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2007年9月25日 (火)

オーディンスフィア リプレイ日記18 「ワルキューレ」━グッバイマイハートさまのグウェ母の話━

何日か前から、いっぱい書きたいよ、そのうち書くよ、などと勿体ぶってますけど、そんな勿体ぶるほどのことがあるわけではなくてですね。偉そうですみません。ほんとすみません。生まれてきてすみません。

何の話かというと、当ブログでも話題の某美麗サイト「グッバイマイハート」さまでの二次創作小説の感想を書きたい、という。三次感想? 二次感想かな?

ご存じない方は、とりあえず、グッバイマイハートさまへGO

 

マチコさまの描くオーディンスフィアのキャラクターたち。ブリガンとか、バルカンとかのサブキャラの物語も渋いんだけど、本編に登場しなかった、グウェ母、インベル母の話がすごくて。特に近作の、グウェ母の物語「息を殺して私を殺して」が。ね? こう、いろいろ語りたくなったわけです。

 

共時性とか言い出すと笑えるんだけど、折しもエヴァンゲリオンに序がついて公開されている訳ですが。おれは「オ」の世代だから「ヲ」のタイトルが恥ずかしい。

おれが「息を殺して私を殺して」を読んで最初に連想したのは、ばあさんこと赤木博士()の開発したマギシステム、母と研究者と、そして女、の三要素の三位一体構造でしたか? 使徒にクラッキングされるエピソードでは、女を体現するカスパーが最後の砦となって、そのアイデンティティを守りぬくのでしたな。

グウェ母もまた、母であるより、王妃であるより、女であることを、最後に選んだのか、と。

 

マチコさまの描くグウェ母ってというのは、おれの持っているイメージとは随分違っています。本編や設定資料集で、もし、あんな感じのグウェ母に描かれたら、おれはすごく違和感を感じたでしょう。

でも、おれはマチコさまの短編連作が、凄い面白いと思っていて。それは、ファンによる二次創作だから。

マチコさまが「グウェ母とオーダインはやはり愛し合っていた、ということであってほしい」みたいなことを、以前書かれていたんですけど、「わかるよ、ああ、わかるよおおお」みたいな感じなんですよ、おれは。

おれもそう思うんですよ。本当にそう思う。グウェ母とオーダインが、愛し合っていてほしい。分かっているんだ、母が全く愛されていなかった、と。父が人を愛せるほど大人ではないことも。

でさ、それって、本当はおれの気持ちって言うよか、グウェンドリンの気持ではないのかな、って、おれは想像しているのです。おれはちょっと感情移入し過ぎているかな。

本当は、どこかで気持の通じ合っていた夫婦から、その二人の関係の、かけがえのない結果というか、足跡というか、産物というか、終着点というか。そういう結実としての自分があるのだと、思いたい。自分の生まれたことには意味がある。喜ばれ、嘉された。そう思いたい。

マチコさまの書くグウェ母とオーダイン像、って、そんなグウェンドリンの気持ちを、マチコさまがその鋭敏な帆布に、いっぱいに受けて書かれているように感じます。ファンのみが達しうる感性だなと。

 

オズワルドは、終焉で、かつてのタイタニア王、変わり果てた自分の祖父を倒して、自分が捨てられた事情を知って。「全てが嘘ではなかったかもしれない」と。メルヴィンが、死の間際に「捨て駒」と嘲笑った事実は変わらないとしても、その瞬間に感じたほど、彼の生涯が空虚なものではなかったのかもしれない、と。そんな思いにふと、目を伏せるではないですか。

今、グウェンドリンとともにある充実を根拠にして、かつての自分の空虚な傷つきを、繕いつつある。そんな感じを受けました。

オズワルドとグウェンドリンは、ある意味で、一人の人間。

父王のため、メルヴィンの為、自分自身はそれだけでは全く空虚な、無価値な道具に過ぎない、誰か有為の人に使われて、初めて存在を許される。しかし、それもまた空想と願望にすぎない。ああ、どうしようもなく、自分はたった一人。どんなに祈り、待っても、誰も、自分を抱え上げてくれなどしないのだ。

そうやって、初めて、誰にもどうしようもない自分自身を発見した時。お互いが、それぞれに出会うんですよね。それぞれ、自分の姿を相手の上に重ねあっていく。だから、相手の為に戦うことが自分自身の為に戦うことになる。

