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2007年7月 4日 (水)

オーディンスフィア リプレイ日記7 「ワルキューレ」第二章

ベルベットって、第一印象的には、悪役でしたよね。そう思ったのは、おれだけかな。悪役っつうか、好敵手?

青と白銀の戦乙女の向こうを張る、赤と黒の魔女。

…セイバーに対する遠坂のポジションではありませんか!! ∑(゚д゚) 

まあ、濫觴をたどればアムロとシャアなのでしょうが。とにかく、現代のジャパンサブカルシーンで、色彩的な対概念の最も力ある一組みです。意図なきカラーリングとは信じません。


一章の終りでも、グウェンドリンが全霊を傾けた戦いを「愚か」と切って捨てる高飛車さがムカついたわけですが、二章でも「無知蒙昧」と憐れみ「戻って魔王に告げるがいい」と子供の使い扱い。とにかく、物言い、視線が、上からなんですよね。 

これがグウェンドリンにはカチンとくる。「あらあら、世間知らずなのね」と言わんばかりの、余裕の態度が我慢できない。 

そう、確かにグウェンドリンは知らないからだ。自分が、何者なのか。自分はどこに立っているのか。知っている、分かっている、と思いこもうとしていた。しかし、そうではなかった。その無知や限界を突きつけられたばかりの、傷はまだ生々しい。 

ベルベットはそこを直撃してくるじゃーないですか。 



あとでベルベット篇を読むと、このときのベルベットは余裕かますどころではなくて、世界の破滅の瀬戸際で、彼女自身の不安に押しつぶされそうになっているのが分かるわけですが。 

でも、このときのグウェンドリンには分らない。 

今、このグウェンドリン編「ワルキューレ」に登場する森の魔女、ミステリアスで余裕に満ちた大人っぽい女性は、本当のベルベットというより、グウェンドリン自身が、自分の不安に姿を与えた何か、とおれは感じたんだけど、考えすぎかな。 

グウェンドリンの中では、あるいは小鳥と同列の。 

第二章四幕「小鳥は魔女に問う」のやり取りが、なんだか、グウェンドリンの独り相撲と言うか。そんな感じ。「命が惜しいのか」と安い挑発をしたり、「無知蒙昧」と言われて「そんな予言くらい知ってるもん」と唇尖がらせて抗議する子供っぽさとか、お前は雑魚の悪役か、と。 

でも、今のグウェンドリンには、それしか引き出しがない。 



ベルベットは確かに余裕のある状態ではないんだけど、ベルベット編「運命とともに」によれば、この時、ベルベット側はすでにグウェンドリンが自分の異母妹(劇中で「義妹」と言っているんだけど、間違いだよね)であることを気づいている。 

おれは想像するのですが、だから、ベルベットは、グウェンドリンのことを「何も知らない幸せな子」みたいに思っていたかもしれない。正規の結婚の中で、祝福されて生まれて。母親を幼くして喪くしているのは、ベルベット自身と同じだが、しかし、グウェンドリンの母は、正統な王妃として、皆に悼まれて逝ったのに違いない。そして、その娘も、自分の父親の身勝手さを知らず、無邪気に尊敬し慕っている。 

そんなグウェンドリンは、ベルベットが、本当は、そんな風に生まれ育ちたかった自分像だったりするのではないのかな。本来、そうであったかもしれないもう一人の自分、みたいな 

グウェンドリンのそのありようを、可愛いと感じるかもしれない。大事にしてあげたい気持ちがあるかもしれない。「魔石同士が戦えば、お互いただではすまないわ」というセリフに、今から聞くと、そんなお母さん的お姉さん的思いやりを感じられる気がするんですが、いかがでしょうか。 

他方、なんというか、正直、羨ましい。しかし、羨ましさを認めることは、悔しい。自分が決定的に何かを欠いていると、認めてしまうような怖さがある。だから「あんたは良いわよね、両親揃った家庭に祝福されて生まれて」とか、口が裂けても言えない。そこにはグウェンドリンを傷つけたくないという気持ちも、やはり混ざっているかもしれない。複雑です。 

その辺の複雑さで、ただでさえ余裕のないベルベットは、ますますいっぱいいっぱいな気持になって、突っかかってくるグウェンドリンの苛立ちにまで思いが至らない。無理もないですけど。グウェンドリンが、自分の苛立ちをぶつけてくるのに対して、つい「こっちだって、いろいろ大変なのよ。あんたみたいなお子様にわかんないでしょうけどね!」みたいな、口ではそこまで言わないけど、つい態度に出てしまう。そうなると妹の方だって「何よ、お姉ちゃんだってなんにも分かってないくせに!」って、なおいきり立つわけです。 

四幕って、そういう情景なのかな、って、思っています。 



そんな風な想像から見ると、この二人の関係、って本当に姉と妹な感じだな、って、おれは思ってしまったり。 

グリゼルダとグウェンドリンの、圧倒的に強く正しい姉と、それに憧れてひたすら追従する妹、みたいな、美しいヅカっぽいイメージの姉妹像って、ぶっちゃけ信じられない。ないだろ、それ。 

それに比べると、昔懐かし「あさりちゃん」風というか、原作版「ちびまるこ」っていうか、いろいろぶっちゃけ過ぎ!みたいな、そういう姉妹の方がリアリティあるというか。偏見? 

ベルベットとグウェンドリンのこの出会いの場では、グウェンドリンはまだ相手が異母姉とは知らないわけですが、その競争意識とか、エゴのぶつけ合いとか、いかにも姉妹のやり取りっぽくて、ある意味微笑ましい、とは思いませんか。思いませんね。そうですか。 



おれはさらに想像するのです。グウェンドリンにとって、本当は、この気持ち、グリゼルダに向けたかったのではないかな、って。 



この話はもうちょっと続くけど、長くなったから、続きはまた今度。 

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