら、だまし絵のトリックに引っ掛かるみたいな、錯視の原理とか、人間の脳の構造的問題なんじゃないかと思うんだけど、「真理」が、「黒幕」が、「仕組み」が、「中の人」が。あるような気が、なんだかしてしまう、ってのが、まあ、平均的な人間なんじゃないのかしら。
「下の人などいない」がすごいのは、吉田戦車の描いたかわうそ君の下の人って、所詮、漫画のキャラクターで、現実、本当に、いない。という辺りに吉田戦車の仕掛けの凄みを感じる。という風に、「伝染るんですの中の人」=吉田戦車という、実体的な何かについつい思いをはせてしまう自分の思考パターンの限界を示されるから。すげーなぁ、吉田戦車。
すみません。自分でも何を書いているのか。
…なんでこんな話に?
そうそう、コルネリウスの話でした。嫌だなぁ、忘れてなんかいないっすよ。ほんとっすよ。
「変身」の物語って、「中の人」の同一性が前提となるんだけど、たとえば「胡蝶の夢」みたいな、果たして、連続する「中の人」などという仮定は信じるに足るのかよ、なんて話になっていくパターンもありますよね。っていうか、変わる前の自分なんか、本当はいなかったんじゃないか。いたんだ、と思い込んでいるだけなんじゃないか、とか、押井守的に、否定的な自己言及の迷路に入り込んでいったりとか。そういうのも、おれは嫌いじゃありません。
「変身」と言えば、世界でもっとも有名なカフカの例の作品でも、そういう視点から、中の人の連続性の儚さを描いているんじゃないのかな、って、おれは勝手にそう思いながら読んでましたが。誤読乙。
じゃあコルネリウスの物語はどうか、っつうと、どうだろう。
そういう「変身」ではない気がします。何かが連続している、ってとこまでは間違いない、と。他人は誤解することがあっても、自身が見失うことは決してない自分自身が厳然と存在する、って話なんじゃないかな、って思いました。
オーディンスフィアらしい実存的確信ですヨ。つまり、「王子コルネリウス」と「プーカコルネリウス」に、それでも共通の部分があり、そここそ、コルネリウスの「中の人」だ、はたして、それは一体、いかなる存在なのか、って、そこを描き出していくのが、コルネリウス編のメインテーマなのだろうなぁとか。おれはそう思いました、というだけなんですけども。
そうだったのか。
何事もなかったようにオーディンスフィアの話を続けます。
コルネリウス編が、グウェンドリン編のすぐ次に続いているということに、やっぱり意味があると思ってて。比べてみろよ、ってことなんじゃないのかな、とか。勝手におれはそんな風に想像したりして。
そうすると、なんと言っても、オーダインとエドマンドの、父親同士のサイズの差がガコンとくるわけです。ギャップありすぎ。
松岡文雄さんのすばらしい演技で、くどくどと繰り言のような説教を続けるエドマンド王の歯切れ悪さが強調されます。
無力な父親。オーダインと正反対のタイプの父親。
このとき、コルネリウス君の最初の台詞が「でしゃばるな、王の道化め」なんですよ。父王と同様の内容を、訳知り顔で繰り返すウルズールを、ぴしゃりと切り捨てる。
おれの想像なんだけど、本当ならお父さんに言いたい台詞じゃないのかな。
でも、コルネリウスは、父王に直に言えない。
「王族の血など捨てる」と口では言いつつ、しかし、振りきれない。
オーダインと正反対とさっき書いたばかりですが、まあ、そうなんだけど、この、直接言いたいことが言えない、という点は、エドマンド王はオーダインととてもよく似ている感じがしたんですよ。
オーダインは、言ったら怒られそうで怖くて言えない。エドマンド王は、そこまで言ったら傷つけてしまいそうで、言えない。そんな感じじゃないのかしら、とかよ。
でも、やはり言いたいことは溜まっていく。
そこで、森の魔女、亡国の王女、ベルベット、なんだよなぁ、と。
コルネリウス君の物語は、それ以上にイングヴェイとベルベットの物語な訳じゃないですか。