そんな関係が、この、終焉のシーンで変わる。オズワルドが、オズワルド自身のこととして、自分の来し方を振り返る。あるいは諦め、あるいは上書きしていく。

では、グウェンドリンは。

本編の中では、そのシーンはない。

 

そこで二次創作の出番ですよ。

マチコさまの書く話を、おれは、まるでグウェンドリン自身の空想であるかのように感じてしまっている。

想像します。あるいは、終焉の後かもしれない。育児に、生活に、毎日忙しく追われ、くたびれつつも充実した暮らしを送る、大人のグウェンドリンを。片言を話すようになった子供は、ねかせつけられる時に、お話しをねだったりするかもしれない。

グウェンドリンは添い寝して語るだろう。幼い時に聞かされた話。姉たちのこと。彼女自身と夫のこと。そして、いつか、父王と、母のことも。

そのとき、彼女は、自分の子供たちに、どんな父と母の姿を話すのだろう。

きっと、マチコさまが書かかれておられるような話をするんじゃないのかな、とかさ。以前、マチコさまへの拍手で、こういうこと書きました。

 

でも、やっぱり、グウェンドリンは、愛し合う父と母、というのが、自分の願望でしかないことを無視し続けは出来ないと思う。

「息を殺して私を殺して」で、結局、自分を絞め殺させて、愛のない夫を、罪悪感で縛るしかない妻。

「はじめて本心から愛していると言ったわね」という台詞が切ない。

嘘だから。

いつか、その同情が愛情に変わる。計算づくのようでいて、冷徹で何もかも分かっているような自分を演じていなければ、とても持ちこたえられない。それでも、どこかで、きっと、目の前のこの夫と、本当に出会える。その希望が支えだった。

でも、もう、もたない。

自分の命が尽きるまでに、そんな邂逅は、あり得ない。

そんな絶望の中で、ある種の無理心中を試みるグウェ母を、マチコさまが描きだす。でも、本当に、マチコさまが書かかれたのは、母の最期の気持ちをそんな風に想像してしまう、グウェンドリンの姿なのだと思っています。

 

ワルキューレ的な、美しい死の価値を鮮やかに否定するグウェ母。むしろ醜い生を謳歌するだろう、と。オーダインは、それを聞いて憤りを禁じ得ない一方、ある意味で、そんな母を理解し、受け入れている。

そんな母と父であってほしい、というグウェンドリンの願いだと思う。

でも、母は、結局、そのようには生きなかった。絶望の中に死んだ。

オーダインも、結局、そこまでは理解せず、言われるままに、「永遠に記憶に残りたい」という理由を真に受けて、彼女の首を絞めて殺した。

そこに娘たちの姿はない。

母として、同じ女性になっていく幼い娘たちに対して、間違っていない、必ずしもワルキューレのように死ぬことはない、と。グウェンドリンの身になって言えば、母様に、そんな風に言って欲しかった。死ね、死んでお国の役に立て、と迫るこの国と父から、守ってほしかったよ、お母様。母として「地を這ってでも恥をかいてでも生き延びる」というかっこよさを、身をもって示してほしかった。

でも、母は、ただ、母自身の為だけに死んでしまった。

自分も、姉も、その死に際に、思い出してさえもらえなかったのだろう。

グウェンドリンの想像は、夢想する理想的な両親と、それがかなえられなかった現実の間で、往還を繰り返すのだろうか。

 

マチコさまの書かれるグウェ母のストーリーは、本当に説得力があって。

オーダイン王には、妻を自ら縊り殺したような罪悪感を持っていて、だから、娘たちの前で母について一言もないのだろうなぁ、とか。

一方でこのお父さんは、「でもそうしてくれって言ったのはあいつの方だし」みたいな言い訳を持っていて、しかも恥知らずにも、結構本気でそう思っていたりするんだろうな、とかさ。

 

この話については、また触れます。

やはり共時性を感じた、っていうか、要するに偶然の一致があって、最近、両国シアターχでやってた「エウメニデス」ってギリシア悲劇を観に行ったんですけども。これが、すごく母性について示唆の深い物語だったんですよ。

