オーディンスフィア リプレイ日記21 「ワルキューレ」終章━母親━
前の回、リプレイ20の続き、一応、です。
オデットとの対決が、なんつうか、モラトリアムの終りというか、あっちゃー締切来ちゃったよ、っていうか。年貢の納め時みたいな?
ずっと逃げ続けてきたものに、ついに追い付かれたような感じします、ってことを、前回書きました。え、そうだっけ?
さらに、オデットの方が、正論だって感じがしてしまう。こっちには怒りも不満もある、でも、それは逆ギレだよなぁ、みたいな、罪悪感があって。堂々とこちらの正義を主張する資格はない。そんな感じ。
えー、でも、正論、正義が、自分を追い詰めるものとして感じられる、って、なんかおかしい感じがするんだけどな。てなことを書いてました。
さあ、お前の番だと、突きつけられる。突き付けてくる相手には借りがあって、逃げられない。もう、子供の時間は終わりなんだ…って。この感じ、ずっと前にも書きました。
グリゼルダからサイファーを託される時の感じじゃないですか?
なんで、いつも、こうなっちゃうんだろう。
イイコトとワルイコトの感覚が、おれにはある、って前回書きました。
その具体的な中身は、おれだけのものなんだろうけど、なんつうかさ。
イイコト、ってやっぱり、いい気分になって、気持ちが落ち着いて、腹が据わって、背筋が伸びて、愉快だったり、楽しかったり、あたたかいような、そんな感じだと思う。
そこんところは、人間、みんな共通じゃないのかな、って。勝手に思っているんだけど、ダメかなぁ。
そりゃ、時には、イイコトのはずなのに、厳しいことや、緊張したり、困ったり、なんてこともあるだろう。でも、やっぱり、長い目で見たら、安心や、落ち着きや、大人っぽいような誇らしさや、そういうものにつながっていたりすると思う。そうじゃなかったら、イイコトじゃない。
ちがうのかな。
口やかましく追いかけてきて、理不尽な要求を突き付けて、罰をちらつかせて脅迫する、そんなヤクザみたいなやり口のイイコトなんて、なぁ。
でも、グウェンドリンと、そしてオズワルドにとっては、正義、ってそういうイメージみたい。
おれの想像なんだけど、多分、二人とも、優しく包み込んで許してくれる、そんな存在を知らないんじゃないかな。悪いことを叱っても、サディスティックに罰するのではなくて、本人を案じて、むしろ守るために、正しく導こうとするように叱ってくれるような。
グウェンドリンなんか、お父さんがオーダインなんだぜ。お姉さんもグリゼルダだし。お母さんはいない。ミリスはいてくれる、けど、弱々しいウサちゃんだし、おそらくとても小さい時には、傍にいなかった。
オズワルドも、メルヴィンしか、父と慕う者はいない。そのメルヴィンは、自分を「捨て駒」と嗤った。実の両親は、赤ん坊を捨てるような連中。自分は捨てられた。親でさえ、自分のことを要らない、と。
それは、やっぱり、どう考えても。
ワルイコトだ。
いくらそれがイイコトなのだと思いこもうしても、どうしたって、納得がいくことじゃないよ。おかしい。不当だ。間違っている。
2人が、本当はすっごく腹を立てている感じがする。おれなら、怒るもん。腹を立てたってどうにもならない、って、普段は押し込めているようだけど、だけど、さ。本当は、ずっと、ハラワタ煮えたぎってんじゃないのかな。
当然だと思う。当たり前の感情だと思う。
それで、更に、更に想像なんだけど。その怒りの行き場ってさ。目の前に今居ない、でも、とても居て欲しかった人に、ぶつけてしまうんじゃないかな。オズワルドがエドガーを憎む、ってそういうことじゃないか。
グウェンドリンは。お母さんに対して、怒ってはいないだろうか。
小さい子を遺して、お母さんが死んでしまう。
残された子供から見れば、捨てられたのと同じだ。
「なぜ、生んだの」「なぜ私を置いて死んだの、お母さん!!」と、本当はむしゃぶりついて、怒りたい。泣きながら、責めて、噛みついて、でも、最後には、お母さんが「ごめんなさい」って、謝りながら抱きしめてくれて。そしたら、自分も「ごめんなさい」って言えるのに。「ごめんなさいお母さん」って。お母さん、大好き、って。ありがとう、お母さん。