王族の血など捨てられる、と思っているコルネリウスが、滅びて既に遠いヴァレンタインの王女を恋するというのは、意味深い気がする。
ベルベットという人が、また、王族の血を捨てる、なんて発想から懸け離れている人じゃないですか。ロイヤルファミリーのドロドロの怨愛にがんじがらめに呪われて、それでも、世界の終焉を防ぐために、生き延びるために、王族の彼女にしか背負えない責任を、震える指先を自ら叱咤するようにして抱えていく。
王家のせいで国を亡くし、生まれもつかぬプーカの姿で永劫を呪われて生きる人々が、その王の姫を、今も崇め、愛している、って、すごいことなんじゃないか?とか。エルリックなんてメルニボネの民の呪詛の対象だったよ。
それがベルベットという人。
敢えて二人の出会いを描かない。回想さえされない。
コルネリウスが、彼女の何に惹かれたのか、分からないまま。おそらく、そこには、コルネリウスが、そして多分ベルベットも、認めたくない、考えたくない部分が含まれているんじゃないか、とか。おれは想像している訳です。
二人の恋は、なぜか罪の匂いに満ちている。
コルネリウスにとっては、伯父エドガーの駆け落ちの再演。
ベルベットにしては、母の姦通の再演。
二人の家庭を歪めた最悪の事件を、なぜか繰り返す二人。まあ、実際には二人が思うほど、そこまで悪いことではないように思うんだけど。
しかし、その一方で、コルネリウスが選ぶ相手は、それでもベルベットなんだよ。王女としての運命を逃れられない。そして、逃げようとしない姫。
おれの想像なんだけど。コルネリウス君が、小賢しい分別を「でしゃばるな、王の道化め」と罵ったとき、彼は、本当に無分別だったのだろうか、って。国を守るの美名のもと、ウルズールの傀儡に堕した王の勧めに応じて、身を慎むのが、本当に分別だったんだろうか?
父王の在り方に疑問を持つ、批判的な検討を加えるというのは、本当にそんなにいけないことなのかな?
「近頃はすっかり人が変わり勤勉に努めると思うたが」って、冒頭、父王が言う。嘘じゃなかったと思うんだ。義務と頸枷を区別できない、子供の時代は過ぎつつあったのだろう。おそらく、ベルベットとの出会いも、その成長に影響があったはずだ。「遊びではありません」と、コルネリウスは言った。
ベルベットのような人と出会い、真剣に思いあうこと。それが本当に王子として恥ずべきことなのでしょうか、父上。それを遊びだと、無分別だと、決めつけられるほど。父王よ、あなたは。
「御偉いのですか」と続けたくなるような気持ちが、或いは、コルネリウスにはあったりしなかったかなぁ、と想像しているのです。
でも、そんな気持ちは、無理にも呑み込まれる。そうはいっても、やはり自分がいけないのだ、と。こんな風に思ってしまう自分は、王子たるの資格がないのではないか。叔父の如く、国を去り、苦労の裡に病没すべきなのではないか。そんな気持ちもあったんじゃないかなぁ、とか。やはりおれの想像ですが。
でも、それが自分なんだ。王子の資格が無いと責めるなら、責めてもらって構わない。それなら、私も王族の血など潔く捨てよう。国があってもなくても、王族に連なっていてもいなくても。私に変わりはない。あの方が、姫が、それでもあの方であるように。
そして、次のカットで突然、ウサギなわけですよ。
この不連続な感じが凄くいい。
自分なんか王子の資格はない。その思いを反映するように姿まで変わって。王子でなくなるどころか、人間でなくなってしまった。
このとき、進もう、帰ろう、と。その目指す先が、「私の国タイタニアへ…姫のところへ。戻ってみせる」なんですよ。タイタニアを想うことと姫を愛することが、本当は、コルネリウスにとっては同じことなんだなぁ、って。
それを明らかに示すための仕掛けが「変身」なのかなぁ、って思ったりしました。
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