グウェンドリンの物語では、まあお父さんへの気持ちが大事なテーマになっているとは思うんですが、以前にも書きましたが、それ以上にもっと、お母さんへの気持ちが、重要なテーマになっている。

死の国の女王オデット。

ぶっちゃけ、この人のこと書くときには、グウェンドリンの母親の話は避けられないと思っています。今日はちょっとフライング気味でしたね。

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コメント

お久しぶりですにぽぽだいさん!ちょっとこない間にいつの間にかグウェ母についてガッツリかたっていただいちゃって恐縮気味なマチコです。
実際問題こんなお母さんが本当に公式だったら私はここまで書いてはいないと思います。にぽぽだいさんの言うとおり二次創作、と割り切っているところは凄く多いです。そもそもグウェ母を書き出したキッカケはあまりにも自分的にグウェが救われていないと終焉を見て思ったからなんです。
オーダインとグリセルダのシーン。グウェンドリンは?オズがいるから?だからグウェについて何もいわない?と浅いながら考えてもどうしてもグウェが救われないと感じてその結果グウェンドリンを幸せにしたい→オーダインについて考えよう!→アリエルママについて妄想が膨らむ(脱線)→じゃあもう一人の女、妻は?というふうにもともとの目的から色々通った結果グウェママについて妄想がひろがってしまったので基本としてはグウェンドリンを幸せにっていうところからできているんです。
だからグウェンドリンの視点のように、といっていただけたのはそれが残っているからなんだと思います。
それが妄想を膨らませるにつれ自分の中でグウェ母が固まってきてグウェ以上にグウェ母を幸せにしたいと思ってしまったのがれいの話ができたきっかけだったり…いくらそれが諦めににた境地だとしてもグウェ母にとっての幸せな形で終わらせたかったんです。とか勝手に長々すいません。
でもにぽぽだいさんの言うとおりきっとオーダインは罪の苦しみと同時に救ったくらい思ってる可能性あると思いますよ。彼女が望んだ、彼女の望みをかなえた、それが望んだ事だから。みたいな意識。
オデットのときに母の考察が読めるようなので楽しみにしています!
こんな長く考察していただけたのにビックリしつつも凄く嬉しかったです!ありがとうございました!