でも、いない。
お母さんはいない。
怒りも、悲しさも、悔しさも、行き場がない。ぶつけることはできる、でも、ぶつけっぱなし。誰も受け止めてくれない。この寂しさ、一人ぼっちの気持ち、お母さんに伝わらない。お母さんは、だから、分かってくれない。許してくれない。
そりゃ、もう生きていないんだから、仕方ない。分かってるよ、しようがないことだよ、お母さんのせいじゃないよ。お母さんだって、きっと、死にたかったわけじゃないだろう。
ああ、でも、そのこと自体も納得がいかない、おかしい、間違っている。なぜ、どうして、何のために、お母さんは死んだ。誰のせいだ。
母の死を不当、と思う。しかし、その母自身を恨まぬために、それを妥当と思わねばならない。いや、でも、どうしても、納得いかない。妥当と不当が全く妥協点を見いだせぬままで、グウェンドリンの正義の天秤は機能しない、判断を余所に預けるしかない。
マチコさまのSS読んでて「ああ、そうか」って腑に落ちたのは、この辺なんですよ。
グウェンドリンの「正義」の感覚がはらむ大きな矛盾。
失われたお母さんへの愛情が、その死を悼む。と、同時に、見捨てられた子供の怒りが、その死を憤る。
お母さんがその死に臨んで、安らかに、何も思い残すことなく、せめても幸福な死を迎えて欲しい、という気持ちと。
一方、後に残す娘たちのことを思って、死んでも死にきれないような気持になってくれたのでなければ、母にとって自分たち子供は一体何だったのか、と思ってしまう気持ち。
勝手に想像しておいてなんだけど、おれ、どっちも、凄い分かるような感じがする。どっちの気持ちも、人間として当然の心情なんじゃないか。
どっちの気持ちも「正しい」。
しかし、両者、相容れない。ぶつかり合う、という程度のレベルではなくて、不倶戴天というか。絶対に、どちらかの気持ちしか生き残れない、という激しい相克に至るしかないって感じではないのかな。その起点であるお母さんが既にこの世に無く、構造が既定されて決して変わらない上は、なおさらに。
グウェンドリンが「スッキリしたい」欲に取り憑かれているようだったり、「正義」のイメージが酷薄な感じだったりするのは、このあたりに、淵源をたどれるのではないかしら、とか言ってみたりしたりする。
地獄の閻魔様が代表するような、借金取り立て系「正義」のイメージを背負って登場するオデット様が、文字通りロケットみたいなオッパイばいんばいんの、スーパーセェクシィな大人の美女だってあたりが、また、面白い。
グウェンドリンの、性的なものに対する敵意というか嫌悪について、以前も書いたけど。もっと的確に言えば、恐怖、だったんだなぁ。とかな。
グリゼルダから「お前の番だ」と槍を遺されるときにも書いたけど、グウェンドリン自身の成熟への恐怖があるんだなぁ、って、おれは想像しました。
グウェンドリンの二大要素、槍とドレス。ドレスに込められた、大人の女性としての成熟、という側面、それがやっぱり「お母様のドレス」なわけで。
「正義」と「女性」の交差点。そういう意味で、オデットと死せる母との像が、おれの中では、重なって見えるんです。
ここで、どうでもいい連想で、本朝神話のイザナミノミコトが黄泉へ行ったときの物語を思い出しました。夫のイザナギノミコトが、理を枉げても愛しい妻をよみがえらせようと図った物語。
あまりにも、その死を惜しみすぎたことが、かえって死者の安寧を乱し、怒り狂う崇り神としてしまう。
妻の亡霊を黄泉へ追い返すイザナギノミコトによって、千引きの石が黄泉つひら坂をふさぐことになった。これによって、生者の世界と死者の世界は、一方通行の断絶に隔てられることになった。
なんだか、北欧神話よりか、こっちの方が原作と呼ぶのにふさわしいのではないか、みたいな気持もしたりしてな。製作者は日本人みたいだし。
グウェンドリンが、母によみがえってもらいたいと思わないではいられない。しかし、その願いは、ほかならぬ母を傷つけ、損ない、歪めて、おぞましい怒りの姿にしてしまうのではないか。そんな邪悪な願いなのではないか。グウェンドリンは、自分の、幼児のような心細さを、そんな風に感じて、自責してきたのではないか、とか、想像しました。