マチコさま、お久しぶり、ってほどでもありませんけど。
コメントありがとうございます。にぽぽだいです。
通販始められたんですよね、マチコさまの本、欲しいなぁ。本名ではなく「にぽぽだい」で局留めが使えるかどうか、まだ調べてないんですけど、可能なら注文したいです。
しかし新作の「あの子を殺す夢をみた」が、また、素晴らしいですね。
おれは自称シンクロ率400%でグウェンドリンに絶賛感情移入中ですけども、正直、マチコさまには全然かなわないな、と。マチコさまの書くものを、グウェンドリン自身が書いたように感じることがある。
今回のコメントを拝見しても、改めてそう思いました。
そう、確かに終焉の時、オーダインのもとを半透明なグリゼルダが無言でおとなう。
あのグリゼルダが、本当にグリゼルダなのかどうか、多分、世間では意見の分かれるところじゃないかな、って思うんだけど、今回のコメントを拝見する限り、マチコさまは、オーダインの幻想、とお感じなのかしら、って想像したんですけど。おれもそう思っているんです。まあ、エヴァンゲリオンの印象を引き摺ってのことなのかな。
世界の最後に至っても、ずいぶんと自分に都合のいい夢を見るもんだよな、この親父は、みたいな。そのとき、グウェンドリンは、思い出してももらえない。
おいおい、なんだよ、それは。
…とかな。マチコさまもきっと、そんな感じを持ったんじゃないのかな、って勝手におれは想像しているんですよ。おれがそうだったから。
それってさ、でも、おれやマチコさまの気持ではなくて、きっとグウェンドリンの気持ちなんじゃないか。
だって、マチコさまが書くグウェ母は、グウェンドリンに似すぎているんだもん。
オーダインの心に残りたいから、その手で絞め殺してもらいたい。それって、まさにホルン山の叛乱で、グウェンドリンが父王に望んでいた事そのものじゃないですか。
マチコさまが、グウェ母の物語の出発を、グウェンドリンを幸せにしたかったからだっておっしゃるのがすごく分かります。
自分を責めていたばかりだったグウェンドリン。でも、そうとばかりは言えないよ、自分が至らない娘って言うよりかも、父王が結構ひどいオヤジじゃん?と気が付き始めて。父への怒りをはっきり自覚し始める、しかし、怒りを持つこと自体への罪悪感、絶望、やはり自分を責めたくなる、そんな気持ちの振幅の中で。
それでも、グウェンドリンは、昔のように、単純にイイモノとワルモノの物語にはもどるまい。オズワルドが、自分の小さい頃のことを、「全てが偽りというわけではなかったかもしれない」と少しずつ、上書きしていく、そんな風に、新しく自分の物語を、少しずつ語りなおしていくのではないか。
だって、いま、オズワルドがいる。気づけば、ミリスがずっと傍に居てくれた。ブロムもいる、思い返せば、グリゼルダだって。
オーダインの幼稚さやわがままも、見方を変えれば可愛らしい無邪気さかもしれない。そんな風に思える余裕が、グウェンドリンにも出来てきたのではないか。
グウェンドリンが、そうなりたい女性、或いは、いまならそう振舞えるかもしれない女性、終焉前後のグウェンドリンが、自分の母を想像する時、そんな、ある意味ちょっと理想的な女性として想像するんじゃないのかな。それは、グリゼルダが生きていたころの理想像、戦い果てるワルキューレとは違う、むしろその正反対なんじゃないかな、とか。
マチコさまが書くグウェ母、ワルキューレの生き方に疑問を付し、オーダインを心理的に手玉に取る、子供っぽいオーダインを父親としてのポジションに追い込む、それって、まさにグウェンドリンの願望なのではないか、って。
それでも。それでも、それでも。
すっかりは、そんな母を肯定しきれない。
やっぱり、自分がホルン山で父親に迫ったのと同じように。自殺行為を突き付けて、オーダインの反省を迫りながら、そして、奇麗にスルーされてしまうのだろう、と、思わざるを得ない。
だって、本当にそんな母親だったなら、いま、グウェンドリンがこんな思いしているはずないんだもの。
そして「あの子を殺す夢をみた」ですよ。
理想を重ねた母の限界。それはすなわち、自分の限界。母が絶望に勝てず死んだなら、自分もまた。
母として、生きていくことなど、できはしない。
おれは想像します。この話は、タイトルの通り、夢なのでしょう。目覚めれば、傍らにオズワルドのいるいつも通りの朝。冷たい汗に寝衣が肌に張り付いて、自分の体を抱きしめて、高熱でもあるように歯をがちがち噛みならすグウェンドリンを、みんなが心配そうにのぞきこんで。
でも、誰にも言えない。自分は、夢の中であの子を殺したの。可愛い女の子だった。小さな、青い、小鳥のような。私を慕って泣いていた。
あれは私だった。
母としての自分が、娘としての自分自身の死を望んでいる。母が自分の死を望み、自分も母の死を望み。自分もまた、自分の死を望んでいる。それが、本当にそうかは、わからんですよ。でも、グウェンドリンは、そう思っている。
「あの子を殺す夢をみた」って、そんな話だと感じました。
 
「息を殺して私を殺して」の話に戻るんですけど。
マチコさまは、今回のコメントで、やっぱり、グウェ母にとってのハッピーエンドだっておっしゃっている。
だけど、グウェンドリンのホルン山での叛乱とかぶって見えるおれには、どうしても、悲惨な結末にしか見えないんですよ。
罰を与える父が「お前もいとしい娘なのだ」と。父の腕の中で「その言葉をずっと聞きたかった」って、グウェンドリンは、その瞬間はあたかも幸せであるかのように微笑む。
グウェンドリンに言わせたら、そりゃ「ハッピーだ」って言うだろうと、思うんですけど…。
そこらへん、400%を自称しても、おれには、心底「それは本当にハッピーだね」とは言ってあげられない。そこんところで、マチコさまにはかなわない。
でも、そこで絞め殺されたいと思うことは、魔法の眠りから再び目覚めた後に、オズワルドに出会う奇跡を、否定する、ってことなんだよ、グウェンドリン。そんな出会いなどない、死と罰と罪悪感よりも、深く心に残るものなどないのだ、と。
いいや、そんなことはない。
オズワルド様なら、必ず否定する筈だ。
「君は、物なんかじゃない」って。「誰にもそんな扱いはさせない」って。
グウェンドリン自身にも、だ。
君は、君自身を物扱いなどせずに、生きていける。新たに、今、ここで生まれた、新しい星としての君を、その胸に抱いて、育める。
怖さは分かる。不安も分かる。
でも、それを超えて、なお愛しい気持ちがあるだろう?
いま、聞いた覚えのない子守唄が、君の口をついて流れ出るだろう。いいじゃないか、知らない歌を歌ったって。少々でたらめだって、ときどき詰まったって、構いやしないさ。
俺も、ほら、一緒に歌うから。
オズワルド様は、きっとそう言ってくれる。っておれは想像したいのですよ。
 
そんなこと言ってもらったって、怖いもんは怖いでしょうけど。
やっぱり、お父様の腕の中で死んでおればよかった。
正直、グウェンドリンには、そんな気持ちがあるんだろうな、って。自由とか、解放とか、誰かと信頼し合って幸福になるとか、そんな眩しすぎるもの、白々しくってとても信じられない。
ゲド戦記の第二巻「壊れた腕環」でも、ヒロインのそういう気持ちが描かれていて。助け出してくれたゲドを刺し殺して、囚われの身の安寧を取り戻したいと思ってしまうシーンがあって、おれはすごく好きだった。
マチコさまが、その感じを鋭敏にとらえて、美しい短編小説にされる感性がすごく好きです。
多分、グウェンドリンがそんな子に育ってしまった背景には、実際にグウェ母の「息を殺して私を殺して」に描かれたような、閉塞と絶望があったんだろうな、って。
おれが「公式の母とはきっと随分違うだろう」と思ったのは、「さあ踊って頂戴私の舞台で」の頃の前半のお母さんです。それが、見事に本編に着地したなぁ、と思いました。エピソードとしては、当然違うんだろうけど。気持ちの上で。
夫に対して、ああ、この男からは真の理解や共感なんか得られない、精々は、まるで呪いのように、罪悪感という拘束をかけて印象に留まるほかないのだ、と。それは、彼に愛されることを諦めること、にとどまらない。自分が相手を愛することも同時に諦めてしまったことではないかしら。さらには、自分で、自分自身を愛することさえ、諦めてしまっているのではないか。
その鬱屈。窒息。絶望。
すばらしい。
それを幸福なのだ、と。それでも、最後まで自分を欺き続け。グウェ母は、娘と違って目覚めぬ眠りに就くのですよ。
グウェンドリンは、その無念と呪いの娘なんですね。
最高です。
 
オーディンスフィアのファンサイトというより、マチコさまのファンサイトという趣になってしまいました。
いつも長くてすみません。
今後も素晴らしい作品楽しみにしています。お体に気をつけて、今後も更新がんばってくださいね。

お久しぶりです、こちらに返事しようしようと思いつつちょっと色々作業していたためコメント残せずにいました…
私の書いた話でそこまで考えてくださってるのに感動する勢いです。なんかもうにぽぽだいさんが補完してくれて一つの話、みたいな。
オーダインが死ぬときグウェのこと思い出しもしなかったときに関してはまさにその通りなのです。なに一人完結して幸せな自己満に浸ってんだこの人は。それが原因であの主人公5人の中でグウェにかかわるものが多くなったんですもん。
わりと自分の中でオズもメルもベルもうさぎ王子も完結してるんです。というか一番不意に落ちなかったのがほんとグウェに集中しているというか…
そこから前に書いたように脱線してグウェ母のところへ行くんですが連作のような形になってるのは単純に最初にまだ形になっていないからなんです。
最初はこんな感じでいてほしい、って思っていても書くたび少しずつ母像が変わっていって、そうゆう変わっていく点や私の感じたことが変わっていっているのもグウェが作り出した母像、っていう印象になったのかもしれません(恐れ多いことですが)
正直グウェからしたオズワルドについても描きたかったりもするんですがそれを書くとグウェがほんとひどい子になっちゃいそうなんですよね…正直本当にグウェからしたオズは最初恐怖の対象でしかなかったと思っていますし、にぽぽだい様の言うとおり幸せというもの自体ないものとして感じていそう。終焉を終えたとき確かに最初と比べれば変わったかもしれない。確実に変化しているけれど幸せなふとした瞬間違いを感じたりしそうだな、と。たとえばお送りした本のようにオズが歌を歌っている。それは子守唄。グウェには母や父からの子守唄は聞いたことないんじゃないのかなって。歳的に子守唄が必要なときにミリスはまだ城にはいないだろうし子守唄という暖かくて懐かしい存在知らないんじゃないかって。
だからこそ自分に子供ができたときに何していいか分からないだろうし家族が当然のようにする事が分からないんじゃないかと思っているんです。
オズはなんだかんだで知ってはいると思うんです。ミリスたちに教えてもらってどうすればいいかは分かっても、どこか暖かい感情があっても、不安、恐怖とかの負の感情は隠しきれないときはありそうだなと。そんな時期がありながらやっと穏やかな過去を見返せる余裕を持てる女性になるんじゃないかなとか思っています。