だから、グウェンドリンとオデットが向き合った時、グウェンドリンは、母親に恨みがましいほどの愛着を抱き続けてきたことへの報いを、今まさに、受けているように感じたのではないか、と想像してしまって。
オデットが、その妖艶な容姿にふさわしく、オズワルドをめぐって、メロドラマの修羅場みたいな台詞ばかりというのが、良いわけですよ。しかも、なんか、向こうが本妻の立ち位置ですよ。おいおい。
倫理的にも、性的にも、誇り高いというか潔癖?なグウェンドリンには、泥棒猫扱いがひどい屈辱でしょう。でも、それに正面から言い返せない。グウェンドリン自身、後ろめたさがある。
さっき、「優しく包み込んで許してくれる存在」って話を書きました。叱る時でさえ、むしろ守りたいという気持ちが強く感じられて、かえって安心できる、みたいな存在。
グウェンドリンにとって、オズワルドは、まさにそんな存在になっているんじゃないのかな。
「君は物なんかじゃない」
恐ろしい問いかけではないですか、って前に書きましたが。そう、めちゃめちゃ怖い。けど、その怖さ、俺も感じている、とオズワルド様は目を逸らさずに言うだろう。とても良く分かる、一緒に感じている、君は、一人ではない、と。
オズワルドは、グウェンドリンを受け止め続けるだろう。
それって、理想的な父親像。だったりしたりは、しないのだろうかな?
グウェンドリンが、オーダインに求め続けたのは、そういう存在であってほしいということだったんじゃないか。
そのためには、性的な誘惑さえもするくらい。母親に取って代わり、父の妻の座を奪いたいくらいに。勿論、おれの想像ですよ、言いすぎですよ。
でも、オズワルド篇で、ドレスを着てオーダインの前に出るシーン。おれはそんな風に感じてしまう。そこで「聞いていた話と随分違うな」と、反応するのが、「理想の父親」オズワルドじゃないですか。やっぱ、そういうことなんじゃないのかなぁ、とかさ。
だから、ここで、オデット=グウェ母と、グウェンドリンが、理想的な父親を奪い合うシーンになるんだろう、と。グウェンドリンが、如何に躊躇い、抵抗しても、やはり成長と成熟の道を辿らざるを得ない、というこの物語の中で、ラスボスが正義を振りかざして貸しを取り立てる母親、もっと言えばグウェンドリンの空想する母親像、だってのは、おれには凄く腑に落ちる。
やっぱり、母親と対決せずして、女には成れないんじゃないか。
以前、車のCMで、若造りしたイタイ感じの中年女性が「娘と同じ歌がうたえること」「娘の一番の親友でいること」「いつまでも娘の憧れでいること」とかとか言いながら、ドライブする、ってのがあって。このCMは、母親側の視点なんだけど、母と娘の間の競争心というか、主導権争いというか、の苛烈さを思って、ちょっと背筋ゾクゾクしたことを思い出したりして。
男同士なら、ストレートに「このクソ親父」「ふざけんなバカ息子」と怒鳴り合い殴り合いになりそうな対立関係が、母娘では、表面的には「私たち、とっても仲良しでーすv」みたいな双子系母子って感じで、表現されたりするんだろうな、とか。いや、あくまで、おれの想像ですよ、例によって。
「お前が出会う前に、私のものであることは決まっていた」
「お前こそ、我らの邪魔もの」
オデットは「オズワルドは自分のものだ」って言っているわけなんだけど。そりゃ勿論分かるんだけど、おれには、ここで「お前」と呼ばれているのが、特に、グウェンドリンの「物ではない」部分、って感じがして。
グウェンドリンが、誰かの所有物でも、道具でもなく、自分自身として、自由に、独立した存在であること。オズワルドが、後に「星」と呼ぶようなあり方。
オデットが呼びかけているのは、まさにそこではないか、って。
誰のおかげで生まれてきた。もともとは私の血肉。賢しらに、一人で大きくなったような顔をして。そんなお前などいらない。可愛いグウェンドリン、もとの無邪気な、物言わぬ赤ん坊に戻っておくれ。