なんだかまただらだらと書いてしまいすいません…最近サイトではおでんの事話してはいないですが離れるとかって訳ではないのでこれからもヨロシクお願いしますね!では、失礼しました

にぽぽだいです。
マチコさま、コメントありがとうございます。返事が遅くなって済みません。
本の発送ありがとうございました。っていうか、実はまだ、手元にないんですよ。なんかよく分からない事態で、郵便局に問い合わせても、見つからないというんです。局留めの利用は特に申し込みも届け出もいらないという筈だったのに、なんか違うこと言われるし。訳分からん。
せっかくの本なのに。無事見つかるといいんですが。
 
グッバイマイハートさまでの新作、お美しいですね。
マチコさまが「子守唄」という言葉に何を託しておられるのか、ようやく分かったような気がします。

オズワルドとグウェンドリンは違う。でも、その違いは、子守唄を知っているか、知らないか、ってところじゃないんじゃない? とか、おれが思っているだけですが。
グウェンドリンは、子守唄についての知識の有無、が大事だと思っている。
オズワルドは、多分、そんなことどうでもいい、と思ってんじゃないか。
子守唄は確かに、親の愛の象徴かもしれない。でも、象徴は象徴。結局その程度の物。愛情それ自体とは違う。
 
子育てに、というか親子の関係も含めて、人と人とのつながりに、正解とか、絶対とか、ないじゃないですか。子守唄を唄う、唄わない、という表面的のことより、気持ちは、もっと、深いところに、形にならず、流れる、蟲師が扱う蟲みたいなものなのかもしれない。
そのことに半ば気付きつつ。でも、グウェンドリンは、即物的なものにすごく縋りついて、こだわってしまうんだろう。グウェンドリンのそんな側面を、マチコさまが見事に描かれている、と思いました。形ないものに、自信がない。自分は愛されなかった。愛を知らない。「愛」という得体の知れないものに自信がないから、せめて形ばかりはちゃんとと思うのに。私は、子守唄さえ満足に知らない。
オズワルドは、そこを越えてきた人だ。中身を奪われ、形あるものに全て裏切られて、でも、死にきれず生き残ってきた、自分がいる。
死の淵でも、生きれば、いい。心が空っぽなら、満たせば、いい。それが、子守唄でなくても、所謂「愛」でさえなくても。別にかまいやしない。この地上に、君がいる限り。
 
「君は物なんかじゃない」って、そういう意味の発言だったと。おれの想像では。
物じゃない、と否定形で、限定する枠を外して、でも、「本当はナニナニだ」等と枠をはめ直したりはしない。はずしっぱなし。ドレスも槍も指輪も、すべて、並列。出しっぱなし。グウェンドリンは、どれかを選んでもいい。何も選ばなくてもいい。すべて同時に抱えたままでいい。矛盾したままで、構わない。
そんなことより、もっと、大事なことって、あるんじゃないか? そういう問いかけではないか、って。
それはオズワルドからの問いだけど、オグウェンドリン自身の自問でもあるんじゃないかな。
この辺のことは、次のリプレイ日記で書くつもりなんですけど。
そういう問いかけ、って本当怖い。
槍を揮って、手柄を挙げ、武名を揚げ、それが、一体、なんだっての? みたいな。仮に、それでお父様に寵されたとして。だから、何? みたいな。ゲーム中で青い鳥が投げつけてくる問い。
それに対して、グウェンドリンは言い訳が欲しい。
 