いや、本当のお母さんは、そんなこと言わないでしょう。お母さんだもん。そういう気持ち、そりゃ少しは、どんなお母さんだってあると思う。子供が大きくなって少しさびしい、みたいな。でも、それよりはるかに強く、子供の成長と自立を喜ぶ筈だ。だって、お母さんなんだもの。ま、なんにでも例外はあるでしょうが。
本当のお母さんが、という話ではなく、グウェンドリンはそう思っているみたいだ、ということなんですよ。グウェンドリンの空想の中では、お母さんは。生涯ひたすら夫に尽くして、利用されっぱなしの上、裏切られて死んだお母さんは、きっと娘だけが自立して、独自に幸せになっていくことに嫉妬するだろう、みたいな感じ。
グウェンドリンは、その嫉妬の正当性を、否定できない。そのことについて、一言も反論しない。
しかし、黙ってもいられない。
「ワルキューレは死を恐れない」
ワルキューレならば、死の取り立てに慫慂として従うだろう。ワルキューレならば。
「…けれども、オズワルド様がお前に奪われることは、死よりも耐え難い」
オズワルドをむざむざ奪わせなどしない。オズワルド、それは、或いは、母に大いなる借りがある、無力な我が身。或いは、優しく守り導いてくれる理想の父。或いは。
「君は物なんかじゃない」と教えてくれた人。自分が、物ではない生き方が出来ると、初めて信じてくれた人。その人は、「物なんかじゃない」という生き方、そのものだ。
もはや、物として生きていくなど、出来はしない。たとえ、母を裏切り、その貸しを踏み倒し、忘恩の娘、不孝者と罵られても。オズワルドと共に、生きて行くのだ。
その決断は、しかし、苦渋に満ちている。
オデットを倒して、勝利の感激はない。
「今より死は最も冷徹で残酷な別れとなる」
お母さんに、完全に見捨てられてしまった。どこかで、よみがえりを期待していた母を、心の中で、完全に殺した。
「世界が終焉に見える時、お前が放った地獄の犬を見るがいい」
その罪悪感。その寂寥。孤独。
取り返しがつかない。
もう、どんなに泣き叫んでも、ひとりぽっち。暗闇で、寒さに震え、手探りで這いまわるしかない。
何一つ、希望はない。
ラスボス倒して、こんなに滾々と後悔の湧き上がるゲーム、って、何?
すごい。
母親との訣別、正義の超克。善悪を彼岸より俯瞰する実存的自由。幼年期の終わり。その不安。
二十一世紀ってすごい。テレビゲームでこんなテーマを語られてしまうんだからなぁ。鬱展開大好きなおれですが、これこそ、ど真ん中ストライク。王道の鬱展開です。ちなみに、生涯で最も好きな鬱展開作品は「ジョニーは戦場に行った」です。
ところで、かなりどうでもいい話ですが。
オデットといえばバレエ「白鳥の湖」のヒロインの名前、というのが、一番有名なんじゃないかな、って思うんですけど。
「白鳥の湖」の王子もジークフリードという名前だし、北欧のもともとの神話のワルキューレは、詩の中でしばしば白鳥に譬えられると聞きます。チャイコフスキーの元ネタが、どうも「ニーベルングの指輪」と同根の伝説のバリエイションらしい、ってのは有名な話ですよね。
グウェンドリンのワルキューレ装備のデザインは、「白鳥の湖」のバレリーナを意識している、ってのは初版特典のアートワークで神谷氏自ら書いているところだし、終章でヒロインと王子を奪い合うラスボスの名前が、偶然でオデットになった筈はないでしょう。
しかし、オデットがライバルということは、グウェンドリンはオディールですか?
ワーグナーの「ニーベルングの指輪」では、ブリュンヒルデは、ワルキューレたちの長姉なんですよね。だったら、グリゼルダこそブリュンヒルデじゃね? という書き込みが、2ちゃんだったかのオーディンスフィアスレにあった気がする。
本来、ヒロインとなるべき人は、他に居る。自分には正統なヒロインたる資格がない。グウェンドリンの、この後ろめたさや、不安感を、スタッフも意図していたってことが、オデットのネーミングに垣間見えるかな、とか、ちょっと思った。
まあ、こういうキバヤシ系暗号解読みたいなこじ付けは、あまり好きではありません。なんとなく書いては見たけど、やっぱりあまり興が乗らないですな。
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