マチコさまが書くように、グウェンドリンは、多分、オズワルドは子守唄を覚えている、って空想するだろうな、っておれは想像しています。
実際オズワルドがどうかではなく。
ぶっちゃけ、おれは、オズワルドの方が、子守唄を覚えている可能性は低いと思います。だって、妖精の国育ちですよ。あのメルヴィンが父親代わりですよ。人間の赤ん坊は最初歯も生えてなくて、乳しか飲めないんだ、ってくらいの基本的知識すら、無いかも知れませぬぞ。
まだ、おぼろげながらも、母の思い出も残しているらしいグウェンドリンの方が、ずっと子守唄を記憶している可能性が高いと思います。
でも、グウェンドリン自身はきっと、オズワルドの方が親に愛されていたに違いない、って、思いこんでそうな気がする。
オズワルドが「君は物なんかじゃない」と問いかけてくる、その恐ろしさ。その問いによって浮かび上がる、彼女の空っぽさ。対して、彼の自信。力。愛。
だって、だって、私は、愛してくれる人が誰もいないのですもの。母の子守唄さえ思い出せない。きっと、オズワルド様は、子守唄を覚えてらっしゃるでしょう? 親の愛情に育まれた方に、私の気持ちなど、分かるはずありません。みたいな。
自分が、望みさえすれば、本当は、なんでもできることを、認めたくない。
父に反抗することも、オズワルドを救うことも、子守唄を唄うことも。終焉を越えて、生き延びていけることも。認めたくない。考えたくない。
そうよ、しないのではないわ。出来ないのよ。そう、出来ないの、だって、私は空っぽだもの、愛されなかった、誰にも歌ってもらえなかった、与えられなかったのだから、そこに何もない。私が悪いのではないわ、最初からなかったの、その力を、与えられなかったの。
「ちがう。君は物なんかじゃない」
「誰にもそんな扱いはさせない」
やめて。やめてやめてやめて。私は出来ない。私は出来ないのよ。知ったような顔はやめて。あなたには分からないのよ、愛されなかったものの痛みと無力感が。あなたみたいな自信たっぷりの人、きっと、お母さんにもかわいがられて、歌ってもらったのでしょう、でも、私は知らないのよ。子守唄なんて、聞いたこともないのよ。
グウェンドリンは、自由を放棄する言い訳が欲しいのだと思う。母親として、拙くても精一杯我が子を愛し哺んでいく責任に、背を向ける言い訳が。
 
マチコさまが、「グウェンドリンがひどい子になっちゃいそう」というのは、そんなあたりなのかな、と想像したりして。
おれは、たとえそういう気持ちになってたとしても、別に、そんなにひどい子だと思わないですが。その気持ち、よくわかると思う。人情として、もっともだ。ごく自然な気持ちだと思う。普通ですよ。
その気持ちを、もしひどいなんて言ったら、それこそひどい。厳しすぎる。自由の責任は、誰にしても、重い荷持です。重いよ、嫌だよ、勘弁してくれよ。そう思って当然。
例えば、学生の身分から、バイトではなくて正規に就職したりとか。子供が生まれた、とか。親が退職して、こっちが面倒見なくちゃいけなくなった、とかさ。自由って、同時にそういうことを背負いこんでいくことでしょ。嫌だよ。例え、親に門限定められるような不自由な身分でも、子供として脛かじりしてたことろに戻りたい、とか、結構本気で思うよね。おれだけ?
思うくらい、いいじゃんか。許してくれよ。誰に言い訳してんだ、おれは。別に、実際ニートになりゃしないんだから、言い訳くらいしたっていいじゃんか。
マチコさまなら、許してくれそう。マチコさまの作品には、そういう優しさというか、寛大さがあって、好きです。
 
返信が長くて、済みません。いつもコメントありがとうございます。
最近、更新さぼりがちのおれが言えることじゃないけど、いつも更新楽しみにしています。頑張ってください。ろめいんれたすさまが閉鎖とか、ショックでしたけど、マチコさまは今後も続けて行かれるみたいで、とても嬉しいです。
では、お体に気をつけて。

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